(有栖川宮督戦の地)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/fb/d891ddd8131714b27aab73cef44b2a0a.jpg)
征討総督有栖川宮御督戦阯
明治十年(1877)二月二十七日、高瀬河畔の戦に敗れた薩軍は、山鹿・田原坂・吉次峠の戦線まで退いた。官軍は三月三日、稲佐・立岩の薩軍前線陣地を突破し、三月四日には田原坂への攻撃を開始した。同月二十日に至るまで田原坂陥落には十七日間を要した。当時、高瀬に宿陣していた征討総督有栖川宮熾仁親王は、しばしばこの高台を訪れ、戦況を視察したという。
(宇蘇浦官軍墓地)
宇蘇浦官軍墓地には、田原坂および横平山攻防戦や木葉の戦いで戦場の露と消えた官軍将校二十五名、下士四十七名、兵卒二百四十九名、軍夫十三名と抜刀隊で知られる東京警視局巡査六十四名が葬られる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/5a/c127a2683d525fd82b02beffe8c13ee1.jpg)
宇蘇浦官軍墓地
明治十年之役官軍戦死者墳墓
陸軍少佐従六位吉松秀枝之墓
吉松秀枝(ほつえ)は、土佐藩の出身。弘化二年(1845)、土佐城下に生まれた。維新前は速之助と称した。文久三年(1863)、藩兵として上洛。鳥羽伏見戦争に参加し、その後、今市、日光、会津を転戦した。会津戦争では捕えられた神保雪子に短刀を渡して自刃を助けたと伝わる。明治九年(1876)の神風連の乱では鎮台兵をまとめて鎮圧に功があった。二月二十二日、植木における戦闘で薩軍の猛撃を受けた吉松は乃木連隊長に援軍を要請した。度重なる援軍要請に、乃木は自ら伝令として吉松のもとを訪れ
「援兵の余裕などない。君がもしここを守らないというなら、私が君に代わって守ろうじゃないか。」
と言い放った。吉松は笑顔でこれに報いた。
「私は、ただ君の方に余力があるなら増援してもらいたいと思っただけである。ここは自分が守る。言っておくが、貴職は連隊長であり、大局を監督するのがその職務である。長くここに留まるべきではなかろう。」
恐らくこの時吉松は死を決したのであろう。決死隊二十余名を募って薩軍に対して銃剣突撃を敢行し、壮絶な戦死を遂げた。享年三十三。
(徳成寺)
徳成寺
徳成寺にも官軍病院が置かれたため、やはり日本赤十字発祥の地を称している。
西南戦争田原坂における激戦の時、官軍は三月中旬、木の葉の徳成寺、正念寺と境木の民家に包帯所を設け、戦傷者の治療に当たったが軍医の数が足らず、これを知った近在の三人の開業医(宗、田尻、安成)はその門弟を連れて軍医を助け、傷病兵の手当に従事した。この時、戦況視察に訪れていた元老院議官佐野常民と大給恒は、この様子を見て感激し、博愛社の結成を決意した。同年五月三日、征討総督有栖川宮熾仁親王に願い出て、即日許可された。博愛社はのちに日本赤十字社となった。
官軍病院阯
日赤発祥之地
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/84/1d10d323ccbb002e4dfcbabef70d2ebe.jpg)
「命水」於:西南之役
徳成寺には包帯を洗い、米を洗い、手当に欠かせないという意味で「命水」と呼ばれた井戸が残されている。
(高月官軍墓地)
官軍墓地は熊本県内だけでも二十一ヵ所を数えるが、埋葬者九百八十、墓碑数九百七十を数える高月官軍墓地はその中でも最大規模のである。埋葬者の大半は、田原坂、吉次峠、二股および横平山の戦闘で戦死した大阪、東京、広島、名古屋および熊本鎮台兵もしくは近衛兵である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/bf/96bfdc3f0667410f039505df17252721.jpg)
高月官軍墓地
慰霊塔
慰霊塔は、玉東町出身の戦没者を慰霊するもので、西南戦争関係は一名。それ以外に日清・日露から第二次世界大戦の戦没者の名前が台座に刻まれている。
吉松少佐顕彰詩碑
位田百川(よだひゃくせん)による吉松秀枝少佐を称える詩碑である。位田百川は、佐倉藩の公用人。維新後は文部省権少書記官などを務めた。詩文・書を能くし、また演劇のために種々画策、研究に努めた人である。明治四十二年(1909)七十七歳で没。
吉松秀枝は、二月二十三日、木葉の戦いで壮烈な最期を遂げた。墓は宇蘇浦官軍墓地にある。
(櫻田惣四郎辞世詩碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/1b/b7533af16e8b1c7bb3629283b91245c5.jpg)
櫻田惣四郎辞世詩碑
