史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「ペリー提督 海洋人の肖像」 小島敦夫著 講談社現代新書

2022年06月25日 | 書評

ようやくコロナ感染も減少傾向となり、街も日常を取り戻しつつある。個人的には先日三年振りに海外出張に行けたし、二年振りに帰省して両親と会食することもできた。新橋駅前でも、数年振りに古本市が開催された。連日、古本市に通いつめ、三冊の古本を入手した。そのうちの一冊である。

本書は、今から十七年前の平成十七年(2005)に刊行された新書である。今では本屋の店頭で購入することは困難であるが、今なお価値のある一冊だと思う。

黒船を率いたペリーが日本を開国に導いたことは良く知られている。ペリー以前にも外国から使節が何度も日本を訪れたが、固く閉ざされた扉を開くことはできなかった。何故、ペリーがそれを成し遂げることができたのか。

日本の開国は、ペリーの綿密な準備と、その上に構築された戦術の成果といえる。彼は三万ドルもの大金を費やして、シーボルトの「ニッポンに関する記録集」(1832)を初めとして、日本について書かれた文書や書籍を収集した。

その結果、日本の歴史と鎖国政策の由来、天皇制と政府、行政組織、宗教、国際関係の歴史、産業、技術、科学、民族、産物、資源、文学、芸術といった、あるとあらゆる分野に精通するに至った。

彼の対日戦略は、決して場当たり的ではなく、極めて周到、冷静な分析の上に、練りに練られたものであった。

  • できるだけ多くの隻数の艦隊を率いて日本人に恐怖心を起こさせる。
  • さかんに測量作業を行い、砲門を開いて威嚇し、日本に混乱を生じさせる。
  • ペリー自身は、幕府の閣僚級の者としか会わない。大統領の親書は、小役人などには渡さない。
  • 米国の最高水準の文物や、科学技術の結晶である工業製品を持参。記録掛から料理人に至るまで人物を重視し、精神的な交流を持ち掛ける。

日本の開国という誰も成しえなかった成果を持ち帰ったペリーに対し、米国内で「砲艦外交」とする批判があったのも事実である。日本国内でもペリーの高圧的な姿勢に大きな反発があった。しかし、それまでの使節は友好的に日本にアプローチした結果、悉く日本から「追い払われた」。それを考えれば、ペリーのとった手法は唯一無二の方法だったのかもしれない。

海洋ジャーナリストという肩書を持つ筆者は、単にペリーの経歴を追うだけではなく、彼のゆかりの土地を自ら訪問し、しかも一般人ではなかなか進入できないような場所まで足を運んでいる。「あとがき」によれば、自ら操船する外洋帆走クルーザーで、ペリー艦隊が立ち寄った日本の七つの港と米国の四つの港をはじめ、艦隊と同じ錨地に停泊する体験を試みたという。筆者が訪れた港は、米国ではニューポート、ボストン、ニューベッドフォード、ニューロンドン、ニューヨーク、ワシントン、ボルチモア、ノーフォーク、アナポリス。日本では、那覇、泊(沖縄)、二見(小笠原)、下田、久里浜、浦賀、田浦(横須賀)、横浜、箱館。ほかにコロンボ、シンガポール、香港、マカオ、上海に及んでいる。私も那覇、小笠原、久里浜のペリー上陸の地碑を踏破した。なかなかこの三ヶ所を全て訪問した人はいないだろうし、このことは密かな自慢であるが、筆者のペリー愛はそれを遥かに上回っている。その偏執的ともいえる情熱には脱帽するしかない。

本書のルポルタージュでもっとも注目すべきは、ペリーの生誕地であるニューポートである。ニューポートでは、ペリーの生家、ペリーの兄、オリバーの像、ペリーの像のほか、ペリーが洗礼を受けたトリニティ教会、そしてペリーが改葬されたアイランド墓地などを見ることができる。いつかニューポートを旅してみたいという夢が膨らんだ。

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「徳川最後の西国代官」 西澤隆治著 叢文社

2022年06月25日 | 書評

先のGWでは、六日をかけて大分県、宮崎県の史跡を巡った。改めて九州の史跡の多様さと独自性を認識した。また旅の中で未知の人物に触れることができ、その意味でも有意義な旅となった。

「知られざる人物」の代表例が、本書で取り上げられている窪田治部右衛門である。歴史の教科書にも出てこないし、小説で登場することも少ない。大方の人にとって「誰それ?」という存在であろう。窪田治部右衛門のことを詳しく知りたいと思い、旅から戻って早速ネットでこの本の存在を知り、手に入れた。

「代官」というと、テレビドラマでは決まって民を虐げ、私服を肥やす「悪代官」が定番である。そういう悪代官もいたのかもしれないが、基本的には幕府は相応に優秀な人物を代官に登用していた。そうでないと、現実問題として世の中が治まらないだろう。

天誅組に襲撃されて首をさらされた五条代官所の鈴木源内も、幕府を倒した勤王派から見れば、「悪代官」の典型のように仕立てられているが、実際には善政をひいて領民には慕われていたという。

先日読破した「花山院隊「偽官軍」事件」(長野浩典著 弦書房)は、どちらかというと、花山院隊から描いたものであるが、彼らからずれば窪田治部右衛門は、不俱戴天の仇である。日田を明け渡して姿を消した治部右衛門は「逃亡した」という取り上げ方になっている。本書では、同じシーンは「退去」と表現されている。筆者は、日田の街を戦火から守った治部右衛門の功績は江戸の無血開城に匹敵すると賞賛している。同じ事象、同じ歴史的史実であっても、表現一つで印象ががらりと変わるのである。

治部右衛門は、実父江口秀種が柔術師範だったこともあり、若い頃から武術に親しんだ。江口秀種は肥後藩士であったが、その姉は内藤吉兵衛歳由に嫁いだ。内藤の子に川路聖謨、井上正直兄弟がいる。つまり、治部右衛門は川路、井上兄弟と従兄弟という関係にある。

治部右衛門は、もともと肥後藩士の出身で、幕臣窪田家を継いで旗本に列したが、浪士取締役や神奈川奉行所定番役頭取取締を経て西国郡代に抜擢された。異例の出世の背景には、無論当人の能力の高さもあっただろうが、川路聖謨の強い引きがあったことが想像される。川路はこの年下の従弟を買っていただろうし、治部右衛門も川路を慕っていた。幕府への忠誠心の篤さも川路譲りのものがあった。

元来武力を持たない西国代官であったが、彼は農兵を組織し、武装させた。制勝隊と名付けられた部隊は、結果的に武力を行使する場面は訪れなかったが、治部右衛門のリーダーシップを物語る一例であろう。

維新後は静岡に移住し、明治政府に仕えることはなかった。静岡の万象寺に、鳥羽伏見で戦死した息窪田泉太郎と並んで墓が建てられている。

まさに知られざる人物であるが、もっと注目されてよいと思う。

 

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