(聖ルートビッヒ教会)
シーボルトは、安政五年(1859)、鎖国が撤廃されると和蘭商事の評議員として二度目の来日を果たし、長崎に滞在した。文久元年(1861)には幕府に招聘され江戸に赴いたが、わずか四か月で職を解かれて長崎に戻った。このとき日本の関連資料を精力的に収集し、翌年にはそのコレクションをオランダ、アムステルダムに送っている。オランダに戻ったシーボルトは、そのコレクションの購入をオランダ政府に要請したが最終的に断られ、バイエルン国王ルートビッヒ二世にコレクションの購入を依頼した。以降、シーボルトはミュンヘンに移り、ここでコレクションの整理に没頭した。このころシーボルトは3回目の日本渡航を計画しており、その資金作りのためにもできるだけ早くコレクションを整理し売却する必要に迫られていたのである。しかしながら、風邪をこじらせたシーボルトは敗血症を引き起こし、1866年10月18日、ミュンヘン市内で息を引き取った。享年70。シーボルトの葬儀は、ミュンヘン大学の大学教会を兼ねる聖ルートビッヒ教会にて行われ、10月21日にはミュンヘン南墓地に葬られた。
聖ルートビッヒ教会
(勝利の門)
勝利の門(Siegestor)のことを「米欧回覧実記」では凱旋門と記している。
――― 府ノ北ニハ、凱旋門アリ、伯林(ベルリン)ニテミル所ト、同法ノ結構ナリ、
勝利の門
南側より撮影
勝利の門
北側より撮影。こちらが正面である。
勝利の門の脇の並木道
(エングリッシャーガルテン)
「勝利の門」に続いてエングリッシャーガルテン(Englischer Garten)が紹介されている。
――― 此辺ニ公苑アリ、「インギリス・ガーテン」ト云、区域広大ニテ、中ニ大池ヲ掘リ、河流ヲ曲折ス、水流急ニシテ、時ニ淙淙(そうそう)ノ声アリ、山丘ノ設ケナケレトモ、樹老鬱ニテ、水清麗ナル、亦一種ノ勝概アリ、中央ニ亭アリ、麦酒茶菓ヲ売リテ、憩息ノ地トス、其亭ハ支那風ヲ模シタルトテ、木製ノ奇亭ナリ、
「勝概」とは「優れた景色」を意味する漢語表現である。
エングリッシャーガルテン
エングリッシャーガルテン
中国の塔Chinesischer Turm
「中国にもこんな建物はないだろう」というほど奇妙な形をした建造物。周囲はビア・ガーデンになっている。平日の昼間というのにたくさんの老若男女が集まってビールを飲んでいる。ミュンヘンの人たちの無上の楽しみなのだろう。
レバーケーゼ(leberkasse)
ここでドイツ料理の一つであるレバーケーゼなるものを注文してみた。Leberはレバー、Kasseはチーズのことらしいが、実態としてはソーセージの肉をケーキ状に固めたもので、大きなソーセージみたいな食べ物である。ドイツ人は余程ソーセージが好きなのだろう。でなきゃ、こんな食べ物を思いつくはずがない。
店員に勧められるまま断り切れず、お皿にフライド・ポテトを山盛りにされ、どう考えても本日の食事はこれでお終い。腹いっぱいである。
ビール
精算時にコインを渡され、飲み終わったジョッキとコインを渡すと、1€が返金される(デポジット方式)。ウェイターを使わなくてもジョッキが回収できるといううまい仕組みである。
昼間からビールを楽しむ人たち
ジョッキの返還場所