桜田惣四郎は玉東町二股の森井宗善の子。十六歳の時熊本に出て、藩校時習館の居寮生となった。ついで幕府の学問所昌平黌に留学した。慶応三年(1867)、熊本の桜田東作の養子となり桜田姓となった。維新後、新政府の役人となったが、ほどなく帰国して熊本千反畑で塾を開いた。明治十年(1877)一月十五日、熊本県は惣四郎を高給で千葉中学校長に迎えようとしたが、池辺吉十郎、松浦新吉郎、佐々友房、古閑俊雄らと熊本隊を組織しその参謀となり、薩軍に投じた。この石碑は同二月、出陣に際しての辞世である。
欲潔一身不覓栄
豈何莫解究辞令
甘心就死新城下
枉得賊名孝子情
三月、熊本隊は利あらずして吉次を敗退して、各地を転戦し、八月十七日、長井村(現・宮崎県)で降伏した。惣四郎は長崎に送られて裁判にかけられ斬罪に処された。享年五十。
(正念寺)
正念寺
官軍病院阯
戦争で負傷した兵士を治療するために設けられた官軍の包帯所(病院)跡で、山門前に「官軍病院阯」と書かれた石碑が建っている。山門には西南戦争時の弾痕が残る。赤十字の前身、博愛社が置かれたため、境内に「博愛社発祥縁起の地」碑がある。
博愛社発祥の地
博愛 佐野常民書
西南の役官薩両軍菩提之碑
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/fb/d891ddd8131714b27aab73cef44b2a0a.jpg)
征討総督有栖川宮御督戦阯
明治十年(1877)二月二十七日、高瀬河畔の戦に敗れた薩軍は、山鹿・田原坂・吉次峠の戦線まで退いた。官軍は三月三日、稲佐・立岩の薩軍前線陣地を突破し、三月四日には田原坂への攻撃を開始した。同月二十日に至るまで田原坂陥落には十七日間を要した。当時、高瀬に宿陣していた征討総督有栖川宮熾仁親王は、しばしばこの高台を訪れ、戦況を視察したという。
(宇蘇浦官軍墓地)
宇蘇浦官軍墓地には、田原坂および横平山攻防戦や木葉の戦いで戦場の露と消えた官軍将校二十五名、下士四十七名、兵卒二百四十九名、軍夫十三名と抜刀隊で知られる東京警視局巡査六十四名が葬られる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/5a/c127a2683d525fd82b02beffe8c13ee1.jpg)
宇蘇浦官軍墓地
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/68/d439ba410c76d79cb5d6916775993fd7.jpg)
明治十年之役官軍戦死者墳墓
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/c1/50e959cbeb7031292850d1e17d4d5a47.jpg)
陸軍少佐従六位吉松秀枝之墓
吉松秀枝(ほつえ)は、土佐藩の出身。弘化二年(1845)、土佐城下に生まれた。維新前は速之助と称した。文久三年(1863)、藩兵として上洛。鳥羽伏見戦争に参加し、その後、今市、日光、会津を転戦した。会津戦争では捕えられた神保雪子に短刀を渡して自刃を助けたと伝わる。明治九年(1876)の神風連の乱では鎮台兵をまとめて鎮圧に功があった。二月二十二日、植木における戦闘で薩軍の猛撃を受けた吉松は乃木連隊長に援軍を要請した。度重なる援軍要請に、乃木は自ら伝令として吉松のもとを訪れ
「援兵の余裕などない。君がもしここを守らないというなら、私が君に代わって守ろうじゃないか。」
と言い放った。吉松は笑顔でこれに報いた。
「私は、ただ君の方に余力があるなら増援してもらいたいと思っただけである。ここは自分が守る。言っておくが、貴職は連隊長であり、大局を監督するのがその職務である。長くここに留まるべきではなかろう。」
恐らくこの時吉松は死を決したのであろう。決死隊二十余名を募って薩軍に対して銃剣突撃を敢行し、壮絶な戦死を遂げた。享年三十三。
(徳成寺)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/ff/263a8123e88e99510437b4c63063adac.jpg)
徳成寺
徳成寺にも官軍病院が置かれたため、やはり日本赤十字発祥の地を称している。
西南戦争田原坂における激戦の時、官軍は三月中旬、木の葉の徳成寺、正念寺と境木の民家に包帯所を設け、戦傷者の治療に当たったが軍医の数が足らず、これを知った近在の三人の開業医(宗、田尻、安成)はその門弟を連れて軍医を助け、傷病兵の手当に従事した。この時、戦況視察に訪れていた元老院議官佐野常民と大給恒は、この様子を見て感激し、博愛社の結成を決意した。同年五月三日、征討総督有栖川宮熾仁親王に願い出て、即日許可された。博愛社はのちに日本赤十字社となった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/5e/4dd53a0d59ab78aae3dc5435467a1a7f.jpg)
官軍病院阯
