(徳寿院)
徳寿院
本院開山 大原一族菩提
「明治維新人名辞典」によれば、大原重実(大原重徳の実子)の墓が徳寿院にあるというので、朝一番に実家から歩いて訪問。
本堂の前には大原一族の墓石が集められた一角があり、徳寿院が大原氏によって開かれた寺であることが分かる。しかし、ここに大原重実の墓石はない。墓地を探そうとしたが、鍵がかけられており進入できず。
大原重実(しげみ)は、天保四年(1833)の生まれ。天保八年(1837)正月、叙爵、備後権介、侍従を経て、慶應四年(1868)五月、左少将に任じられ、明治二年(1869)四月、正四位下に叙された。この間、綾小路姓時代、文久三年(1863)三月、濫りに諸藩士と交わったことにより蟄居を命じられた。慶應四年(1868)正月、戊辰戦争が起こると、近江に脱出して討幕の義兵を募り、二月海軍先鋒、四月海軍先鋒総督を命じられて、江戸近海に警備に当たった。ついで江戸鎮台補・関八州監察使・弁事等を歴任。明治二年(1869)四月、公議所議長となり、六月、戊辰の戦功により賞典禄百石を永世下賜され、十二月、酒田県知事に転じ、明治四年(1871)八月、外務省に出仕、外務少丞を経て少書記官となった。明治十年(1877)九月、自邸において強盗のため殺害された。年四十五。
安政元年(1855)十二月、綾小路有良の嗣子となり、名を俊実と改めたが、慶應四年(1868)正月、大原氏に復している。