史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「「旧説vs新説」幕末維新43人」 安田清人著 MdN新書

2022年01月29日 | 書評

本書は幕末維新期に活躍した著名な人物四十三人を取り上げ、旧来の人物像を新説で塗り替えようというものである。

たとえば、勝海舟は「西郷との膝詰め談判で江戸の町を戦災から救った」偉人として知られるが、最近では「「無血開城」の前交渉を行った山岡鉄舟の役割」を評価し、相対的に海舟の貢献度は低下している。

西郷隆盛については「倒幕の道筋となる薩長同盟締結の立役者」とされているが、実際には「同盟ではなく連携程度」のものであり、しかも「西郷に連携を命じたのは久光」であるといわれている。また同盟締結の薩摩側を代表するのは、西郷ではなくて小松帯刀であり、薩長同盟というより「木戸・小松覚書」が実態であったと見るのが最近の有力説となっている。

坂本龍馬は、誰もが知る「脱藩浪士でありながら、明治維新を成し遂げたヒーロー」であるが、最近では「薩長同盟の立役者」とする見方も否定されており、専ら「偉人ぶりはフィクション」とされている。

このように時間の経過ともに、人物の評価は変化している。しかし、全てを「旧説vs新説」で片づけてしまうのも無理があるのではないか。

三条実美は、旧説では「優柔不断で、プレッシャーに弱い「お飾りの宰相」」だったのが、新説では「変転・反目する政府内で長く調整役を務めた有能な宰相」だと、新旧両説を紹介しているが、この人は新旧どちらかの説で割り切れる人ではなく、両方の側面を持ち合わせているのではないか、という気がしてならない。

井上馨は、旧説では「財界と深く結びついた金権政治家」であるが、新説では「国家経営に肝心な「金勘定」ができた政治家」とされている。井上にしても両方の側面を持ち合わせた人物であり、どちらか一つで評価するのは無理がある。

本書は、一人について四ページという「割り振り」になっている。一人ひとりが幕末維新において重要な役割を果たした人物ばかりであり、とてもわずか四ページで新旧両説を語り切れるものではない。本来であれば、一人について一編の論文となるくらいの内容を、四ページに圧縮しているので、やや消化不良感が残る。これを入門書として、詳細は巻末の参考文献を読んだ方が良いだろう。

 

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「幕末大江戸のおまわりさん 史料が語る新徴組」 西脇康著 文学通信

2022年01月29日 | 書評

同じ浪士組をルーツに持ちながら、新選組と比べて、新徴組の人気の無さは気の毒なくらいである。新選組が政治の舞台となった京都で華々しく活躍したのに対し、新徴組は江戸で治安維持にあたった。池田屋事件や禁門の変のような歴史的な事変に遭遇することもなく、新徴組の存在は至って地味である。

新徴組は江戸で何をしていたのか。その日々の活動を、残された史料から丹念に掘り起こしたのが本書である。感動的なドラマが待っているわけでもなく、退屈といえばやや退屈ではあるが、タイトルにあるように新徴組が江戸で「おまわりさん」的な役割を果たしていたことは良く理解できる。

歴史的な事件は起きないまでも、江戸は当時世界有数の大都市であった(人口は六〇万人とも百万人ともいわれる)。これだけの人口密集地帯で、日常的に何も起きないわけがない。強盗、強請(ゆすり)、殺人、泥酔などが息つくヒマもなく発生し、都度新徴組は出動する。時には業務で命を落とすこともある激務であった。

新選組との大きな違いは、新徴組士は庄内藩士に取り立てられ、家禄を支給され、組屋敷を与えられた点である。新選組のように、粛清はなかったし、家族との同居も許された。さらに当人が死亡したら、嫡子や弟などが跡目を継ぐことができた。本書で頻繁に「回想録」が引用され、「最後の新徴組隊士」と呼ばれる千葉弥一郎も、自刃した兄雄太郎の跡を継いで組士となった一人である。新選組より遥かに生活は安定していたといえるだろう。

新徴組が歴史的事件に立ち会ったのが、慶応三年(1867)十二月二十五日の薩摩藩邸焼討事件であった。新徴組は、鎮圧部隊の中心となって華々しく活躍した。この事件が薩長両藩の武力討幕の口実となり、鳥羽伏見の戦いの引き金となった。

新徴組にしてみれば、散々江戸市中を掻き乱された相手を掃討し、見事にその遺恨を晴らすことができた。焼討の後、鯨波一声をあげ、整然・堂々と隊列を組み凱旋した。胸がすく思いだったであろう。

しかし、この事件は彼らの運命を暗転させる端緒となった。庄内藩は江戸からの退去を余儀なくされ、新徴組でも庄内に赴く者がいる一方で、脱退して新政府に合流して東北戦線を闘った者もいた。この事変を境に安定していたはずの彼らの生活が変転した。

戊辰戦争では一度も敗戦を味わうことなく、庄内藩は終戦を迎える。庄内藩と新徴組にとって、そこから苦難の道が続く。廃藩置県後、下級武士の生活は苦しく、元組士たちは、帰農して松が岡開墾事業に従事したが、脱走、離脱も相次ぎ、すさまじい内訌、粛正が展開された。命からがら脱出した例もある。

彼らにしてみれば決して間違ったことはしていない。懸命に職務を遂行し、必死に目の前の敵と戦っただけである。善行や勝利を重ねても、必ずしも報われるとは限らない、という多くの人が経験する悲哀を新徴組でも見ることができる。

 

