(孝顕寺)
孝顕寺
家康の次男秀康が、名門結城家の養子となって結城城に入ったのが天正十九年(1591)のことである。関が原の合戦後、結城秀康は越前に転封され、結城城も廃城となった。再び結城に大名が配置されたのは、それから約百年が経った元禄十三年(1700)、能登から水野勝長の移封まで待たなくてはならない。以後、廃藩に至るまで水野家が続いた。幕末の藩主は、水野勝知(かつとも)である。勝知は陸奥二本松藩から水野家に養子に入ったが、過激な佐幕派でもあった。
国許の家老小場兵馬は、前藩主勝進の晩年の子、勝寛を立てて新政府に恭順の姿勢を取った。この動きを察知した、江戸に居た藩主水野勝知は激怒し、彰義隊士ら旧幕兵を率いて直ちに小山に着陣した。小場兵馬は小山の勝知のもとへ赴き陳謝したが聞き入れられず、慶応四年(1868)三月二十五日、藩主自ら結城城を砲撃し、城は灰塵に帰した。
小場兵馬自刃之處
結城城は、同年四月五日、新政府軍により奪回された。勝知は、領内の成東から上野山内へ逃亡した。藩の存続のために結城藩の二家老が自決することになり、小場兵馬が孝顕寺で、水野甚四郎は光福寺でそれぞれ従容と死に就いた。孝顕寺には、小場兵馬自刃之處と刻んだ石碑が建てられている。
その後、水野勝知は、五月十五日の上野戦争前夜、結城藩佐幕派が結成した水心隊を置き捨てて脱走し、生家である二本松城に落ちのびている。二本松藩降伏と同時に官軍に捕えられ、隠居謹慎の処分を受けた。結城藩は嗣子勝寛へ相続が許され、勝知自身も大正八年(1919)まで生き、八十二歳の天寿を全うした。ひと言でいえば、我がままな殿様に藩士たちが振り回されたということかもしれないが、後味の悪さは否定できない。孝顕寺には水野勝知の墓も建てられているが、よりによってかつて家老が切腹した同じ寺に収まるという無神経さにも呆れるばかりである。
従三位水野勝知之墓
(光福寺)
光福寺
光福寺には、同じく自刃した家老水野甚四郎の墓がある。
水埜甚四郎勝徴墓
官軍内参謀祖式信頼(左)
土州上田楠次墓(右)
左手の祖式信頼の名前が刻まれた石は、墓石ではなさそうである。祖式信頼金八郎は、長州藩士。戊辰戦争では東山道軍の軍監となったが、たびたび戦術を誤り、軍規を犯し、強奪を繰り返したため、位階剥奪の上、国許に追放された。その後の消息も不明である。
祖式金八郎は、結城近郊の武井、小山の戦闘にも従軍しており、旧幕軍に蹴散らされ、命からがら古河藩に収容されている。
右の背の低い墓が土佐藩士上田楠次のものである。上田楠次は、間崎哲馬の私塾に学び、文久元年(1861)、武市半平太が土佐勤王党を結成すると真っ先に加盟した。文久年間、京都、江戸に出て諸藩の士と交わり国事を論じた。帰国して武市半平太の赦免を藩庁に訴え一時幽閉された。戊辰戦争では、東山道鎮撫総督岩倉具定の直参として、甲府、江戸、結城、小山と転戦したが、四月十七日の小山の戦闘で流れ弾に当たって翌日死亡した。年三十二であった。
(武井公民館)
官軍 石川喜四郎墓(右)
官軍 山本富八藤原通春(左)
慶応四年(1868)四月十六日、結城城を脱回した祖式金八郎を指揮官とする新政府軍と、大鳥圭介の率いる伝習隊、および草風隊、貫義隊、凌霜隊の旧幕三隊とが、須坂藩、館林藩、土佐藩、彦根藩、笠間藩等の寄せ集め部隊であった新政府軍は統制がとれておらず、旧幕軍の組織だった攻撃の前に壊滅的敗北となった。
武井公民館の場所には、かつて泰平寺という寺院があったらしいが、今は墓地だけが残されている。武井の戦闘で戦死した館林藩の墓がある。
(水野家の墓)
浜松城主従四位下侍従越前守源朝臣墓
(水野越前守忠邦の墓)
結城市郊外の山川新宿に、水野家の墓がある。中でも十一代水野忠邦は天保の改革を行ったことで有名である。
山川水野氏は、大阪夏の陣の功で結城山川三万石を与えられた。その後、駿河田中、三河吉田、岡崎、唐津、浜松と要地を転々としたが、常に幕府の要職にあった。父祖の地である山川に万松寺を建立し菩提寺とした。ここには初代忠元から十一代忠邦までの墓がある。万松寺は、(1855)に火災に遭い廃寺となった。
なお、山川水野家は天保の改革の失敗の責任を問われて、二万石を減封の上、山形に転封となったが、十二代忠精は若年寄、老中を歴任している。

