(ウィーン世界博物館)
ウィーン世界博物館Weltmuseum Wienにおける日本関係の展示品は、明治六年(1873)のウィーン万博の際、日本が出展した品々である。今回のウィーン訪問では是非見たかったものの一つである。
「墺國維也納府 スタイン殿」という書簡が目を引いた。このスタインとは法学者ローレンツ・シュタインのことだろうか。明治政府幹部とスタインの交流はこの頃から始まっていたのか。興味が尽きない。
ウィーン世界博物館
Weltmuseum Wien
墺國維也納府 スタイン殿
ローレンツ・フォン・シュタイン(1815~1890)はドイツ出身の法学者であり思想家。キールやベルリンで法哲学や歴史法学を学んだ後、パリに留学した。その後はウィーン大学で国法学者・行政学者・財政学者として名声を高めた。明治十五年(1882)、伊藤博文はウィーンのシュタインのもとを訪ね、2か月にわたって講義を受けた。その際、伊藤博文にドイツ式の立憲体制を勧めたことで知られる。シュタインのもとを訪ねたのは、伊藤博文だけでなく、山県有朋、谷干城、黒田清隆、西園寺公望、乃木希典、陸奥宗光ら錚々たる顔ぶれが含まれており、「シュタイン詣で」とまでいわれた。またキールに保管されている「シュタイン関係文書」の中には、日本人から送られてきた多数の書簡が含まれている。差出人の中には伊藤や黒田、陸奥、谷のほかに福沢諭吉、森有礼、松方正義の名がある。シュタイン自身は日本を訪れたことはないが、当時のお雇い外国人並みの信頼を集めていたことが伺われる。瀧井一博氏の研究によれば、「シュタイン関係文書」の中でもっとも古いものが明治十五年(1882)の福沢諭吉からの書簡というが、日本とシュタインとの交流はそれ以前からあったという。
明治六年(1873)、ウィーン万博の際、当時外務省通商政策局長を務めていたガーゲルン男爵(Maz von Gargern)の屋敷で開かれた園遊会に、「日本からの使者」や日本公使館員とともにシュタインも招かれており、そこで接触があったと考えらえる。瀧井先生は「(ウィーン万博で)醸し出されたウィーンの日本熱に、シュタイン自身も巻き込まれていたということが一つ考えられよう。」と述べておられるが、シュタインがこの頃から日本への関心を高めていったことは想像に難くない。
私がウィーン世界博物館で目にしたシュタイン宛の文書(切手が貼られていることから郵便物である可能性が高い)が、何時のものか、何が書かれているのか、残念ながら詳細は分からないが、非常に興味深いものがある。
(ホーフブルク王宮)
ホーフブルク王宮
明治六年(1873)6月8日の午後、岩倉使節団一行はホーフブルク王宮(Hofburg Wien)を訪い、皇帝フランツ・ヨーゼフ一世および皇后エリザーベトに謁見している。ホーフブルク王宮は、「米欧回覧実記」では「ウルテボルク宮」と紹介されている。
――― 一時ニ宮内省ヨリ、御車三輛ヲ粧飾シ、馭者盛粧シ、護衛ノ騎ヲ備ヘ、宮内ノ貴官来リ迎ヘテ、帝宮ニ於テ、「フランシス・ショーセフ」皇帝、及ヒ皇后ニ謁見ス
(国立図書館プルンクザール)
国立図書館ブルンクザール(Prunksaal der Österreichischen Nationalbibliothek)は、18世紀後半に建設されたもの。かつては王宮図書館であった。プルンク(Prunk)とは豪華という意味である。その名に相応しく大理石の柱と優美な天井画に囲まれた空間は紛れもなく豪華である。
国立図書館プルンクザール
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