天誅組研究の第一人者舟久保藍氏の中公新書デビュー作。これまで地方出版社での著作が多かった舟久保氏の、言わばメジャー・デビューといったところである。
本書の特徴は、天誅組の変のみならず、文久二年(1862)の寺田屋事件、天誅組の変に続いて文久三年(1863)に勃発した生野の変に至る事変を取り上げていることである。この三つの事変に共通するのは、いずれも討幕志向が強いものだったということである。
その背景には、一連の事変を久留米の真木和泉が思想的に主導したことがある。真木和泉は生涯多くの論文を残したが、その代表的なものとして「大夢記」(安政五年(1858))が挙げられる。ここに彼の討幕構想が述べられている。
要約すると、九州諸藩や長州藩を糾合して東征の途につき、伊勢神宮、熱田神宮を拝し、箱根に行在所を定め、そこに大老らを呼び出して朝廷に背き、国を売った罪を問う。これに先んじて江戸城、大阪城を押さえ、将軍(家茂)を甲斐・駿河に封じる ――― というもので、思えば鳥羽伏見戦争から始まる戊辰戦争に近似している。
真木和泉の著作でもう一つ注目すべきものが「義挙三策」(文久元年(1861))である。討幕・王政復古の兵を挙げるには九千の兵が必要であり、それは諸侯でなければできない兵力である。従って、大藩が挙国一致して挙兵するのを上策とする。
義徒、すなわち浪人や下級武士たちが事を挙げるのは下策。彼らは勇はあっても物資も武器もなく孤弱である。諸侯が兵を挙げるのと比べれば五倍十倍の人数を集めなくてはならない。この場合は比叡山、金剛山を足掛りにして大阪城を落とし、天皇の行幸を賜り、詔書檄文を奉じて諸侯を味方につける。「ただし、下策は危ういので用いるべからず」としている。
事を成すには義徒ではなく諸侯が立ち上がらなくてはならないという考え方は、真木和泉のみならず平野国臣にも共通したものであった。にもかかわらず、真木も平野もそして五条代官を襲った天誅組も、諸侯が起つという見込みもないまま兵を挙げてしまった。伏見挙兵では薩摩藩を後ろ盾にしようとしたが失敗。天誅組も長州藩主の出馬を請うたがこれも実現しなかった。これが最大の判断ミスであった。
生野の変の直前、平野国臣は七卿の出馬と長州藩の後押しを願ったが、結局これも叶わなかった。実現したのは七卿の一人、沢宣嘉の担ぎ出しのみである。沢は破陣直前に脱出し、生野の変の最期は敗戦というより自滅に近かった。
舟久保氏は、「彼らの討幕運動は節義そのものであり、高杉(晋作)をはじめその後の人々に引き継がれた」「天誅組隊士たちは刑場に消えたが、明治新政府発足の四年前にその形を示した画期的な試みであり、大藩を討幕に導いた一大事件であったといえよう」と一連の討幕運動を最大限に評価しているが、冷静に見てこれらの事変、さらには天狗党の乱にしても、「討幕の魁」と称するにはいささかお粗末であり、彼らの死は犬死に近かったのではないか。結局、討幕運動が実質的に動き出したのは、薩摩藩が公武合体の限界を知り討幕に舵を切るまで待たなくてはいけなかった。伏見義挙や天誅組の変、生野の変が、薩摩藩(究極的には島津久光)の政策転換にさほど重大な影響を与えているように私には思えないのである。
巻末に一連の事件に関与した人たちの名簿が掲載されている。カウントしたわけではないが、九割以上は戦死、刑死、自刃。明治以降、生き延びたのは北垣国道や原六郎(進藤俊三郎)、平岡鳩平、木曽源太郎ら、ごくわずかである。この時期に挙兵した人たちは、半ば死に場所を求めていた感が強い。彼らの死は、歴史を動かしたかという観点でいえばさほど大きな意味はなかったかもしれないが、自らの節義に従って散った生き様は現代に生きる人間の目から見ると、凄く鮮烈である。
「あとがき」によれば、筆者が東吉野の吉村寅太郎の墓を初めて掃苔したのは、十八、九の時だったという。「学校で年号と出来事の暗記しかしてこなかった私が、これまで習った歴史が実際に起こったものであり人々が生きていて今に繋がっていると初めて実感した」と告白しているが、これこそがまさに歴史を知る醍醐味であり、現地を訪ねる楽しみでもある。本書でも生野の変の現場まで足を運んで調査し、それが記述にも生かされている。天誅組にとどまらず益々研究の対象を広げていかれることを期待したい。