(日尾八幡神社つづき)
権少教正三輪田元綱墓
三輪田元綱の墓を求めて、再度日尾八幡神社を訪問した。浄土寺で三輪田米山の墓を発見したが、そこに元綱の墓はなく、ほとんど諦めかけていた時、日尾八幡神社に戻ろうとしたら、その傍らに元綱の墓があった。このところ、空振りが続いていたが、ここで元綱の墓に出会うことができたのは、何かの御褒美なのだろう。
(浄土寺)
浄土寺は、四国八十八ヶ所第四十九番札所。本堂裏手の墓地に三輪田米山の墓がある。
浄土寺
米山三輪田先生墓
三輪田米山は、文政四年(1821)、日尾八幡神社の神官三輪田清敏の長男として生まれ、名を常貞、号を米山と称した。十七歳の頃、書を学んだが、二十五~六歳の頃、習っていた明月上人の書が王義之に基づくことを知り、王義之の法帖を深く学び、ついに独自の書法を窮めた。六十歳で日尾八幡神社の注連縄石に書いた「鳥舞、魚躍」の字が絶賛を集め、以後数多くの書作を残した。その書風は豪放でエネルギーに満ち、とらわれのない造形美を現出している。米山は万葉集を始めとする古典和歌にも通じ、自ら作った歌数は五万首ともいわれる。明治四十一年(1908)、伊予で没した。墓標の文字は、生前自ら筆をふるったものである。
(常信寺)
常信寺は持統天皇四年(690)、勅令により建立された神宮寺が起源である。寛永十二年(1635)、松山藩主となった松平定行が現在地に移転し、寺号を常信寺と改めた。境内には松平定行の霊廟がある。
幕末の松山藩主久松定昭は、鳥羽伏見に藩兵を率いて幕軍に加わったため、戦後朝敵として追討を受けた。定昭は、慶応四年(1868)五月、藩主を辞して勝成に譲り、自らは常信寺に謹慎した。ようやく咎を許され、蟄居を命じられた。
常信寺
常信寺墓地では、藤野正啓の墓を探したが、代わりに正啓の実弟にして養子となった藤野漸の墓を発見した。正啓の墓は、東京谷中にあるので、そちらに改葬もしくは集約されたのであろう。
久松家(松平定行)霊廟
藤野漸之墓
藤野漸は天保十三年(1842)生まれ。能楽師。五十二銀行(現・伊予銀行)の創立・経営にも関わり、のち二代目頭取にも就いた。妻十重は、正岡子規の母八重の妹で、子規とは叔父・甥の関係である。子に俳人藤野古白がいる。大正四年(1915)没。
(寶塔寺)
寶塔寺には、奥平貞幹、三上是庵の墓がある。
寶塔寺
奥平君諱貞幹墓表
奥平貞幹は、松山藩士で、江戸末期の農政家。通称は三左衛門、月窓と号した。藩校明教館で学んだ後、周桑、久万山、和気郡の代官を歴任し、大きな業績を残したが、特筆されるのは、和気郡における大可賀新田の開発といわれる。嘉永四年(1851)、温泉郡の税収減少に対処するため、同郡別府、吉田両村の海岸地域の干潟に着目し、山西村庄屋の一色義十郎に干拓工事を担当させ、安政五年(1858)には約五十町歩の大可賀新田を開いた。また、第二次長州征討の事後処理にあたり、慶応二年(1866)、周防屋代島で長州の林半七と和議交渉を行った。この時の記録は「月窓之巻」として残されている。明治十五年(1882)、年六十五で没。
是庵三上先生墓
三上是庵(ぜあん)は松山藩士。崎門派儒者である。文政元年(1818)に生まれ、十八歳、二十六歳の二度、江戸に遊学して崎門学を学んだ。二十六歳の時、梅田雲浜、吉田松陰と往来して時局を論じた。のち綾部藩の九鬼氏、田辺藩の牧野氏に仕えたが、慶応三年(1867)に松山に帰り、藩主松平定昭の顧問となった。王政復古後の戊辰の役では、恭順論を唱え、それに従った藩主父子は城を出て謹慎したので、土佐藩兵が松山藩領に進駐した時に、何の変事も起きなかった。明治四年(1871)、三上学寮という私塾を開き、後進の指導に当たった。明治九年(1876)、病のため没した。
