(妙雲寺つづき)
慶應元年(1865)三月二十四日、赤沼牢にて武田耕雲斎の家族の処刑が行われた。その日、死罪となったのは、耕雲斎の妻とき四十八歳、倅桃丸(九歳)、金吉(三歳)、長男彦衛門の倅三郎(十二歳)、金四郎(十歳)、熊五郎(八歳)。
彦右衛門武田君之墓
武田氏婦人藤田氏墓(武田いくの墓)
彦右衛門の妻いくは、藤田東湖の妹で、耕雲斎の四女およし、妾う免、山国淳一郎、田丸稲之衛門の家族とともに永牢を申し渡された。
故魁介武田君墓
武田魁介は、文政十一年(1828)、耕雲斎の二男に生まれた。弘化の藩難では、吉成恒次郎とともに雪冤に尽力し、禁固に処された。武術に優れ、指南功労によりたびたび賞された。安政五年(1858)の藩難では父耕雲斎と行動をともにし、元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かい、画策するところがあった。宍戸藩主松平頼徳とともに下国して那珂湊に陣を置き、城兵と交戦した。西上途次、加賀藩に降伏し、慶応二年(1865)二月、斬刑に処された。年三十八。
武田桃丸
武田金吉
武田三郎
武田金四郎 武田熊五郎 墓
武田蓋之墓(武田金次郎の墓)
武田金次郎は嘉永元年(1848)、武田彦右衛門の長男に生まれた。母は藤田東湖の妹いく。諱は蓋。天狗党の挙兵では祖父耕雲斎と行動をともにして、敦賀に禁錮され、慶応元年(1865)三月遠島に処されたが、翌二年(1866)五月、赦免されて小浜藩の獄に移った。明治元年(1868)、赦されて、同年五月、兵を率いて帰藩した。やがて参政に挙げられ、七月には北越追討に出陣した。実権を把握した金次郎は復讐の鬼と化し、諸生党に属する人物を次々と処刑・斬殺して藩内を恐怖に陥れた。後世から見れば、いかにも無駄な殺生ではあるが、復讐にしか己の存在価値を見出せなかった金次郎にも同情の余地はある。明治二年(1868)以後、しばしば兵部省より任務を命じられた。明治二十八年(1895)没。年四十八。
彌左衛門塙君墓
三十三年祭紀念碑
塙彌左衛門は、文政六年(1823)の生まれ。町年寄に班し、代官に列した。元治元年(1864)三月、田丸稲之衛門らが筑波山に挙兵すると、ひそかに軍用金を贈って援助した。そのため、同年七月、獄に繋がれ、翌慶應元年(1865)三月、獄中で亡くなった。年四十三。
墓の近くに明治三十年(1897)に没後三十三年祭を記念して建てられた石碑がある。題額は東久世通禧。
桒原治兵衛信毅君墓(桑原幾太郎の墓)
桑原幾太郎は、寛政十二年(1800)の生まれ。諱は信毅、雅号は照顔、幾太郎は通称である。水戸藩の世臣で、長沼流兵学に長じ、一家を成した。文政十一年(1828)、八代藩主斉脩の継嗣問題が起こると、前藩主治紀の三男敬三郎(のちの斉昭)擁立運動に加わった。天保四年(1833)、鷹司政通夫人(治紀の娘)付属取次役として京都に勤務し、斉昭の命を受けて神武天皇陵所の調査に従い、「畝傍山東北陵考」を著わした。天保六年(1835)八月、父の致仕により家督を継ぎ、大番組となり、水戸に帰り、天保十年(1839)、郡奉行となった。弘化元年(1844)五月、斉昭が幕譴により隠居を命じられた時、同志とともに雪冤運動を起こし、このため同志八名と禁固四年に及んだ。赦免後、藩の要路にあって、軍政を革新し、安政三年(1856)には権臣谷田部通義らの処罰を断行した。安政五年(1858)八月、戊午の密勅が水戸藩に下ると、評議において諸大名への回達を主張した。のち寄合指引となり水戸勤務、文久元年(1861)六月、致仕し、いくばくもなく病死した。年六十二。
(円通寺)
緑町の信願寺では所佐一郎、千波の円通寺では鳥居瀬兵衛、谷田町の宝蔵寺では池田留吉の墓を探して、それぞれ広い墓地を持つ寺であったが、墓地を歩き回った。しかし、同姓の墓石すら見つけることができなかった。あまりの空振り続きにさすがに落胆した。某球団のゴールデン・ルーキーもこのところ不振に喘いでいて、時折テレビ画面に映る表情も次第に苦悩の色が濃くなっている。彼の心境を考えれば、これくらい空振りが続いたところで何ほどでもない。と、自らを奮いたたせ、この三寺院への再挑戦を誓って、一旦撤退することとした。
円通寺
円通寺墓地を隈なく歩いたが、鳥居姓の墓すら見出すことはできなかった(水戸市千波1227)。
鳥居瀬兵衛も松平頼徳を護衛して下国したが、那珂湊で諸生党と交戦することになり、事情を幕府に訴えようとして南上の途次、水戸へ召喚されて拘束され、同年十月、斬に処された。年五十五。
(本法寺)
本法寺
傳衛門真木君墓
左手には妻の墓が並べられている
本法寺の真木伝衛門の墓だけは簡単に見つけることができた。本堂近くに自動車を停めると、ほぼその目の前にあった(水戸市千波2367)。
真木伝衛門は寛政二年(1790)の生まれ。文政十一年(1828)進仕し、天保十一年(1840)、家督を継いだ。弘化元年(1844)、書院番組に班し、万延元年(1860)、致仕した。元治元年(1864)八月、松平頼徳が那珂湊に陣して城兵と戦火を交えると、市川三左衛門はしきりに反対派を排除し、そのため真木伝衛門は官舎に禁固され、慶応三年(1867)二月、囚中に没した。年七十八。
(宝蔵寺)
宝蔵寺も広い墓地を持つ寺である。ここでも池田留吉の墓を見つけることはできなかった(水戸市谷田町633)。
池田留吉は、町方同心であったが、文久元年(1861)五月二十八日、東禅寺のイギリス仮公使館を襲撃し、囲いを脱して逃亡したが、のち捕らえられ獄死した。年二十四。
宝蔵寺