史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「悲劇の改革者 調所笑左衛門」 原口虎雄著 草思社

2024年10月27日 | 書評

本書は昭和四十一年(1966)に中公新書から発刊された「幕末の薩摩 悲劇の改革者調所笑左衛門」の主題・副題をひっくり返して改題し、実に五十八年ぶりに復刊したものである。それまで「悪の張本人」とされ、怨嗟の的であった調所に光を当て、彼の功績を浮かび上がらせた名著である。自宅の本棚には「幕末の薩摩」があるが、改めてこの本を手にとって調所笑左衛門という人の事歴を追ってみることとした。

この人物が「悪役」とされるのは、お由羅騒動で斉興・お由羅側についたためである。つまり、明治維新の勝者である薩摩藩の討幕派からは蛇蝎のごとく嫌われたのである。そのため調所一族は零落し、孫のノブ女は、鞠や押絵の内職に励み、夜になると一里も離れた町まで呼び売りに出かけ、時に旅館の二階まで上がって鞠を売った。「金助鞠鞠(まいまい)」と寒風の中で叫ぶ少女の哀音は、地方郷士の憐みをさそったという。

調所笑左衛門広郷は江戸と国元を往復する茶坊主であった。しかし、その後御小納戸勤を命じられ、ついで御小納戸頭取御用、御取次見習を兼務した。さらに御使番、町奉行へと栄進した。いずれも時の藩主島津重豪の引き立てによるものであった。

文政七年(1824)、五十歳のとき再び君側に招かれ御側御用人という重要ポストに任じられた。そして文政十一年(1828)、重豪の命により藩政改革の大任を奉じ、家老中にも指揮せよとの上意を受けた。一介の茶坊主に過ぎなかった調所がこうして抜擢されたのは、彼の有能さを重豪が見抜いたからにほかならない。重豪の見立てに狂いはなかったといえよう。

一口に「改革」というが調所の手がけた改革は多岐にわたる。

  1. 当時の薩摩藩にとって最大の課題が財政改革である。調所がやったことの筆頭に挙げられるのが五百万両にも及ぶ借金の踏み倒しである(実際には二百五十カ年年賦の無利子償還)。証文を集めてすべて焼き払ってしまったというからかなり乱暴な手口である。
  2. 続いて冗費削減と国産開発。藩費の半分以上を占める営繕費用の削減。木材などの資材を直接調達したり、手続きを簡素化することで支出の合理化を進めた。
  3. 冗費削減の典型例として挙げられるのが南西諸島と大阪を結ぶ海運の大改正。大船を建造して米や砂糖をタイムリーに廻送できる体制をととのえた。
  4. 菜種子、櫨蠟、煙草、椎皮、椎茸、牛馬皮、海人草、鰹節、捕鯨、櫓木、硫黄、明礬、石炭、塩、木綿織物、絹織物、薩摩焼などの物産開発に手を付けた。同時に流通の合理化をすすめた。
  5. 三島方を設置して奄美三島の黒糖の専売化を推進した。島民への生産強制、品位改良、密売の徹底的取締り、運賃の削減、交換比率のペテン的低率適用、そして高値での売りさばき。
  6. 農政改革では、従来、「上見部下り」と呼ばれ、天災を口実に年貢の軽減を受ける悪弊が常態化していたのを「定免制」に転換した。
  7. 軍制改革。家禄高に応じた軍賦を逃れるため、高の売買が横行していたが、その改革に着手した。

調所は多方面の改革を精力的に、しかも二十年の長きにわたって取り組んだ。彼はもともと茶道や花、囲碁、将棋、詩歌、角力などを好んだが、藩政改革に従事するとフッツリとやめ、部下がこれらの趣味に走ることをひどく嫌ったという。毎年、十月頃に国元を出発し、途中長崎、大阪、京都に逗留しながら陣頭指揮をとった。一年のうち家族と同居するのはわずかに二~三か月という生活を二十年以上にわたって続けた。毎日、登庁前に来客と用談し、帰宅後も夜半まで応接に忙殺された。「とにかく大変な精力家で、たまに徹夜をしても、翌日ちょっと居眠りするだけで精神が爽やかになった」というから一種の超人だったのだろう。側近のものでも調所のだらけた姿を見たことがないといわれる。反調所派や反由羅派があら探しに奔走したが、何も見つからなかった。徹頭徹尾生活は質素であり、これだけ権力を掌中にしながら一切汚職に手を染めることもなかった。

調所の眼からすれば、斉彬は「偏に洋癖に固まり珍奇を衒ひ(てらい)、無用の冗費をつくされ、用度(必要な費用)為に空竭(くうけつ:すっからかんになる)に至らん」「(斉彬)公は高祖重豪公の風あれば、或いは驕奢に募り、わずかに立ち直らんとする御家の先途も危からん」と映じた。江戸育ちで、しかも重豪の膝下に愛育された斉彬を、全く所帯の苦労を知らぬハイカラ若殿と感じたのは無理もないことで、「財布の底を見ないで行なう文明開化は、重豪で充分に懲りていた」とされる。

しかし、日本に危機が迫り、老中阿部正弘をはじめとした幕閣からも諸侯からも斉彬の登場を嘱望されていた。調所の判断ミスがあったとすれば、新しい時代が来ていることを察知できなかったことであろう。