孝顕寺
家康の次男秀康が、名門結城家の養子となって結城城に入ったのが天正十九年(1591)のことである。関が原の合戦後、結城秀康は越前に転封され、結城城も廃城となった。再び結城に大名が配置されたのは、それから約百年が経った元禄十三年(1700)、能登から水野勝長の移封まで待たなくてはならない。以後、廃藩に至るまで水野家が続いた。幕末の藩主は、水野勝知(かつとも)である。勝知は陸奥二本松藩から水野家に養子に入ったが、過激な佐幕派でもあった。
国許の家老小場兵馬は、前藩主勝進の晩年の子、勝寛を立てて新政府に恭順の姿勢を取った。この動きを察知した、江戸に居た藩主水野勝知は激怒し、彰義隊士ら旧幕兵を率いて直ちに小山に着陣した。小場兵馬は小山の勝知のもとへ赴き陳謝したが聞き入れられず、慶応四年(1868)三月二十五日、藩主自ら結城城を砲撃し、城は灰塵に帰した。

小場兵馬自刃之處
結城城は、同年四月五日、新政府軍により奪回された。勝知は、領内の成東から上野山内へ逃亡した。藩の存続のために結城藩の二家老が自決することになり、小場兵馬が孝顕寺で、水野甚四郎は光福寺でそれぞれ従容と死に就いた。孝顕寺には、小場兵馬自刃之處と刻んだ石碑が建てられている。
その後、水野勝知は、五月十五日の上野戦争前夜、結城藩佐幕派が結成した水心隊を置き捨てて脱走し、生家である二本松城に落ちのびている。二本松藩降伏と同時に官軍に捕えられ、隠居謹慎の処分を受けた。結城藩は嗣子勝寛へ相続が許され、勝知自身も大正八年(1919)まで生き、八十二歳の天寿を全うした。ひと言でいえば、我がままな殿様に藩士たちが振り回されたということかもしれないが、後味の悪さは否定できない。孝顕寺には水野勝知の墓も建てられているが、よりによってかつて家老が切腹した同じ寺に収まるという無神経さにも呆れるばかりである。

従三位水野勝知之墓
(光福寺)

光福寺
光福寺には、同じく自刃した家老水野甚四郎の墓がある。

水埜甚四郎勝徴墓

官軍内参謀祖式信頼(左)
土州上田楠次墓(右)
左手の祖式信頼の名前が刻まれた石は、墓石ではなさそうである。祖式信頼金八郎は、長州藩士。戊辰戦争では東山道軍の軍監となったが、たびたび戦術を誤り、軍規を犯し、強奪を繰り返したため、位階剥奪の上、国許に追放された。その後の消息も不明である。
祖式金八郎は、結城近郊の武井、小山の戦闘にも従軍しており、旧幕軍に蹴散らされ、命からがら古河藩に収容されている。
右の背の低い墓が土佐藩士上田楠次のものである。上田楠次は、間崎哲馬の私塾に学び、文久元年(1861)、武市半平太が土佐勤王党を結成すると真っ先に加盟した。文久年間、京都、江戸に出て諸藩の士と交わり国事を論じた。帰国して武市半平太の赦免を藩庁に訴え一時幽閉された。戊辰戦争では、東山道鎮撫総督岩倉具定の直参として、甲府、江戸、結城、小山と転戦したが、四月十七日の小山の戦闘で流れ弾に当たって翌日死亡した。年三十二であった。
(武井公民館)

官軍 石川喜四郎墓(右)
官軍 山本富八藤原通春(左)
慶応四年(1868)四月十六日、結城城を脱回した祖式金八郎を指揮官とする新政府軍と、大鳥圭介の率いる伝習隊、および草風隊、貫義隊、凌霜隊の旧幕三隊とが、須坂藩、館林藩、土佐藩、彦根藩、笠間藩等の寄せ集め部隊であった新政府軍は統制がとれておらず、旧幕軍の組織だった攻撃の前に壊滅的敗北となった。
武井公民館の場所には、かつて泰平寺という寺院があったらしいが、今は墓地だけが残されている。武井の戦闘で戦死した館林藩の墓がある。
(水野家の墓)

浜松城主従四位下侍従越前守源朝臣墓
(水野越前守忠邦の墓)
結城市郊外の山川新宿に、水野家の墓がある。中でも十一代水野忠邦は天保の改革を行ったことで有名である。
山川水野氏は、大阪夏の陣の功で結城山川三万石を与えられた。その後、駿河田中、三河吉田、岡崎、唐津、浜松と要地を転々としたが、常に幕府の要職にあった。父祖の地である山川に万松寺を建立し菩提寺とした。ここには初代忠元から十一代忠邦までの墓がある。万松寺は、(1855)に火災に遭い廃寺となった。
なお、山川水野家は天保の改革の失敗の責任を問われて、二万石を減封の上、山形に転封となったが、十二代忠精は若年寄、老中を歴任している。