史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「教育勅語と御真影」 小野雅章著 講談社現代新書

2023年10月28日 | 書評

この本を読み終えるのにほぼ二カ月を要してしまった。言い訳としては、「近代教育史」という、個人的にはあまり馴染みのない分野の書籍であり、読み解くのに時間を要してしまった。我が国において天皇や天皇制について考えることは、自ずと個人のイデオロギーに密接に関わる問題である。自分では中庸だと思っていても、左側の人から見れば右寄りに見えるだろうし、自分では「やや右側かな」と思っても右側に居る人からみれば、左寄りに見えてしまう。一々「自分はどうか」と自問しながら読み進めていると、時間がかかってしょうがない。

教育勅語は、明治二十三年(1890)十月三十日に公布された全文三百十五文字の極めて短い文書である。この勅語の成立過程も本書に紹介されているが、とても興味深い。

教育勅語の実質的起草者は、井上毅である。井上毅は伊藤博文のブレーンとして大日本帝国憲法の起草に深く関わった人物である。近代立憲国家の原則からすれば、国民の良心や信仰の自由から大きく逸脱した文部省の草案「徳育の大旨」には批判的であった。彼は教育勅語の発布そのものに無理があるという立場であった。ところが、時の総理大臣山県有朋に促されて、それを拒否できないまま勅語起草を自ら行うことになった。従って、勅語そのものは、井上の強い意向により「君主は国民の内心の自由には介入しない」という近代立憲国家の大原則を堅持するものであった。彼は公布方法についてもできるだけ政治性の低い方法を推していたが、保守派の工作により天皇からの下賜という政治性を帯びたものになってしまった。

その後も近代化を推進するリベラルな理念と国体論にもとづく復古的理念の間で、我が国の教育理念は常に揺れ動いた。筆者によれば、それは現代まで続いているという。

日露戦争後、日比谷焼討事件にみられる民衆の不満が顕在化し、国家への明確な批判をこめた労働運動、社会主義運動が台頭すると、当時の政府は戊申勅書なるものを発布した。この勅書は全文三百六文字、つまり教育勅語より短いものであった。戊申勅書は、「教育勅語をして、時代を超えた普遍性を主張する「古典」の位置に昇格させ、新たな状況に対応すべき教育理念は、その都度その時々の天皇の名により示される」という方式を志向したものであった。

日本が「天皇制ファシズム」に転換し、いわゆる戦時体制に突入すると、天皇機関説が批判の対象となり、天皇を神格化する動きが加速する。昭和十年(1935)には「青少年学徒ニ賜リタル勅語」が発布され、やがて四大節(一月一日、紀元節、天長節、明治節)の学校儀式が強制されるようになっていった。単なる写真に過ぎない御真影が神格化され、奉安殿を建ててそこに保管することなどが定められた。空襲の激化に備え、御真影の集団疎開が実施され、疎開先では各校の校長が輪番で宿直し、奉護するという極めて厳格なものであった。戦時下では神格化された御真影が人命より尊重されていたのである。

その頃にはすべての高等教育機関において、学校儀式が挙行され、その中で勅語の奉唱、宮城遥拝、神棚への拝礼、国旗掲揚、国歌斉唱などが強制された。これは教育というより「洗脳」と呼んだ方が正確である。本書では、当時各都道府県で展開された様子が紹介されている。個人的には、当時日本の統治下にあった朝鮮や台湾ではどうだったのか、興味のあるところである。

本書では、教育勅語全文、さらに現代語訳も紹介されている。以下、現代語訳の抜粋。

「日本国民は父母に孝行し、兄弟姉妹は仲良くし、夫婦は互いに睦みあい、友人はともに信じあい、他人に対しては礼節を守り、自分自身には慎み深くし、慈愛を広げ、学問を修めて実業を習い、それにより知識を広め道徳性を高め、進んで公共の利益を拡大して、世の中に必要な事業を興し、常に憲法を尊重して法律をよく守り…」

と続く。

終戦から七十八年が経った今でも「教育勅語部分的肯定論」が浮上する背景には、教育勅語のこの部分を取り上げて「今日でも通用する普遍的内容を含んでいる」という考え方がある。それは否定できないが、この内容を徳目教育しようというのであれば、何も教育勅語を持ち出す必要はないだろう。是非、保守派といわれている政治家が、どういう意図で部分的肯定論を主張しているのか、聞いてみたいものである。

本書によれば、海後宗臣「教育勅語成立史の研究」、稲田正次「教育勅語成立過程の研究」などの実証的な研究により、「教育勅語に示されている徳目は、そのすべてが国家に万が一のことがある場合は、一身を投げ出し「天壌無窮の皇運」(永遠に続く天皇・皇室の運命)を助けるためのものであるという国体論に立脚したものであり、それを部分的に解釈することは不可能であるということが明らかにされている。確かにそうだろうと思う。

