史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

水戸 城南 Ⅳ

2022年01月01日 | 茨城県

(妙雲寺つづき)

 慶應元年(1865)三月二十四日、赤沼牢にて武田耕雲斎の家族の処刑が行われた。その日、死罪となったのは、耕雲斎の妻とき四十八歳、倅桃丸(九歳)、金吉(三歳)、長男彦衛門の倅三郎(十二歳)、金四郎(十歳)、熊五郎(八歳)。

 

彦右衛門武田君之墓

 

武田氏婦人藤田氏墓(武田いくの墓)

 

 彦右衛門の妻いくは、藤田東湖の妹で、耕雲斎の四女およし、妾う免、山国淳一郎、田丸稲之衛門の家族とともに永牢を申し渡された。

 

故魁介武田君墓

 

 武田魁介は、文政十一年(1828)、耕雲斎の二男に生まれた。弘化の藩難では、吉成恒次郎とともに雪冤に尽力し、禁固に処された。武術に優れ、指南功労によりたびたび賞された。安政五年(1858)の藩難では父耕雲斎と行動をともにし、元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かい、画策するところがあった。宍戸藩主松平頼徳とともに下国して那珂湊に陣を置き、城兵と交戦した。西上途次、加賀藩に降伏し、慶応二年(1865)二月、斬刑に処された。年三十八。

 

武田桃丸

武田金吉

 

武田三郎

武田金四郎 武田熊五郎 墓

 

武田蓋之墓(武田金次郎の墓)

 

 武田金次郎は嘉永元年(1848)、武田彦右衛門の長男に生まれた。母は藤田東湖の妹いく。諱は蓋。天狗党の挙兵では祖父耕雲斎と行動をともにして、敦賀に禁錮され、慶応元年(1865)三月遠島に処されたが、翌二年(1866)五月、赦免されて小浜藩の獄に移った。明治元年(1868)、赦されて、同年五月、兵を率いて帰藩した。やがて参政に挙げられ、七月には北越追討に出陣した。実権を把握した金次郎は復讐の鬼と化し、諸生党に属する人物を次々と処刑・斬殺して藩内を恐怖に陥れた。後世から見れば、いかにも無駄な殺生ではあるが、復讐にしか己の存在価値を見出せなかった金次郎にも同情の余地はある。明治二年(1868)以後、しばしば兵部省より任務を命じられた。明治二十八年(1895)没。年四十八。

 

彌左衛門塙君墓

 

三十三年祭紀念碑

 

  塙彌左衛門は、文政六年(1823)の生まれ。町年寄に班し、代官に列した。元治元年(1864)三月、田丸稲之衛門らが筑波山に挙兵すると、ひそかに軍用金を贈って援助した。そのため、同年七月、獄に繋がれ、翌慶應元年(1865)三月、獄中で亡くなった。年四十三。

 墓の近くに明治三十年(1897)に没後三十三年祭を記念して建てられた石碑がある。題額は東久世通禧。

 

桒原治兵衛信毅君墓(桑原幾太郎の墓)

 

 桑原幾太郎は、寛政十二年(1800)の生まれ。諱は信毅、雅号は照顔、幾太郎は通称である。水戸藩の世臣で、長沼流兵学に長じ、一家を成した。文政十一年(1828)、八代藩主斉脩の継嗣問題が起こると、前藩主治紀の三男敬三郎(のちの斉昭)擁立運動に加わった。天保四年(1833)、鷹司政通夫人(治紀の娘)付属取次役として京都に勤務し、斉昭の命を受けて神武天皇陵所の調査に従い、「畝傍山東北陵考」を著わした。天保六年(1835)八月、父の致仕により家督を継ぎ、大番組となり、水戸に帰り、天保十年(1839)、郡奉行となった。弘化元年(1844)五月、斉昭が幕譴により隠居を命じられた時、同志とともに雪冤運動を起こし、このため同志八名と禁固四年に及んだ。赦免後、藩の要路にあって、軍政を革新し、安政三年(1856)には権臣谷田部通義らの処罰を断行した。安政五年(1858)八月、戊午の密勅が水戸藩に下ると、評議において諸大名への回達を主張した。のち寄合指引となり水戸勤務、文久元年(1861)六月、致仕し、いくばくもなく病死した。年六十二。

 

(円通寺)

