(日本人墓地公園)
今回二泊三日でシンガポールに赴いたのは、昔シンガポールに勤務した時のローカルスタッフと会食することと、当時所属していたソフトボールチームの仲間と会うこと、合わせてソフトボールの練習に参加することが目的であった。
もう一つの目的が音吉の墓を訪ねることにあった。チャンギ空港に到着すると、MRT(地下鉄)でマックファーソン(MacPherson)駅まで移動し、そこからバスに乗り換えて二十分ほど揺られると日本人墓地公園の最寄りのバス停である。
シンガポール在勤中は一度も訪ねたことがなかったが、ここ日本人墓地公園は二葉亭四迷や南方軍総司令官元帥寺内寿一(寺内正毅の長男)らが眠る、歴史ある墓地なのである。
日本人共有墓地は、娼館主であり雑貨商として成功した二木多賀次郎が自己所有のゴム林の一部を提供したことに始まる。それまで当地で死去した日本人の遺骨は牛馬の棄骨場に埋められており、そのことを悲しんだ二木は、明治二十一年(1888)、同朋の渋谷吟治、中川菊三と連名で英国植民地政庁に自己所有地八エイカー(約一万坪)を日本人共有墓地として使用する申請を行い、その三年後に正式許可を得た。
平成十六年(2004)二月、シンガポール土地管理顧問リョン・フォク・メン氏の調査により、音吉の墓が、チョア・チュー・カン(Choa Chu Kang)国立墓地に現存していることが判明した。これを受けて愛知県美浜町、シンガポール日本人会、シンガポール政府観光局が連携して、同年十一月二十七日、墓地を発掘し、火葬の上、遺灰を日本人墓地公園の納骨堂に安置した。翌平成十七年(2005)二月、美浜町民を始めとする百有余人の訪問団が音吉の御霊を迎えにシンガポールを訪問し、遺灰の一部を持ち帰った。音吉は、百七十三年ぶりに日本への帰還を果たしたのである。
納骨堂の正面に彫られているのは、仏教の紋「大法輪」である。終戦後ブキ・ティマ・ヒルの忠霊塔と本願寺別院にあった遺骨が、作業隊として残されていた人々の手により小甕十個に入れられ、この納骨堂に納められたと記録されている。
日本人墓地公園
納骨堂
御堂(みどう)
南光院大圓智覺居士位(二木多賀次郎の墓)
楳仙和尚は、兵庫県出身の曹洞宗の僧侶。明治二十七年(1893)、インドの釈迦生誕の地に詣でる途上シンガポールを訪れた際、当地の日本人に懇願され、この地に留まることを決意し、日本人墓地内に草庵を結んだ。浄財を集めて明治四十四年(1911)、西有寺を建立した。現在、納骨堂の横にある御堂の前身である。現在の建物は昭和六十年(1985)、曹洞宗神奈川県西有寺会によって建て直され、日本人会に寄贈されたもの。日本人会の方針として無宗教主義のもとに特定の宗派に属さないこととしており、仏教風の「寺」を用いず、「御堂」と称することとした。
楳仙大和尚の墓
二葉亭四迷之碑
二葉亭四迷は元治元年(1864)の生まれ。本名は長谷川辰之助といった。近代ロシア文学の影響を受け、創作や翻訳に現実主義を導入した。自らの小説総論に基づいた「浮雲」は言文一致体で書かれた我が国最初の近代散文小説といわれる。東京外国語学校教授を経て、明治四十一年(1908)、朝日新聞特派員として渡露。明治四十二年(1909)五月十日、肺を患い、帰国途上の日本郵船賀茂丸船中にてインド洋上で死去し、シンガポールの火葬場で荼毘に付された。この碑は墓ではなく、遺骨は東京染井霊園に埋葬されている。
からゆきさん精霊菩提
日本人娼婦が初めてシンガポールに現れたのは、明治三年(1870)頃だったといわれる。「からゆきさん」という用語は、第二次世界大戦の領事報告や文献の中では使われておらず、一般的に「からゆきさん」と呼ばれるようになったのは、戦後とくに1970年代以降のことという。一方で、島原、天草、長崎などの地域では、以前から中国、東南アジアへ出向いて娼妓として働く女性のことを「からゆきさん」と婉曲に呼んでいた。中国を指す「唐」ゆきさんというわけである。からゆきさんの中には、貧困のうちに病没するものも多く、墓は大半が木標で、年月の経過とともに朽ち果てたものを集めて、二木多賀次郎が発足させた共済会によって「精霊菩提」とのみ文字を刻んだ小さな墓石がそこに建てられた。
佐藤登満の墓
このうち明治二十二年(1889)に亡くなった佐藤登満(とま)の墓が、日本人墓地公園最古の墓とされている。佐藤登満はからゆきさんの一人である。この付近に合わせて十四基のからゆきさんの墓が確認できる。
(フォート・カニング・パーク)
日本人墓地公園から、バスとMRTを乗り継いでフォート・カニング・パークを目指す。
フォート・カニングには、その名のとおりかつて砦があったが、今では貯水池とそれを取り囲む緑地、ホテルや政府機関が配置された広大な公園となっている。
ピナコテーク・ド・パリという美術館の前の両側のレンガ壁に墓碑がはめ込まれている。かつてこの場所にはキリスト教墓地があり、およそ六百の人が埋葬されたとされる。このうち三分の一が中国人のキリスト教徒であった。1865年に閉鎖されたが、このうち約二百の墓碑がレンガ塀に埋め込まれた。今は緑地の北東の角にわずかに十基ほどの古い墓石が残されているのみとなっている。
北側の壁に音吉の娘、エミリーの墓碑がある。エミリーは音吉と最初の妻との間にできた娘だが、わずか四歳で死去した。音吉は最初の妻も病気で失い、上海に移った後、やはりシンガポール人の女性と再婚している。
フォート・カニング・パーク
(Fort Canning Park)
ピナコテーク・ド・パリ
(Pinacothèque de Paris)
セメタリー・ウォール
(Cemetery Wall)
キリスト教墓地
(The Old Christian Cemetery)
THE MEMORY OF
EMILY LOUISA OTTOSON
Died 11th November 1862
Aged 4 Years
9 Months & 6 Days
Ottosonというのは、イギリスに帰化した音吉が名乗った英語名。墓碑にはエミリーが1862年に亡くなったと記されているが、実際は1852年である。