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「花山院隊「偽官軍」事件」 長野浩典著 弦書房

2022年01月29日 | 書評

「花山院」と書いて「かさのいん」と読む。手元の「明治維新人名辞典」では「かざんいん」と読んでいるので、どちらが正しいのか判断がつかないが、本書では「かさのいん」を採用している。

幕末の偽官軍事件としては、赤報隊、高松隊が知られるが、花山院隊による御許山挙兵は、知名度はずっと劣る。個人的にもこれだけまとまった分量で花山院隊のことを読んだのは、高木俊輔の「明治維新草莽運動史」(勁草書房)以来である。

花山院隊事件の中心人物は、公家の花山院家理(いえさと)である。しかし、家理自身はこの草莽隊の首領に担ぎ上げられながら、九州まで行くことなく拘禁され、京都に送り返されている。一連の騒動において、花山院家理の存在感は希薄である。

唯一、家理が存在感を発揮した場面は、慶応三年(1867)十二月二十五日、馬関(現・下関)から山口訊太郎(または卂太郎)、下村次郎太、山本土佐(小島菊之助)荒金周平(金周平)らが、周防大島の覚法寺にて花山院に拝謁した時であった。彼らは、京都で王政復古が成り、太宰府に流されていた三条実美らも京都に戻ることになった、という情報を持ち帰った。花山院に対し、「京師御一新となったが、義挙の大義名分はどうなりましょうか」と問うた。

この時、家理は激怒して、そこに居合わせた面々を叱責、罵倒した。京師を回復したとは言え、徳川は何をしでかすか分からない。大事な時だというのに、因循なことを唱え、義挙を止めようなどというのでは、朝廷に顔向けができない。九州での義挙は、暗殺された高橋清臣らの復讐でもある、と言い放ち、誰も反論はできなかった。「花山院隊事件を通して、影の薄い花山院自身が、この時ばかりは強烈な個性を発揮した」と筆者は特記している。花山院の一喝で「義挙」の決行は決定されたのであった。

家理は、勅書を得るために同年十二月二十日、児島長年を京都に派遣している。児島長年は、別に児島備後(備後介)、児島三郎という名前でも知られる。後醍醐天皇に仕えた名和長年に因んで「長年」と称したといわれる。赤穂の商家の出身であるが、長州の奇兵隊に加わり、花山院家理担ぎ出しの中心的人物であった。

児島長年は、慶應四年(1868)正月六日に朝廷に呼び出され、三条実美と会うことができた。三条は、家理に帰京を促し、九州の同志も集めて上京させ、王事に尽くすようにとの内命を伝えた。つまり、九州を鎮撫するとか、挙兵せよといったものではない。これは家理が待望していた勅書ではなかった。名年が三条の「内命」を長州に持ち帰った時には、家理は長州藩に拘束され、取り巻きの隊士たちも捕縛されていた。

長州に戻った長年は、直ちに長州藩に拘束され、取り調べを受けた。長年は、頑なに自らの正当性を主張し、勅旨を奉戴していること強調したが、長州藩吏はこれを信じなかった。長年は憤慨し、抗議のために絶食して死んだといわれる。

長州藩は奇兵隊等からの脱隊に対して厳しく対処している。周知のとおり諸隊は武士、農民、商人など様々な身分から構成されている。そのような軍隊を維持するためには、「脱隊すれば斬首」という極刑で対応せざるを得なくなる。第二奇兵隊の脱隊騒動はその典型的な例であるが、報国隊から脱走した花山院党もその例外ではなかった。

慶應四年(1868)一月十三日、花山院隊の総裁格と目された藤林六郎と小川潜蔵が捕縛される。この前後、ほかの花山院隊の面々は一斉に報国隊を脱隊し、船で豊前に向かった。彼らは躊躇なく(花山院家理を迎えることなく)そのまま四日市の陣屋を襲撃し義挙を敢行した。

長州藩が鎮撫に動き出したのは、一月二十日前後である。まず下関において、先に捕縛した藤林と小川を斬首。報国隊の福原和勝、野村右仲(のちの素介)率いる奇兵隊が豊前に向かう。花山院家理やその取り巻きが拘束されたのも一月二十日のことである。御許山の花山院隊は、一月二十四日までに完全に鎮圧された。長州藩の動きは迅速であり、迷いがなかった。

佐々木克は、「新政府の草莽に対する態度が大きく転換するのは、一四日から一六日あたりではないか」と推測している。鳥羽伏見の戦いの勝利後、一月十日、新政府は徳川慶喜以下を朝敵として追討する旨の布告を出した。西日本の諸藩が新政府になびきだし、続々と勤王の誓詞を提出した。この動きに伴って急速に草莽隊の利用価値が低下した。相楽総三の赤報隊に対して帰洛命令が下されたのは一月二十五日のことである。

筆者は、藤林や小川が捕縛された一月十三日から、彼らが処刑されるまでの一週間で流れが変わったと推定している。一月十三日の時点では、長州藩内に花山院本人が滞在しており、簡単に手を出せなかった。新政府の草莽弾圧の方針が明確になると、それと連動して花山院党の制圧に動いたという推論は説得力がある。

本書は、筆者の表現を借りれば「戊辰戦争の裏庭」で起きた花山院事件を多面的に解析した価値ある一冊である。ほとんど忘れ去られた一連の事件に光をあてた功績は大きい。残念ながら遠崎の勤王僧月性を「西郷隆盛で入水し死亡した」月照と混同している(P.189)のは明らかな誤り。版を重ねるのであれば、訂正していただきたい。

 

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