史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

長浜 Ⅱ

2023年01月19日 | 滋賀県

(柳ヶ瀬)

 

柳ヶ瀬村

 

柳ヶ瀬関所跡

 

 柳ヶ瀬は、北国街道と越前若狭街道の分岐点にあって、彦根藩では関所を置いて出入りを監視した。往時は旅籠が軒を並べ賑やかな街だったようだが、今はひっそりとした田舎町である。人とすれ違うことも少ない。

 

柳ヶ瀬

 

 長屋門を持つ立派な民家の前に明治天皇関係の石碑が二つ。明治天皇駐蹕之蹟碑は、陸軍大将一戸兵衛の題字。明治十一年(1878)十月十日の滞在。

 

明治天皇駐蹕之蹟

 

明治天皇柳ヶ瀬行在所碑

 

(明三寺)

 

明三寺

 

明治天皇中之郷御小休所

 

明治天皇駐輦之蹟碑

 

 余呉町中之郷の明三寺門前と北国街道沿いに明治天皇関係石碑がある。やはり題字は一戸兵衛による。明治十一年(1878)十月十日の滞在。近年まで明治天皇が滞在した書院が残されていたが、火災で焼失したそうである。

 

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高島 Ⅱ

2023年01月19日 | 滋賀県

(勝野)

 滋賀県の史跡で、どうしても外せなかったのが、高島市勝野の近藤重蔵関連史跡である。近藤重蔵が大溝藩預けとなったきっかけとなる鎗ヶ崎事件の主犯者である近藤富蔵を追って八丈島まで行った私としては、ここは絶対に訪れておきたい場所であった。

 

 朝八時に京都駅前でレンタカーを調達して、所々渋滞に巻き込まれたものの、九時半には第一目的地である大溝藩陣屋惣門前に到着した。

 

大溝藩陣屋惣門

 

 元和五年(1619)八月、高島郡を中心とした江州大溝藩主として分部光信が封じられた。この地には、織田信澄(信長の甥で、明智光秀の娘婿)が築いた大溝城(水城)があり、光信はその西側に陣屋、武家屋敷を構築し、石垣、土塁を巡らせて惣門を設けた。

 現在、大溝城や陣屋などの遺構はほとんど残されていないが、両袖に部屋のある惣門だけが現存している。

 

近藤重蔵謫居跡

 

 惣門の背後の駐車場の片隅に近藤重蔵謫居(たっきょ)跡碑が建てられている。近藤重蔵は、息子富蔵が起こした殺傷事件により、監督不十分の罪を問われ、大溝藩に預けられた。幽閉生活は二年余りに及び、文政十二年(1829)、六月九日、この地で没した。

 

笠井家武家屋敷

 

 分部(わけべ)光信が江州大溝藩に入部すると、この辺り一帯は譜代家臣の集住する武家屋敷町となった。維新後、家臣の多くが大溝を離れたため、今となってはその遺構を見ることは難しいが、笠井家は現在残る数少ない一軒である。

 かつて通りに面して両袖に部屋のある長屋門があったが、大正年間に玄関脇に移築改造されている。藩政時代の貴重な家屋であるが、まったく保存の手が入っていないらしく、屋根は所々崩落し、天井は湾曲している。何とかしないと全壊するのは時間の問題であろう。市の教育委員会には善処をお願いしたい。

 

藩校 修身堂跡

 

 修身堂は八代藩主分部光賓が創設した藩校である。儒臣中村鸞渓が文芸奉行として教育にあたり、子弟は八歳で入学が義務付けられた。儒学の他に算術、筆道、習礼を教え、十三歳未満の者には心学者手島堵庵の著述を、始業前に誦読させた。大溝藩は小藩ながら学問を好む気風があり、近藤重蔵を賓客のように扱ったとされる。

 

(瑞雪院)

 

瑞雪院

 

 瑞雪院には当地で没した近藤重蔵の墓がある。

 本堂前には近藤重蔵の詩碑が建てられている。「鴻溝城裡謫遷客」という文字は、重蔵が賦した漢詩の一節である。ある日、一人の藩士が石楠花を持って獄舎を訪れた。好意を謝するために重蔵が送った詩である。書は、近江出身の歴史作家徳永真一郎。

