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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

米原 Ⅱ

2023年01月20日 | 滋賀県

(加茂神社)

 

加茂神社

 

 醒ヶ井宿の加茂神社前に日本武尊の伝説で有名な「居醒(いさめ)の清水」が湧き出ている。日本武尊は、伊吹山の大蛇の退治に苦しみ、やっとのことで醒ヶ井の井戸にたどり着いた。この清水で心身を冷やすと、不思議なことに高熱が下がり、体調が回復したため「居醒の清水」と呼ばれるようになった。この清水は、伊吹山に振り注いだ雨が地下水となって、加茂神社鳥居付近から湧出しているもので、一年を通して水温十五度前後を保っている。

 

醒ヶ井の清水

 

鮫島中将の歌碑

 

 明治二十八年(1895)、台湾征討時に熱病に冒された北白川能久親王が病床で冷たい水を所望された際、看病していた鮫島重雄参謀長は、かつて訪れた醒ヶ井の清水を思い出し次の歌を詠んだ。

 

 あらばいま捧げまほしく醒井の

 うまし真清水ひとしずくだに

 

(番場宿つづき)

 

明治天皇番場御小休所

 

中山道番場宿 問屋場跡

 

 番場宿の問屋場跡となる民家の前に明治天皇番場御小休所碑が建てられている。明治十一年(1878)、十月二十二日、滞在。

 

中山道番場宿 本陣跡

 

 明治天皇番場御小休所周辺には本陣跡、脇本陣跡などを示す石碑が建てられている。

 

中山道番場宿 脇本陣跡

 

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長浜 Ⅲ

2023年01月20日 | 滋賀県

(木之本地蔵尊・浄信寺)

 木之本宿は、地蔵院の門前町として栄え、北国街道と北国脇往還が交わる宿場町で、旅人と眼病平癒で信仰を集めた木之本のお地蔵さんの参拝客で賑わった。今も商家の家並みに昔の情景を残している。

 

木之本宿

 

木之本 札ノ辻跡

 

 札の辻とは、禁止事項や公示事項を周知するための制札という立札を立てた場所で、通常はその町でもっとも往来の多い目抜き通りにある。その向かいが木之本地蔵尊(正式名称は浄信寺)である。

 

浄信寺

 

明治天皇木之本行在所

 

行在所

 

木之本地蔵尊

 

明治天皇行在所舊蹟

 

 明治天皇の御座所となった書院前に明治天皇木之本行在所碑が建てられている。玉座に畳や木靴などが保存されているという。欄間の装飾には菊の紋が用いられている。明治十一年(1878)十月十日から十一日までの滞在。境内には行在所碑もある。

 また門前(札ノ辻の向かい側)には明治天皇行在所舊蹟碑がある。題字は一戸兵衛。

 

(湖北幼稚園)

 

聖上駐蹕之所

 

 湖北幼稚園に隣接する場所に聖上駐蹕之所碑が建つ。この場所は、平成十八年(2006)に閉校した速水小学校の跡地である。明治十一年(1878)十月十一日の滞在。

 

(曽根町)

 曽根町の北国街道に面した民家の前に小休所碑がある。道路から少し奥まった場所で、しかも石碑の前に棕櫚の木が立っていて、極めて見づらい。邸内に玉趾の石碑があるらしいが、もちろん勝手に立ち入ることもできないので、未確認である。

 

 

御小休所

 

(南浜共同墓地)

 

西川耕蔵の先祖の墓?

 

 当方のブログに西川太治郎の曾孫という方からコメントを頂戴した。西川太治郎は西川耕蔵の血縁者で、近江新報社社長、のちには大津市長も務めた人物である。耕蔵の慰霊と顕彰に尽くし、京都西念寺の耕蔵の墓も太治郎によって発見されている。

「当家の墓は明治四十年、太治郎が大津市内に建立し耕蔵も入魂されていますが、それ以前のものも長浜市南浜町に残っています。耕蔵もこの付近の出であることは間違いないと思います。」

この情報を頼りに南浜町の共同墓地を歩いた。

 西川という姓は滋賀県では極めて普通で、この墓地でも複数確認ができるが、どれが西川耕蔵の先祖のものか、確定はできなかった。参考として古そうな西川家の墓を載せておく。

 

 この辺りは琵琶湖に注ぐ姉川の河口に近い。魚が豊富なためか、シラサギやアオサギなどの野鳥がもの凄い数で群れている。他ではちょっと見られない光景である。

 

シラサギ

 

(長浜幼稚園)

 長浜幼稚園の場所は、江戸時代十三代にわたって長浜の町つくりに尽くした吉川三左衛門家の本陣跡である。

 長浜は、北国街道を経由して、湖上交通に連絡する水陸交通の要衝であった。天正年間に豊臣秀吉が当地に城を築き、港を整備して街を作り上げたが、この事業を陣頭指揮したのが吉川家であった。以来、長浜の町政を委託され、この街の発展に尽くしてきた。

 

長浜幼稚園

 

明治天皇行在所阯

 

 道沿いに明治天皇行在所阯碑が建てられている。明治十一年(1878)十月十一日、滞在。

 

(清瀧寺)

 清瀧寺(せいりゅうじ)は、戦国時代北近江を支配した佐々木京極家の菩提寺である。初代氏信の法号から清瀧寺と称した。江戸時代の初期、京極家第二十二代(丸亀藩二代)高豊公が歴代の菩提寺から墓石を集めて上段に祀り直した。祖先を供養するために三重塔を建立し、伽藍の配置を見直し、寺院名も父の法号をとって徳源院と改めた。歴代京極家の墓地を訪ねて、はるばるとここまで来た(岐阜県の関ヶ原まで数キロメートルという地点である)が、新型コロナのため拝観謝絶と張り紙がされていて、寺の境内に入ることすら叶わなかった。

 

清瀧寺 徳源院

 

京極家墓所

 

 京極家墓所には、上段に始祖氏信をはじめ十八世高吉に至る歴代十八基、下段には大津城主高次(十九世)の墓が石廟に収められている。今回は叶わなかったが、いつかまた訪ねてみたい。

 

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