「花山院」と書いて「かさのいん」と読む。手元の「明治維新人名辞典」では「かざんいん」と読んでいるので、どちらが正しいのか判断がつかないが、本書では「かさのいん」を採用している。
幕末の偽官軍事件としては、赤報隊、高松隊が知られるが、花山院隊による御許山挙兵は、知名度はずっと劣る。個人的にもこれだけまとまった分量で花山院隊のことを読んだのは、高木俊輔の「明治維新草莽運動史」(勁草書房)以来である。
花山院隊事件の中心人物は、公家の花山院家理(いえさと)である。しかし、家理自身はこの草莽隊の首領に担ぎ上げられながら、九州まで行くことなく拘禁され、京都に送り返されている。一連の騒動において、花山院家理の存在感は希薄である。
唯一、家理が存在感を発揮した場面は、慶応三年(1867)十二月二十五日、馬関(現・下関)から山口訊太郎(または卂太郎)、下村次郎太、山本土佐(小島菊之助)荒金周平(金周平)らが、周防大島の覚法寺にて花山院に拝謁した時であった。彼らは、京都で王政復古が成り、太宰府に流されていた三条実美らも京都に戻ることになった、という情報を持ち帰った。花山院に対し、「京師御一新となったが、義挙の大義名分はどうなりましょうか」と問うた。
この時、家理は激怒して、そこに居合わせた面々を叱責、罵倒した。京師を回復したとは言え、徳川は何をしでかすか分からない。大事な時だというのに、因循なことを唱え、義挙を止めようなどというのでは、朝廷に顔向けができない。九州での義挙は、暗殺された高橋清臣らの復讐でもある、と言い放ち、誰も反論はできなかった。「花山院隊事件を通して、影の薄い花山院自身が、この時ばかりは強烈な個性を発揮した」と筆者は特記している。花山院の一喝で「義挙」の決行は決定されたのであった。
家理は、勅書を得るために同年十二月二十日、児島長年を京都に派遣している。児島長年は、別に児島備後(備後介)、児島三郎という名前でも知られる。後醍醐天皇に仕えた名和長年に因んで「長年」と称したといわれる。赤穂の商家の出身であるが、長州の奇兵隊に加わり、花山院家理担ぎ出しの中心的人物であった。
児島長年は、慶應四年(1868)正月六日に朝廷に呼び出され、三条実美と会うことができた。三条は、家理に帰京を促し、九州の同志も集めて上京させ、王事に尽くすようにとの内命を伝えた。つまり、九州を鎮撫するとか、挙兵せよといったものではない。これは家理が待望していた勅書ではなかった。名年が三条の「内命」を長州に持ち帰った時には、家理は長州藩に拘束され、取り巻きの隊士たちも捕縛されていた。
長州に戻った長年は、直ちに長州藩に拘束され、取り調べを受けた。長年は、頑なに自らの正当性を主張し、勅旨を奉戴していること強調したが、長州藩吏はこれを信じなかった。長年は憤慨し、抗議のために絶食して死んだといわれる。
長州藩は奇兵隊等からの脱隊に対して厳しく対処している。周知のとおり諸隊は武士、農民、商人など様々な身分から構成されている。そのような軍隊を維持するためには、「脱隊すれば斬首」という極刑で対応せざるを得なくなる。第二奇兵隊の脱隊騒動はその典型的な例であるが、報国隊から脱走した花山院党もその例外ではなかった。
慶應四年(1868)一月十三日、花山院隊の総裁格と目された藤林六郎と小川潜蔵が捕縛される。この前後、ほかの花山院隊の面々は一斉に報国隊を脱隊し、船で豊前に向かった。彼らは躊躇なく(花山院家理を迎えることなく)そのまま四日市の陣屋を襲撃し義挙を敢行した。
長州藩が鎮撫に動き出したのは、一月二十日前後である。まず下関において、先に捕縛した藤林と小川を斬首。報国隊の福原和勝、野村右仲(のちの素介)率いる奇兵隊が豊前に向かう。花山院家理やその取り巻きが拘束されたのも一月二十日のことである。御許山の花山院隊は、一月二十四日までに完全に鎮圧された。長州藩の動きは迅速であり、迷いがなかった。
佐々木克は、「新政府の草莽に対する態度が大きく転換するのは、一四日から一六日あたりではないか」と推測している。鳥羽伏見の戦いの勝利後、一月十日、新政府は徳川慶喜以下を朝敵として追討する旨の布告を出した。西日本の諸藩が新政府になびきだし、続々と勤王の誓詞を提出した。この動きに伴って急速に草莽隊の利用価値が低下した。相楽総三の赤報隊に対して帰洛命令が下されたのは一月二十五日のことである。
筆者は、藤林や小川が捕縛された一月十三日から、彼らが処刑されるまでの一週間で流れが変わったと推定している。一月十三日の時点では、長州藩内に花山院本人が滞在しており、簡単に手を出せなかった。新政府の草莽弾圧の方針が明確になると、それと連動して花山院党の制圧に動いたという推論は説得力がある。
本書は、筆者の表現を借りれば「戊辰戦争の裏庭」で起きた花山院事件を多面的に解析した価値ある一冊である。ほとんど忘れ去られた一連の事件に光をあてた功績は大きい。残念ながら遠崎の勤王僧月性を「西郷隆盛で入水し死亡した」月照と混同している(P.189)のは明らかな誤り。版を重ねるのであれば、訂正していただきたい。