 緑町の信願寺では所佐一郎、千波の円通寺では鳥居瀬兵衛、谷田町の宝蔵寺では池田留吉の墓を探して、それぞれ広い墓地を持つ寺であったが、墓地を歩き回った。しかし、同姓の墓石すら見つけることができなかった。あまりの空振り続きにさすがに落胆した。某球団のゴールデン・ルーキーもこのところ不振に喘いでいて、時折テレビ画面に映る表情も次第に苦悩の色が濃くなっている。彼の心境を考えれば、これくらい空振りが続いたところで何ほどでもない。と、自らを奮いたたせ、この三寺院への再挑戦を誓って、一旦撤退することとした。

 

円通寺

 

 円通寺墓地を隈なく歩いたが、鳥居姓の墓すら見出すことはできなかった(水戸市千波1227)。

 鳥居瀬兵衛も松平頼徳を護衛して下国したが、那珂湊で諸生党と交戦することになり、事情を幕府に訴えようとして南上の途次、水戸へ召喚されて拘束され、同年十月、斬に処された。年五十五。

 

(本法寺)

 

本法寺

 

傳衛門真木君墓

左手には妻の墓が並べられている

 

 本法寺の真木伝衛門の墓だけは簡単に見つけることができた。本堂近くに自動車を停めると、ほぼその目の前にあった(水戸市千波2367)。

 

 真木伝衛門は寛政二年(1790)の生まれ。文政十一年(1828)進仕し、天保十一年(1840)、家督を継いだ。弘化元年(1844)、書院番組に班し、万延元年(1860)、致仕した。元治元年(1864)八月、松平頼徳が那珂湊に陣して城兵と戦火を交えると、市川三左衛門はしきりに反対派を排除し、そのため真木伝衛門は官舎に禁固され、慶応三年(1867)二月、囚中に没した。年七十八。

 

(宝蔵寺)

 宝蔵寺も広い墓地を持つ寺である。ここでも池田留吉の墓を見つけることはできなかった(水戸市谷田町633)。

 池田留吉は、町方同心であったが、文久元年(1861)五月二十八日、東禅寺のイギリス仮公使館を襲撃し、囲いを脱して逃亡したが、のち捕らえられ獄死した。年二十四。

 

宝蔵寺

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水戸 偕楽園 Ⅳ

2022年01月01日 | 茨城県

(茨城県立歴史館つづき)

 

贈正五位小堀寅吉君墓

 

 看板も案内もないが、茨城県立歴史館の旧茂木家住宅の裏に小堀寅吉の墓がある。

 小堀寅吉は、天保十四年(1843)の生まれ。下野訓芳賀郡高岡村の出身であるが、幼時水戸に移って成長し、藩士谷忠吉の家従となった。文久元年(1861)、浪人有賀半弥らの外人襲撃の計画を知って、同志中村貞介とともにこれに加盟し、五月二十八日の夜、江戸高輪東禅寺の英国仮公使館を襲い、傷を負ってその場で自刃した。年十九。

 寅吉の墓は、水戸市常盤原に設けられたが、その後その場所が水戸高等農業学校に引き継がれた。水戸高等農業学校は明治三十二年(1899)から昭和四十五年(1970)までこの場所にあった。同志であった前木新八郎の墓は常磐共有墓地に移されているが、どういうわけだか、寅吉の墓は変わらずこの場所に置かれたままだったということのようである。なお、水戸高等農業学校の本館は現在も茨城県立歴史館敷地内に保存展示されている。

 

旧水海道小学校本館

 

 茨城県立歴史館敷地内に展示されている旧水海道小学校本館は、明治十四年(1881)に建築された、いわゆる明治洋風建築の一つである。

 

(信願寺)

 

信願寺

 

 三十分以上、信願寺墓地を歩いたが、目当てとしていた所佐一郎(松平頼徳に従い、転戦中捕らえられて、慶応元年(1865)三月、磔刑に処された)の墓を発見に至らず(水戸市緑町1‐2‐1)。

 

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ひたちなか Ⅷ

2022年01月01日 | 茨城県

(上高場共同墓地)

 

木名瀬庄三郎の墓

 

 上高場郷土墓地に木名瀬家の広い墓所がある。その中に木名瀬庄三郎の墓がある。

 木名瀬庄三郎は、文化七年(1810)の生まれ。諱は全能。常陸那珂郡高場の郷士であり、横目役を務めた。弘化元年(1844)、藩主徳川斉昭が幕譴を蒙ると、その無実を幕府に愁訴し、罪を得て水戸の獄に繋がれた。元治元年(1864)、有志を率いて水戸城下に滞在中、七月二十三日、筑波山勢追討より帰藩した諸生らに捕えられ、同年十一月二十九日、獄死した。年五十五。