(龍泰寺)
龍泰寺
龍泰寺周辺は寺院が密集する松山市の寺町である。龍泰寺は、近藤名洲らを生んだ近藤一族の菩提寺である。
近藤名洲先生之墓
南洋近藤先生墓
南崧近藤先生墓
近藤名洲は寛政十二年(1800)の生まれ。文政二年(1819)、松山城下の心学者田中一如に入門。のち江戸の大島有鄰について石門心学を学んだ。文政十二年(1829)以降、松山藩の藩主、家中、郷、町一円にわたって道話を行ったばかりではなく、遠江、播磨、備後、周防、伊予大洲、新谷など他藩にも招かれて出講した。弘化元年(1844)、師の没後、松山心学の六行舎教授を継いで、幕末混乱期の庶民教育にも尽くした。長子南洋、三子南州ともに藩校教授となった。二子南崧(なんすう)は家学を継いで地方教育に貢献した。明治元年(1868)、年六十九で没。
(龍穏寺)
龍穏寺
厳正鈴木府君之墓(鈴木重遠の墓)
龍穏寺はロシア人墓地の向かい側にある。墓地には新しい墓石が並ぶが、その中の鈴木家墓地内に鈴木重遠の墓がある。
鈴木重遠は、文政十一年(1828)、江戸の松山藩邸に生まれた。諱は重遠。法名は「厳正院温故重遠居士」。嘉永六年(1853)以降、蘭学を修め、開国論を唱えた。安政四年(1857)、奉行に挙げられ、藩財政を管理し、神奈川砲台築造に功があり、文久三年(1863)、家老に抜擢された。以来、藩主久松勝昭、定昭のもとで、危機に直面した藩政の企画運営に当たった。慶應四年(1868)、朝敵となった藩内で主戦論を唱え、免職閑居の処罰を受けた。のち赦され藩の執政・大参事に挙げられ、藩政改革に功をたてた。明治四年(1871)、廃藩と同時に免官。明治十一年(1878)から明治二十年(1887)まで、海軍省属官として横須賀造船所に勤務。明治二十一年(1888)からは改進党員として、愛媛県内の大同団結運動を指導した。明治二十三年(1890)以降、愛媛県より四回にわたって代議士に選出され、明治二十五年(1892)には全院委員長に推された。晩年、神鞭知常らと対露同志会を結成した。明治三十九年(1906)、七十九歳で没。
(蓮福寺)
粟井河原の蓮福寺に久米駿公の墓を探したが、本堂裏手の墓地は、比較的新しい墓石ばかりで完全に空振りであった。
蓮福寺
久米駿公は文政十一年(1828)の生まれ。諱は政声、駿公は字である。父は松山藩士籾山資敬。のちに久米政寛の養子となった。幼時より聡明で学識非凡であったため、嘉永四年(1851)以降、松山藩世子久松勝成の小姓となった。嘉永六年(1853)の米艦渡来の際、世界の大勢を説き。近隣と相往来すべきとする「隣交論」を著わして、ひとり平和外交を主張した。雅号「知彼斎」を称したが、彼の進取的気分を表している。藩から長崎遊学の特命を受け、素志を果たす機会を与えられたが、安政二年(1855)、果たせず病死した。年二十八。
(高縄神社)
松山市宮内は、旧北条市に属するが、平成の大合併で松山市に吸収された。
高縄神社
縣社高縄神社
松山市宮内の高縄神社の鳥居前に建つ「縣社高輪神社」の石碑は西園寺公望の筆。西園寺が文部大臣兼外務大臣の時、明治二十九年(1896)の揮毫。西園寺の揮毫は、松山出身の加藤拓川(恒忠 正岡子規の妹リツの養子となり、正岡家を継いだ人)の尽力によるといわれる。