海外に居ながらにして日本の書籍を購入できるサービスがあり、まとめて8冊ほど注文した。数週間もしないうちにハノイのアパートに届いた。有り難いシステムがあるもので、これからも大いに利用させてもらうことにしよう。
本書は、上野公園の彰義隊の墓守として知られる小川興郷の子孫の方が、自費出版の形で出されたものである。筆者は東京学芸大学名誉教授で、環境科学を専門とされている先生で、本書も論文風に書かれている。
とはいえ、歴史学が専門というわけではないので相当部分を同じく東京学芸大学の竹内誠名誉教授や大石学名誉教授らのサポートを受けながら、手書き文書を翻刻されたという。
小川興郷は明治初期までの名前を椙太といい、出身地は秩父小川村とされる。一橋家に新規召し抱えになった縁で、慶應四年(1868)、彰義隊に参加した。戦後、上野戦争で戦死した彰義隊士の墓を建設するのに私財を擲って奔走し、半生を墓守として尽くした。しかも、その養女ミツ、その夫眞平、彼らの子長男彰、そして筆者潔の代に至るまで、この墓を守り続けている。この律義さ、義理堅さ、使命感はどこからきているのだろうか。筆者は「あとがき」にて「上野に彰義隊の墓を建てることは、大谷内を含めた隊士たちの悲願であり、小川(興郷)、齋藤、百井にその任が託されたと考えることは荒唐無稽だろうか?椙太(興郷)はこの役割を一生背負ったのではないか?」と、想像を逞しくしているが、あながちデタラメな空想でもないだろう。
「大谷内」というのは、元古河藩士で旗本大谷内家の養子に入った人で、彰義隊では九番隊長を務めた。戦後、明治二年(1869)、元彰義隊士の救済を訴える建白書を沼津郡政役所に提出した。この筆頭者が大谷内でナンバーツーが小川椙太であった。のち離反者2名を粛清した責任を負って切腹した。
「齋藤、百井」は、ともに元彰義隊士齋藤駿、百井求造の二人のこと。興郷とともに上野公園における彰義隊の墓の建設許可願いに名前を連ねたが、その後の経歴は不明である。どういう経緯か分からないが、興郷のみが墓守として彰義隊の墓の側で過ごした。
本書には、興郷が上野の彰義隊之墓建設について「しるしを残したい」と語っていたという。これは養女小川ミツが伝え聞いたもので、文書に残されたものではない。子孫だからこそ書ける貴重な伝聞である。
今となってはこの言葉の真意は不明であるが、主君慶喜への新政権による理不尽な仕打ち、それに対して異議を唱えて集まった彰義隊の存在、戦闘は一日で終わってしまったが多くの仲間が命を落とした無念さ等々、興郷が上野に墓を建てることで後世に伝えたかったことは想像できる。
本書は自費出版であり広く読まれることにはならないかもしれないが、彰義隊士の末裔の方が残した記録として貴重なものである。かつて上野に「上野彰義隊資料室」なるものが存在していたことも本書で初めて知った。可能であれば復活してもらえないものだろうか。