史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

西陣 Ⅳ

2025年03月08日 | 京都府

(徳寿院)

 

徳寿院

 

本院開山 大原一族菩提

 

 「明治維新人名辞典」によれば、大原重実(大原重徳の実子)の墓が徳寿院にあるというので、朝一番に実家から歩いて訪問。

 本堂の前には大原一族の墓石が集められた一角があり、徳寿院が大原氏によって開かれた寺であることが分かる。しかし、ここに大原重実の墓石はない。墓地を探そうとしたが、鍵がかけられており進入できず。

 大原重実(しげみ)は、天保四年(1833)の生まれ。天保八年(1837)正月、叙爵、備後権介、侍従を経て、慶應四年(1868)五月、左少将に任じられ、明治二年(1869)四月、正四位下に叙された。この間、綾小路姓時代、文久三年(1863)三月、濫りに諸藩士と交わったことにより蟄居を命じられた。慶應四年(1868)正月、戊辰戦争が起こると、近江に脱出して討幕の義兵を募り、二月海軍先鋒、四月海軍先鋒総督を命じられて、江戸近海に警備に当たった。ついで江戸鎮台補・関八州監察使・弁事等を歴任。明治二年(1869)四月、公議所議長となり、六月、戊辰の戦功により賞典禄百石を永世下賜され、十二月、酒田県知事に転じ、明治四年(1871)八月、外務省に出仕、外務少丞を経て少書記官となった。明治十年(1877)九月、自邸において強盗のため殺害された。年四十五。

 安政元年(1855)十二月、綾小路有良の嗣子となり、名を俊実と改めたが、慶應四年(1868)正月、大原氏に復している。

 

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西本願寺 Ⅲ

2025年03月08日 | 京都府

(西本願寺つづき)

 

明治天皇行幸所本願寺

 

 西本願寺書院前にある明治天皇行幸所本願寺碑は、明治十年(1877)二月十六日の行幸を記念したもの。国宝飛雲閣に滞在したとされている。

 

(龍谷大学つづき)

 

明治天皇御小休所本願寺舊大教校

 

 龍谷大学正門前の明治天皇御小休所本願寺舊大教校碑は、明治十三年(1880)七月二十日の行幸を記念したもの。

 

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烏丸五条

2025年03月08日 | 京都府

(下京中学校)

 下京中学校の南側(鍵屋町通り側)に「明治天皇行幸所下京第廿四組小学校」碑と尚徳中学校の碑が建てられている。明治十年(1877)六月二十八日の行幸。

 

明治天皇行幸所下京第廿四組小学校

 

尚徳の碑

 

 明治十年(1877)六月二十八日の建碑。時の太政大臣三条実美の書。「業精于勤」とは、唐代の文人韓愈の言葉である。「ぎょうはつとむるにくわし」と読みくだす。学問は努力すればするほど精通する、という意味合いである。

 

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烏丸 Ⅵ

2025年03月08日 | 京都府

(亀山稲荷神社)

 烏丸松原から西に入って、中野之町に亀山稲荷神社がある。かつてこの場所にあった丹波亀山藩の屋敷内にあった神社である。

 

亀山稲荷神社

 

丹波國亀山藩京屋敷跡

 享保年間(1730年頃)、丹波篠山藩五万石の松平家の屋敷となり、その後、寛延元年(1748)、松平氏が丹波亀山藩に転封となり、屋敷も亀山藩に引き継がれた。歴代の藩主は、幕府の要職に就き、京都でも京都火消役など京都監視の重責を担った。慶應三年(1867)には京都市中取締役を勤めた。明治二年(1869)、版籍奉還時に藩名を「亀山」に改称した。明治三年(1870)、京屋敷は民有地となった。

 

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木屋町 Ⅴ

2025年03月08日 | 京都府

(ホテルリソル京都 河原町三条)

 後藤象二郎寓居跡は、令和七年(2025)一月現在、ホテルになっている。ホテル内に「後藤象二郎寓居跡記念ギャラリー」が設けられている。さほど大きなものではないが、こういう配慮は大変有り難い。

 

ホテルリソル京都 河原町三条

 

後藤象二郎寓居跡記念ギャラリー入口

 

後藤象二郎の書

(何が書かれているのかさっぱり…。相当な悪筆である)

 

当時の寓居周辺を再現したパノラマ

 

大政奉還の建白書(複製)

 

(瑞泉寺)

 

瑞泉寺

 

 瑞泉寺は、豊臣秀次一族の菩提を弔うために建立された寺で、境内には秀次始め幼児や妻妾、殉死した家臣ら四十九柱の五輪塔がある。

 最近になって(令和元年(2019)五月)門前に「橋本左内訪問之地・岩瀬忠震宿所跡」が建てられた。

 

 老中堀田正睦と岩瀬忠震は、通商条約の調印に先立ち、孝明天皇をはじめとする朝廷の事前の許可(勅許)を得るために、安政五年(1858)五月、上京した。その時の岩瀬の宿所が瑞泉寺である。

 堀田と岩瀬は、開国が必然であることを力説して勅許を求めたが、遂に得ることのできないまま、堀田に先立ち江戸に帰ることになった。

 

福井藩士 橋本左内訪問之地

岩瀬忠震宿所跡

 

 世間では勅許を得ないまま条約の調印を認めた井伊直弼のことを「開国の恩人」と称しているが、実は積極的に開国を推進したのは岩瀬忠震であった。「開国の恩人」と呼ぶなら岩瀬こそ相応しい。この石碑を建てた発起人の中には、佛教大学の青山忠正教授や神田外国語大学町田明広教授らの名前が並ぶが、もっと岩瀬忠震のことを評価すべきという先生方の想いが伝わってくる。

 

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三条大橋 Ⅵ

2025年03月08日 | 京都府

(三条大橋つづき)

 三条大橋の南側の擬宝珠のうち、西から数えて二つ目に刀傷が残っている。池田屋事件の際のものと言われているが、今となっては真偽不明。

 

擬宝珠

 

刀傷

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