(青山霊園)
薄井龍之
小蓮薄井龍之
室 貞子 墓
1種イ2号8側
一時帰国中の貴重な一日、嫁さんが草加市(埼玉県)に用事があるというので、そこまで自動車で送っていった後、迷わず訪ねたのが青山霊園である。何度訪ねても新たな発見がある。
この日はひたすら霊園内を歩いて、薄井龍之の墓を探し当てることができた。
薄井龍之(たつゆき)は、文政十二年(1829)、信濃国飯田の富商の生まれ。家運が傾いたため、江戸へ出て昌平黌の学僕となり、かたわらで頼三樹三郎に師事。三樹三郎が幕吏に捕らえられたとき、途上で奪回しようとして捕らえられ入獄した。脱獄して水戸の天狗党に加わり、元治元年(1864)、筑波挙兵に参加して上京の途中、小諸藩士に捕らえられたが、またしても脱走。上京して岩倉具視の知遇を得、維新後、裁判官となった。高橋お伝の裁判官としても知られる。大正五年(1916)、年八十八にて没。
藤井九成(きゅうせい)
藤井九成墓
室 八重子之墓
1種ロ15号8側
藤井九成は天保八年(1837)、京都の生まれ。曾祖父は明和事件に連座した藤井右門である。父が病んで家系が豊かではなかったため、三条家の小姓となった。十四歳のとき、同家儒臣富田織部に従って数年間西国を歴遊し、のち明経博士伏原家の孔彰堂に通学した。安政三年(1857)、家を弟に譲り、変名して国事に奔走した。このこと伏原家より九成の号を与えられ、通称とした。岩倉具視と親交があり、その幽居中も訪れ、ついで大業に参画した。その邸宅が薩摩屋敷とも藪続きであったため、西郷・大久保らの密議の結果を三条・岩倉に送る使者を務めた。慶應四年(1867)、戊辰戦争に東山道鎮撫使岩倉友定の軍監として征討軍に参加した。のち岩倉家家令、ついで諸職を経て宮内省陵墓守長となった。明治四十三年(1910)、年七十四歳で没。
なお藤井邸は烏丸通り拡張の折、山科稲荷山に移築されている。