私は周囲から時々「おまえは右に寄っている」といわれるが、教育勅語を教育の場に復活させようという保守派の人たちと比べれば、まだ随分と真ん中にいることが確認できた。

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「幕府海軍」 金澤裕之著 中公新書

2023年10月28日 | 書評

筆者は歴史研究者であると同時に現役の海上自衛官である。本書は単なる歴史的叙述にとどまらず、現代の軍事専門家としての視点で幕府海軍を解析したものである。

例えば第二次幕長戦争における大島口の戦闘に関する解説。

――― 異なる軍種が協同して行う作戦を統合作戦という。大島口の戦いにおける幕府軍の作戦行動は日本の近代軍事史上はじめて統合作戦が試みられた事例になるが、幕府軍はこれを成功させるために必要不可欠な要素を欠いていた。統合指揮官である。四国方面の幕府軍を指揮する京極高富は大島から約五〇キロメートル離れた松山にあり、刻々と変わる戦況を把握できる状況になかった。陸海軍双方にまたがる将がいない大島では、陸軍の先任指揮官河野(伊予守通和=歩兵奉行)と海軍の先任船将肥田(浜五郎為義)が協議して作戦を決めたが、お互い相手へ指揮権が及ばないなか、作戦行動の統一性を保つのはそもそも無理な話だったのである。

 

この時点の幕府海軍は、戦況が変わると船将が短艇で僚艦に集まり、都度以降の行動を協議していた。これでは刻々と変化する戦況に対応するフリート・アクション(Fleet action=艦隊行動)を行い得る段階から「数歩手前」という状況であった。

なお、この戦闘において、高杉晋作が丙寅丸で停泊する幕府軍艦に夜襲をかけて大混乱に陥れたことが、これまでハイライトとして語られてきたが、本書では「十三日未明に高杉晋作の指揮する長州藩船「丙寅丸」(九四トン、スクリュー)が「旭日丸」「八雲丸一番」へ砲撃を加えてただちに逃走する一撃離脱の奇襲をしかけたほか戦況に動きはなかった」と淡々と触れているに過ぎない。軍事専門家の目から見ると、高杉晋作の奇襲は戦況を変えるほど大きな事件ではないのであろう。

鳥羽伏見の戦争の後、幕府は政権運営を放棄していたような印象が強いが、筆者が「慶應四年二月人事」と呼んでいる人事改革が一気に進んでいる。文久の改革以来、漸進的に進められてきた「個人の能力に基づく士官任用」の流れが一気に加速したのである。少なくとも幕府海軍はこの時点で戦意を失っていなかった。筆者は、「日本の近代海軍建設過程の画期」「このときをもって日本に本当の意味での近代海軍が成立した」とまで評している。しかし、一方で幕府海軍はその歴史的使命を終えようとしていた。

本書では所謂箱館戦争についてほぼ一章を割いて解説を加えている。箱館戦争は、それまで艦船の集団に過ぎなかった海軍が艦隊として戦った我が国初めての戦争であった。

榎本武揚は慶應四年(1868)八月、二ケタの艦船を指揮下に収め、軍艦「開陽」以下の八隻を率いて奥羽越列藩同盟の盟主となっていた仙台藩へ向かうとともに、物資輸送のため「順道丸」を越後へ、庄内藩支援のため「長崎丸二番」を出羽へ派遣。これとは別に「大江丸」と「鳳凰丸」を仙台藩に貸与していた。筆者はこれを「榎本艦隊」と呼んでいる。つまり、「榎本麾下の艦船は統一された意思の下に整然と行動」しており、榎本艦隊は単なる艦船群ではなく「艦隊」になりつつあるということなのである。

一方、新政府軍も「艦隊」と呼ぶに値する組織に成長していた。この戦いに参加した薩摩藩船「春日」の船将赤塚源六は日記に備忘のためさまざまな旗旈を記している。各艦が航行しながらこれを用いて僚艦と意思疎通を図っていたのである。艦隊とフリート・アクションが生まれつつある証左である。

さらに榎本軍が「甲鉄」を奪うため奇襲をかけた宮古湾海戦のように「三隻を一つの戦術単位として有機的に用いて戦闘を試みたのは、日本の近代海軍史上」はじめてのことで、「日本の海軍は明らかに新たな段階を迎えつつあった」としている。

本章末尾で「榎本が敗者となったのは果たして歴史の必然だったのか」と問いかける。筆者によれば、榎本にはA・徳川家の「恭順方針」を遵守するか否か B・奥羽越列藩同盟へ合流するか否か C・蝦夷地で自立を目指すか否か という三つの選択肢があった。しかし、榎本は「主家の行く末を見届け」「奥羽越列藩同盟の要請に応える」という政治的判断に引きずられ軍事的判断を誤った。つまり筆者は、徳川家の処分が決まる前に、仙台に拠らずに一直線に蝦夷を目指し、拠点を確保し、開拓を進め、蝦夷地を整備するのが最善の策とする。「いくつかの選択肢が混然とした行動となり結局どの利点も生かせなかったとする筆者の結論は、やはり神の視点になってしまうだろうか。」と本章を締めくくる。そもそも江戸を脱走した時点、あるいはその前の時点で榎本の頭の中に蝦夷地で独立政権を樹立する構想が選択肢にあったのだろうか。そこは榎本当人に聞いてみないと、何ともいえないのである。

 

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