 

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日立 Ⅳ

2022年01月01日 | 茨城県

(河原子台場跡)

 

河原子台場跡

 

 河原子の河原子旅館の駐車場の前に河原子台場跡説明板が建てられている(日立市河原子町2‐2‐24)。

 河原子台場は、水戸藩が建造した七つの海岸防備施設の一つ。台場には大砲が三門備えられ、海防農兵が配置されて海岸防備に当たった。

 

(河原子海水浴場)

 

河原子海水浴場

 

 河原子は海水浴場であるが、さすがに季節外れのこの時期、人影はまばらであった。前日、太平洋沖を通過した台風の影響で波は荒々しかった。海水浴というよりサーフィンに適した波だと思ったら、河原子北浜海岸は、我が国でも有数のサーフィンスポットらしく、時には大会も開かれるという。

 

烏帽子岩

 

藤田東湖七言絶句碑

 

 烏帽子岩の中腹、津神社に藤田東湖の詩碑がある。残念ながら、崩落の危険があるため烏帽子岩はフェンスで囲まれ、石碑に近寄ることはできなかった。

 嘉永六年(1853)、藤田東湖が河原子を訪れたとき。津神社社頭にて詠んだ七言絶句である。明治四十一年(1908)に門人であった香川敬三が親書し、町の有志によって建碑されたもの。

 

眼界東窮亜墨州(がんかいひがしにきわまるあぼくしゅう)

千尋絶壁是吾樓(せんじんののぜっぺきこれわがろう)

世間富貴王侯楽(せけんのふうきおうこうのたのしみ)

不換先生一日遊(かえずせんせいいちじつのあそびに)

 

(日向墓地)

 河原子小学校の北側に日向墓地が広がる。日向墓地は夕景の名所として知られる。そのほぼ真ん中に宮田家の墓地がある。

 

故中教正宮田晩翠先生之墓(宮田篤親の墓)

 

大龢先生墓碣之銘

 

 宮田篤親は、文政四年(1821)の生まれ。篤親は諱で、字は謙祥、雅号は晩翠と称した。天保九年(1838)、河原子村の修験宮田謙養の養子となり、平田銕胤、藤田東湖らについて和漢の学を修め、水戸藩の天保改革に協力した。神職となり、各地の神社の祠官を勤め、安政四年(1857)には水戸藩大久保郷校の館守となり、郷校を足場として、水戸領内神職の組織化を図って尊攘運動に活躍した。安政戊午の密勅降下前夜には、西南地方に潜行して各地の神職との連携に努め、反対派から処罰されたこともあった。水戸藩御見得格となり、扶持米を受けた。維新後は神祇官の再興に奔走した。明治二十九年(1896)、年七十六で没。

 傍らの墓碣銘碑は養父宮田謙養のものか。藤田東湖の撰文と書。

 

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常陸太田 Ⅵ

2022年01月01日 | 茨城県

(梶山家墓地)

 付近を自動車で走っていると、梶山弘志氏の政治ポスターが目に付く。梶山氏は、先日発足した岸田文雄新総裁のもとで幹事長代行に登用された。この辺りは梶山氏の地元である。

 梶山家墓地入口に「天下の魁」と刻まれた巨大な石碑が建てられている。書は梶山弘志氏の父静六(常陸太田市稲木町1246‐1付近)。

 

天下の魁 水戸天狗党

梶山敬介君留魂之碑

自由民主党幹事長 衆議院議員

梶山静六謹書

 

 「幕末維新全殉難者名鑑」によれば、梶山敬介は、久慈郡稲木村の農。天狗党の挙兵に参加し、慶応元年(1865)二月十五日、敦賀にて斬。

 

 この碑のことを片山杜秀著「尊王攘夷」(新潮選書)で知った。本書によれば、この石碑が建立されたのは、昭和五十三年(1978)のことだという。当時、梶山静六は、田中角栄逮捕のあおりを受けて落選していた。梶山敬介は、梶山静六の曾祖叔父にあたる。梶山氏は、もともと佐竹氏に仕える武士であったが、佐竹氏が秋田に移封されると、常陸に残り稲木村に土着して農民となった。梶山敬介の生年は不詳であるが、天保年間から弘化の頭と推定されている。水戸学に目覚め、尊王攘夷運動に没入した。那珂湊の戦争のあと、天狗党西上にも従い、敦賀で処刑された。