 

鴻溝城裡謫遷客

 

近藤守重之墓(近藤重蔵の墓)

 

 近藤重蔵は、明和八年(1771)に江戸に生まれ、寛政二年(1790)、家督を相続し、のち長崎奉行出役の後、支配勘定、関東郡代附出役を経て、寛政十年(1798)、松前蝦夷御用となり、たびたび千島列島を短径してその間に択捉島に「大日本恵土呂府」の標柱を建てたり、「辺要分界図考」を著わすなど、この方面の防衛、開拓をはかった。また博覧強記で多くの書物を著わした。しかし、長男富蔵が殺傷事件を起こしたため、文政十年(1827)、江州大溝藩に御預りとなり、その三年後に病没した。この間、「江州本草」三十巻を著わし、藩の指定に学問を勧めるなど、藩の文教振興にも貢献した。文政十二年(1829)、年五十九で没。墓石には名である「守重」が刻まれている。

 

(圓光寺)

 瑞雪院に隣接する圓光寺は、大溝藩主分部家の菩提寺である。もとは延文三年(1358)、伊勢中山に創建された禅寺であった。元亀年中、上野城下に移したが、後に分部光嘉が中山から上野に移るに及んで、圓光寺に寺領を寄進して菩提寺とした。元和五年(1619)に分部光信が江州大溝藩に御国替えとなると、これに伴い圓光寺およびその塔頭も当地に移管された。

 

圓光寺

 

 圓光寺の霊廟には、初代光信、第七代の光庸以外の歴代藩主と第十一代光貞夫人の墓碑や五輪塔が整然と並んでいる。

 

分部藩知事橒嶺分部君墓(分部光貞の墓)

 

分部家墓所

 

 分部光謙は文久二年(1862)の生まれ。分部光貞の次男。明治三年(1870)、父光貞の逝去により九歳で家督を継いだ。相続した直後、大溝藩知事に就任。長じて子爵に叙されたが、競馬にのめり込み、馬主となり自らも騎手として活躍した。明治三十五年(1902)には子爵を返上するに至った。晩年は旧領で暮らして長命を保ち、藩主・知藩事経験者としては最も長く生きた。昭和十九年(1944)、八十三歳で没。

 

普宏院殿心源宗徹大居士

(分部光謙の墓)

 

 分部光貞は、文化十三年(1816)の生まれ。父は安中藩主板倉伊予守勝尚。橒嶺は雅号。天保二年(1831)三月、養父光寧隠退につき襲封。従五位下若狭守に叙任された。文久二年(1862)、勅使東下につき接伴を勤めた。文久三年(1863)、勅命を奉じて参内し、孝明天皇に拝謁した。同年八月十八日の政変では、兵を率いて禁闕を守り、のち参内拝謁して若干金を賜った。元治元年(1864)、従五位上に陞叙。明治二年(1869)六月、版籍を奉還し、大溝藩知事に任じられた。明治三年(1870)、年五十五で没。

 

(朽木資料館)

 朽木氏は、安曇川本流と支流である北川が合流する野尻地区に陣屋を置いていた。この場所は、若狭や越前と京都を結ぶ朽木街道に面し、軍事、政治、経済的に重要な交通の要衝でもあった。朽木氏は佐々木氏の庶流で、承久の乱(1221)後、朽木庄の地頭職に補任されたことに始まり、関ヶ原の戦いや大阪の陣で戦功のあった朽木元綱以来、準大名格で当地を領有し、そのまま明治維新を迎えた。

 

朽木陣屋跡

 

 現在、陣屋跡を示す遺構としては土塁跡、井戸跡と石垣、堀跡などがある。当時はこの敷地内に御殿、侍所、剣術道場、馬場、倉庫などが存在していた。中世には朽木氏の館が設けられ、江戸時代に陣屋へと変遷を遂げたと推定されている。

 

 朽木陣屋に隣接して朽木資料館が設けられているが、休館中となっている。貴重な朽木の歴史を伝える施設を是非とも復活させてほしいものである。

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