来月、テト(旧正月)休暇を利用してカンボジアを旅行することになった。これを機にアンコールワット遺跡とカンボジアの歴史を学習しておきたいと思い書籍を探していたところ、まさにぴったりの書籍名の本をみつけたので早速取り寄せた。本書は前半がアンコールワット等の遺跡の解説、後半がカンボジアの歴史に関する記述となっている。
本書によれば、カンボジアに初めて国家が成立したのが西暦68年。インドからきた一人のブラフマン(カースト制でいう最高位の貴族)がこの地で挙兵し、コークトロークに侵攻して征服した(成立の経緯については諸説あり)。コークトローク(Kouk Thlok)は、プノンペンの100キロメートルほど南、ベトナムとの国境の街である。
その後、現代に至るまで何人もの王が立ったが、いずれも強い政権とはならず、興廃を繰り返した。振り返ればアンコールワットに遺跡群を残したいわゆるアンコール王朝(802~1431頃)がもっともカンボジアが隆盛を誇った時代であった。この時期、クメール民族は世界最大級の文化遺産を建立したというだけではなく、チャム(チャンパ)人の侵攻を幾度となく退け、軍事的にも強大であった。しかし13世紀初頭、クメールの西でシャム族が統一王朝を樹立する(スコータイ王朝)と、その軍事的圧迫を受け衰退した。その後、西はシャム、東はベトナムからの圧力を受けて、政治的には安定せずほとんど国家の体をなさない状態が続いた。カンボジアの暗黒時代といわれる。
それにしても隣国カンボジアから見ると、ベトナムというのは非常に好戦的で煩わしい存在であった。ベトナム人は紀元前から中国の歴代王朝からの干渉を受け、彼らの「中国嫌い」は骨の髄まで染みついている。これと全く同じことがベトナムとカンボジア間の関係にも言えるのではなかろうか。ベトナムは、今度は加害者に立場を変えることになるが、それほどカンボジアに対して罪の意識を感じていないかもしれない。カンボジア人がベトナムに対してどのような感情を抱いているのか、直接聞いてみたいものである。
カンボジアの悲惨な歴史は、アンコール王朝の滅亡から始まっているが、我々がこの国に抱いている強烈な負のイメージは、戦後の歴史に起因している。ベトナムがインドシナ戦争やベトナム戦争を経てようやく独立を獲得したのに対し、ノロドム・シハヌーク国王は粘り強く独立運動を展開し、国際世論にも訴えた結果、血を流すことなく1953年に独立を成し遂げた。しかし1970年、親米派のロン・ノル(当時国防相)がシハヌークの外遊中を狙ってクーデターを起こし、クメール共和国の樹立を宣言。ロン・ノルは激しい反ベトナム(反共産)キャンペーンを展開し、南ベトナム民族解放戦線(NLF=ベトコンと呼ばれることが多い)を敵視し、カンボジアに住むベトナム系住民を迫害・虐殺した。さらにアメリカ軍や南ベトナムに要請して、自国を空爆させるといった無茶苦茶なことをやりだした。当時アメリカが「反ベトナム、反共産主義」というだけでロン・ノル政権を支持していたことも理解に苦しむ。
ベトナム戦争が終結し米軍がインドシナ半島から撤退すると、後ろ盾を失ったロン・ノル政権も追い詰められ、1975年にクメール共和国は崩壊した。ロン・ノルに代わってプノンペンに入城したのが、ポル・ポトを首魁とするクメール・ルージュである。彼らは極端な原始共産主義への回帰を標榜し、都市の富裕層や知識階級、留学生などを次々と虐殺した。このとき百万を超える国民が虐殺されたといわれる。今もカンボジアの各地でポル・ポトによる虐殺の跡(キリング・フィールド=大虐殺が行われた刑場跡)を見ることができる。やがてクメール・ルージュに反発したベトナムとカンボジアとは戦争状態となるが、1979年、ベトナムのプノンペン攻略によってクメール・ルージュは掃討された。その後もカンボジア内戦は泥沼化が続き、1993年、シハヌークが国王に復し、現代に続くカンボジア王国が誕生し、ようやくカンボジアに平和が訪れた。我々外国人がアンコールワット遺跡を自由に見学できるようになったのも、この時期以降のことである。
こうしてカンボジアの歴史を概観すると、その国を率いるリーダーの資質がいかに国民の生活や平和に大きく影響するかという当たり前のことを実感する。我が国の歴史を見れば、昭和初期(戦前の20年)の常軌を逸した時期を除けば、国のリーダーは(完璧とはいわないまでも)比較的真っ当だったといえる。特に明治維新から日露戦争に至るまでの国家の黎明期ともいえる重要な時期、大久保利通や伊藤博文といったリーダーは、国家の行く末を真剣に考えていたという点で優秀であった。これは我が国にとって本当に幸いであったと思う。