 

梶山敬介之墓

 

梶山静六之墓

 

 この後、馬場町に移動して、共同墓地で宮田瀬兵衛や西野孝太郎の墓を探したが、発見できず。さらに二十数キロメートル北上して大中町で白石平八郎、内蔵進父子の墓を探したが、やはり発見できず。空振りが続いた。

 宮田瀬兵衛は、桜田門外の変の直後、自ら同盟者であると自首し、間もなく獄死した人物である。共同墓地に宮田家の墓所があり、古い墓石が並んでいたので、目を皿にして確認したが、特定することはできなかった。

 西野孝太郎は叔父宮本左一郎殺害の仇討に助太刀をした人。元治元年(1864)、水戸に向かう途上、異党と斬りあって亡くなった。

 白石平八郎、内蔵進父子は、文久元年(1861)、出府の途次、稲吉駅にて反対派に囲まれ父子ともに闘死した。大中村には霊園があるが、そこをいくら探しても白石父子の墓を見つけることはできなかった(比較的新しい白石家の墓石には二つ出会ったが、白石父子とは無縁のようである)。

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常陸大宮 Ⅵ

2022年01月01日 | 茨城県

(緒川小学校)

 

緒川小学校

 

 井樋政之允の墓は、緒川小学校(常陸大宮市上小瀬751)の正門から南へ五十メートルほど行った道路際にある。

 

井樋政之允の墓

 

 井樋政之允は、享和二年(1802)の生まれ。常陸那珂郡上小瀬村の郷士で、横目付に任じられ、一五ヶ村の取締を担当した。弘化元年(1844)、藩主斉昭が幕譴を蒙ると、その雪冤活動に加わり、安政五年(1858)七月、再度の難には他の四人の村長と人民総代として江戸藩邸に赴き嘆願書を提出した。のち下獄したが許された。元治元年(1864)八月一日、坊民が自宅に押し入り殺害された。年六十三。

 近くには政之允の親兄弟の墓が並んでいる。

 

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笠間 Ⅷ

2022年01月01日 | 茨城県

謹賀新年

 

(盛岸院)

 盛岸院は、笠間藩主牧野家の菩提寺である(笠間市笠間2664)。牧野家の墓所は、広い墓地ではなく、本堂の脇から石段を昇った先にある。

 牧野家墓所には、正面に「牧野家歴代之墓」、その背後に藩祖牧野儀成の墓石があるほか、右手には「牧野家兒孫連枝之墓」があるのみである。幕末の藩主牧野貞明もここに眠っている。

 

盛岸院

 

牧野家歴代之墓(牧野貞明の墓)

 

 牧野貞明は天保元年(1830)の生まれ。笠間藩主牧野貞喜の二男布施重正の子に生まれ、嘉永四年(1851)、藩主貞久の養嗣子となって宗家の家督を継いだ。雁の間詰めとなり、叙爵して備後守に任じられた。嘉永六年(1853)四月、日光へ名代参拝、安政四年(1857)六月、越中守と改めた。万延元年(1860)、奏者蕃、継いで寺社奉行を兼ねたが、文久三年(1863)、両役を解かれた。この間、文昭院法事御用、日光霊屋修復の惣奉行を勤めた。一方、領内では安政元年(1854)二月、大淵村で甲冑訓練、安政六年(1859)には藩校時習館を造建、これに講武所を合併し、火技操練を行うなど、時勢の危機に対応している。元治元年(1864)、再び奏者番と寺社奉行を兼ねたが、同年十一月、大阪城代に任じられ、従四位下に叙された。慶應元年(1865)正月十五日、大阪へ着任した。慶應四年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いに幕軍は敗走し、将軍慶喜も大阪城を退いた際、これに随い江戸に帰った。その後、恭順の意を表し、四月には国許の佐幕派を断罪、結城戦争に出兵して、新政府に投じた。遠く奥羽征定にも派兵転戦した。同年十二月、致仕し、家督を金丸(貞寧)に譲って隠居し、竹丈と号した。明治二十年(1887)正月、東京高輪邸にて没した。年五十八。

 

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