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/68/4b54ff38212078efc6373bb5e74757bd.jpg)
日赤発祥之地
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/84/1d10d323ccbb002e4dfcbabef70d2ebe.jpg)
「命水」於:西南之役
徳成寺には包帯を洗い、米を洗い、手当に欠かせないという意味で「命水」と呼ばれた井戸が残されている。
(高月官軍墓地)
官軍墓地は熊本県内だけでも二十一ヵ所を数えるが、埋葬者九百八十、墓碑数九百七十を数える高月官軍墓地はその中でも最大規模のである。埋葬者の大半は、田原坂、吉次峠、二股および横平山の戦闘で戦死した大阪、東京、広島、名古屋および熊本鎮台兵もしくは近衛兵である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/bf/96bfdc3f0667410f039505df17252721.jpg)
高月官軍墓地
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/8b/ee2b4925b9088cc0e92ebe5b49f04d41.jpg)
慰霊塔
慰霊塔は、玉東町出身の戦没者を慰霊するもので、西南戦争関係は一名。それ以外に日清・日露から第二次世界大戦の戦没者の名前が台座に刻まれている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/97/e0b6677a232745cd1af380e8b6e496f5.jpg)
吉松少佐顕彰詩碑
位田百川(よだひゃくせん)による吉松秀枝少佐を称える詩碑である。位田百川は、佐倉藩の公用人。維新後は文部省権少書記官などを務めた。詩文・書を能くし、また演劇のために種々画策、研究に努めた人である。明治四十二年(1909)七十七歳で没。
吉松秀枝は、二月二十三日、木葉の戦いで壮烈な最期を遂げた。墓は宇蘇浦官軍墓地にある。
(櫻田惣四郎辞世詩碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/1b/b7533af16e8b1c7bb3629283b91245c5.jpg)
櫻田惣四郎辞世詩碑
桜田惣四郎は玉東町二股の森井宗善の子。十六歳の時熊本に出て、藩校時習館の居寮生となった。ついで幕府の学問所昌平黌に留学した。慶応三年(1867)、熊本の桜田東作の養子となり桜田姓となった。維新後、新政府の役人となったが、ほどなく帰国して熊本千反畑で塾を開いた。明治十年(1877)一月十五日、熊本県は惣四郎を高給で千葉中学校長に迎えようとしたが、池辺吉十郎、松浦新吉郎、佐々友房、古閑俊雄らと熊本隊を組織しその参謀となり、薩軍に投じた。この石碑は同二月、出陣に際しての辞世である。
欲潔一身不覓栄
豈何莫解究辞令
甘心就死新城下
枉得賊名孝子情
三月、熊本隊は利あらずして吉次を敗退して、各地を転戦し、八月十七日、長井村(現・宮崎県)で降伏した。惣四郎は長崎に送られて裁判にかけられ斬罪に処された。享年五十。
(正念寺)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/d0/139358cc40d40ab1969071238aa19f51.jpg)
正念寺
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/0b/d3824e7191e596305dd8f7f235d05077.jpg)
官軍病院阯
戦争で負傷した兵士を治療するために設けられた官軍の包帯所(病院)跡で、山門前に「官軍病院阯」と書かれた石碑が建っている。山門には西南戦争時の弾痕が残る。赤十字の前身、博愛社が置かれたため、境内に「博愛社発祥縁起の地」碑がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/96/080f6fb6ea9ef3de75ea766f87383879.jpg)
博愛社発祥の地
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/87/0f965d873358e5e8f62fa2f351725b2a.jpg)
博愛 佐野常民書
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/3b/11f35092ba43f006b9f8a5d6cbaca4eb.jpg)
西南の役官薩両軍菩提之碑
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます