(明徳官軍墓地)
植木の緒戦では、官薩両軍とも大きな損害は出ていない。ほんの数人という戦死者の中に連隊旗手河原林雄太少尉がいた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/38/8151a3cbabc44c7b0942d93f021b9736.jpg)
明徳官軍墓地
明徳官軍墓地には、百二十二基の墓石がある。政府軍の陸軍士官・二、下士・十七、兵卒・九十八と軍夫・五という内訳である。所属別では近衛歩兵第二連隊が最も多くて七十一基、次いで東京鎮台、熊本鎮台、大阪鎮台、広島鎮台と続く。兵士の出身地では北は山形から南は熊本まで広範にわたっている。戦死した日でいうと、明治十年(1877)三月二十日が最多の九十二名となっている。この日は、田原坂が陥落した日であり、勢いに乗った政府軍は一気に熊本城まで攻め込もうとし、向坂で薩軍の猛反撃にあって多くの死傷者を出した。それから四月十五日までの間、植木の町を南北に分断して両軍は対峙することになった。
植木の緒戦では、官薩両軍とも大きな損害は出ていない。ほんの数人という戦死者の中に連隊旗手河原林雄太少尉がいた。
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明徳官軍墓地
明徳官軍墓地には、百二十二基の墓石がある。政府軍の陸軍士官・二、下士・十七、兵卒・九十八と軍夫・五という内訳である。所属別では近衛歩兵第二連隊が最も多くて七十一基、次いで東京鎮台、熊本鎮台、大阪鎮台、広島鎮台と続く。兵士の出身地では北は山形から南は熊本まで広範にわたっている。戦死した日でいうと、明治十年(1877)三月二十日が最多の九十二名となっている。この日は、田原坂が陥落した日であり、勢いに乗った政府軍は一気に熊本城まで攻め込もうとし、向坂で薩軍の猛反撃にあって多くの死傷者を出した。それから四月十五日までの間、植木の町を南北に分断して両軍は対峙することになった。
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