嘉永元年(1848)時点で、斉興は58歳、斉彬は既に40歳になっていたが、斉興は頑なに家督を譲ろうとしなかった。そこで斉彬は阿部正弘と結託して、調所の密貿易事件を密告し、まずは斉興の両翼というべき調所と二階堂志津馬を失脚させるべく、周到な手を打った。密貿易というのは、弘化三年(1846)、琉球の使者池城(いけぐすく)が中国へ渡航して交渉し、十万両の品物を薩摩から密輸出し、同時に琉球の残留外国人を連れ帰ることを取り決めた、このことを指している。当時薩摩領内の津々浦々には密貿易の専門家がいた。公許された琉球貿易を隠れ蓑にして、その裏では盛大な藩営密貿易を行っていた。調所はその陣頭に立ち、年に二度は必ず長崎に立ち寄って指揮をしていた。この秘密が絶対に漏れないように周到な裏面工作を行っていたというから、これが幕府の知るところとなった(実は斉彬から阿部へ意図的に漏らした)とは、さすがの調所も驚倒したであろう。このままでは藩主斉興の立場が危ういと思った調所は、罪を一身にかぶって服毒自殺を遂げた。彼は「改革が完成するまでは隠退しない」と周囲に伝えていたという。無念の死であった。齢七十三。

幕末の薩摩藩が圧倒的な財力によって、政局をリードし、遂には倒幕の主体となったのは周知のとおり。その財力を築き上げた最大の功労者は調所笑左衛門であり、本来討幕運動にかかわった人たちは調所に足を向けて寝られないはずである。斉興―由羅―調所VS斉彬という対立図式でみれば、調所は怨嗟の対象であり悪役となってしまうが、調所を抜擢したのは斉彬の曽祖父である重豪であるし、由羅の子久光なくして討幕はあり得なかった。幕末の薩摩藩は、単純な対立構造で説明できるものではなく、両者は複雑に絡み合っている。維新の功労者であっても、調所笑左衛門を悪人呼ばわりすることはできないはずなのである。

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「川路利良 日本警察をつくった明治の巨人」 加来耕三著 中央新書クラレ

2024年10月27日 | 書評

本書は、今から二十年前の平成十六年(2004)に講談社+α文庫より「日本警察の父 川路大警視」として発刊されたものを再編集して改題したものである。さすがにこの二十年で見直された歴史について、最新の知見が反映されていないのはしょうがないとして、明らかな誤り(たとえば、出羽米沢出身の千阪高雅を石川県士族としたり、京都府参事の槇村正直のことを植村正直と表記したり…)は訂正して欲しかった。

川路利良という人物の特質が一番よく表れているのが、明治六年の政変の後、西郷隆盛が辞職して帰郷すると、文武の薩摩系官吏が一斉にあとを追って辞職した場面である。この時、警保助兼大警視であった川路は、ほかの警保寮の奏任官とともに太政官に上申書を提出している。

「臣等惶恐(せいきょう)俯(ふし)て惟(おも)ふ。刑罰は国家を治ル要具、則(されば)一人を懲して千万人恐る。」

公明正大であるべき法の執行に愛憎(私情)を挟むのはおかしい。「曩(すで)に京都府参事槇村正直、拒刑の罪あり」――― それを拘留しておきながら、今ふいにそれを解くのは「臣等驚き且つ怪しむ」。邏卒たちが懸命にその職務を遂行するのは「一に信賞必罰法令厳重にして、以て之を約束せざるなし」だからであって、「今若し政府愛憎を以て、法憲軽重するが如き曖昧倒置の挙措ありと誤認せば、即ち曰はん、国家の大臣信ずるに足らざるべしと、既に如斯(そのごとく)、況(いわん)や区々の法令約束何の頼む所ありて能く勤労せん。数千の属員をして一度離心を抱かしめ、法令行はれざるに及んで、遂に制馭する能はざるの勢に至る必せり」これは「近衛の士卒非役を命ずる者数千人」も同罪と断じた。

川路は幕末以来、西郷によって卑賎の身から引きたてられた経歴をもつ。周辺の人間は誰もが川路も西郷のあとを追って下野するだろうと考えていたが、川路の発想は全く異なっていた。ここに彼の思想や国家観を見ることができる。国家の仕事を遂行するのに、愛憎だとか恩義とかを持ち込むべきではないというのである。

川路は「冀(ねがわ)くば政府速(すみやか)に明諭し、(槇村)正直の為に下す所の特命の旨と近衛兵動揺のことの由とを審」せよと主張し、この上申書の勢いそのまま上司である大久保利通に迫った。大久保は川路に対して懸命の説得を行い、最後は「もう少し時期を待って欲しい」と懇願することで川路はようやく矛を納めるところとなった。川路は、よく言えば筋を通す熱血漢、悪く言えば融通がきかない頑固者であった。

川路と対照的だったのが、同じ薩摩出身の同僚、坂元純煕であった。坂元は、川路が洋行する直前に川路と並んで警保寮助大警視に就任し、川路の留守中警保助として実質的に警察を取り仕切った人物である。坂元は警保寮が司法省から内務省に移管された明治七年(1874)一月十日、辞表を提出した。この時、鹿児島出身の警察官吏約百余人もこれに従った。坂元は一旦鹿児島に戻ったものの、旧近衛兵の連中とはそりが合わず、間もなく東京に戻ってきた。しかし、さすがに内務省には戻れず、陸軍省に入った。西南戦争にも少佐として従軍した(因みに川路は西南戦争時には臨時的に陸軍少将に昇進している)。

彼は連日眠る時間を惜しんで職務に尽くした。睡眠時間を四時間と定め、死ぬまでそれを実践した。己に厳しいだけではく、警察官に「警官は人民のために死すべし」と訓示し、警察官は国家、国民の盾であり、滅私奉公以外につとめようはないとし、厳格な規律をもとめた。今なら過労死を厭わないパワハラ上司ということになるだろう。しかしながら、我が国の警察の草創期にこのような意思堅固な指導者を頂いたことは、現代日本の警察の姿を思い合わせると警察にとっても幸運だったのではないだろうか。

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