史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

結城

2009年06月07日 | 茨城県
(孝顕寺)


孝顕寺

 家康の次男秀康が、名門結城家の養子となって結城城に入ったのが天正十九年(1591)のことである。関が原の合戦後、結城秀康は越前に転封され、結城城も廃城となった。再び結城に大名が配置されたのは、それから約百年が経った元禄十三年(1700)、能登から水野勝長の移封まで待たなくてはならない。以後、廃藩に至るまで水野家が続いた。幕末の藩主は、水野勝知(かつとも)である。勝知は陸奥二本松藩から水野家に養子に入ったが、過激な佐幕派でもあった。
 国許の家老小場兵馬は、前藩主勝進の晩年の子、勝寛を立てて新政府に恭順の姿勢を取った。この動きを察知した、江戸に居た藩主水野勝知は激怒し、彰義隊士ら旧幕兵を率いて直ちに小山に着陣した。小場兵馬は小山の勝知のもとへ赴き陳謝したが聞き入れられず、慶応四年(1868)三月二十五日、藩主自ら結城城を砲撃し、城は灰塵に帰した。


小場兵馬自刃之處

 結城城は、同年四月五日、新政府軍により奪回された。勝知は、領内の成東から上野山内へ逃亡した。藩の存続のために結城藩の二家老が自決することになり、小場兵馬が孝顕寺で、水野甚四郎は光福寺でそれぞれ従容と死に就いた。孝顕寺には、小場兵馬自刃之處と刻んだ石碑が建てられている。
 その後、水野勝知は、五月十五日の上野戦争前夜、結城藩佐幕派が結成した水心隊を置き捨てて脱走し、生家である二本松城に落ちのびている。二本松藩降伏と同時に官軍に捕えられ、隠居謹慎の処分を受けた。結城藩は嗣子勝寛へ相続が許され、勝知自身も大正八年(1919)まで生き、八十二歳の天寿を全うした。ひと言でいえば、我がままな殿様に藩士たちが振り回されたということかもしれないが、後味の悪さは否定できない。孝顕寺には水野勝知の墓も建てられているが、よりによってかつて家老が切腹した同じ寺に収まるという無神経さにも呆れるばかりである。


従三位水野勝知之墓

(光福寺)


光福寺

 光福寺には、同じく自刃した家老水野甚四郎の墓がある。


水埜甚四郎勝徴墓


官軍内参謀祖式信頼(左)
土州上田楠次墓(右)

 左手の祖式信頼の名前が刻まれた石は、墓石ではなさそうである。祖式信頼金八郎は、長州藩士。戊辰戦争では東山道軍の軍監となったが、たびたび戦術を誤り、軍規を犯し、強奪を繰り返したため、位階剥奪の上、国許に追放された。その後の消息も不明である。
 祖式金八郎は、結城近郊の武井、小山の戦闘にも従軍しており、旧幕軍に蹴散らされ、命からがら古河藩に収容されている。

 右の背の低い墓が土佐藩士上田楠次のものである。上田楠次は、間崎哲馬の私塾に学び、文久元年(1861)、武市半平太が土佐勤王党を結成すると真っ先に加盟した。文久年間、京都、江戸に出て諸藩の士と交わり国事を論じた。帰国して武市半平太の赦免を藩庁に訴え一時幽閉された。戊辰戦争では、東山道鎮撫総督岩倉具定の直参として、甲府、江戸、結城、小山と転戦したが、四月十七日の小山の戦闘で流れ弾に当たって翌日死亡した。年三十二であった。

(武井公民館)


官軍 石川喜四郎墓(右)
官軍 山本富八藤原通春(左)

 慶応四年(1868)四月十六日、結城城を脱回した祖式金八郎を指揮官とする新政府軍と、大鳥圭介の率いる伝習隊、および草風隊、貫義隊、凌霜隊の旧幕三隊とが、須坂藩、館林藩、土佐藩、彦根藩、笠間藩等の寄せ集め部隊であった新政府軍は統制がとれておらず、旧幕軍の組織だった攻撃の前に壊滅的敗北となった。
 武井公民館の場所には、かつて泰平寺という寺院があったらしいが、今は墓地だけが残されている。武井の戦闘で戦死した館林藩の墓がある。

(水野家の墓)


浜松城主従四位下侍従越前守源朝臣墓
(水野越前守忠邦の墓)

 結城市郊外の山川新宿に、水野家の墓がある。中でも十一代水野忠邦は天保の改革を行ったことで有名である。
 山川水野氏は、大阪夏の陣の功で結城山川三万石を与えられた。その後、駿河田中、三河吉田、岡崎、唐津、浜松と要地を転々としたが、常に幕府の要職にあった。父祖の地である山川に万松寺を建立し菩提寺とした。ここには初代忠元から十一代忠邦までの墓がある。万松寺は、(1855)に火災に遭い廃寺となった。
 なお、山川水野家は天保の改革の失敗の責任を問われて、二万石を減封の上、山形に転封となったが、十二代忠精は若年寄、老中を歴任している。

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真岡

2009年06月07日 | 栃木県
(真岡城山公園)
 真岡は、江戸初期には浅野氏、堀氏、稲葉氏の陣屋が置かれていたが、のちに幕府領となって代官所が置かれていた。天保四年(1843)に二宮尊徳がこの地に赴任し、農村の復興に取り組んだ。今、代官所のあった場所は、真岡小学校と城山公園になっている。城山公園内には「二宮先生遺蹟 真岡陣屋趾」と記された石碑が建てられている。


二宮先生遺蹟 真岡陣屋趾

 市川から二手に分かれて北進を続けた旧幕府軍のうち、土方歳三の部隊は、慶応四年(1868)四月十八日の昼間、真岡代官所を通過し、いよいよ宇都宮城を巡る大決戦に向かう。

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上三川

2009年06月07日 | 栃木県
(満福寺)


満福寺


上総堂 黒羽藩士の墓

 市川大林寺(= 廃寺。現在のJR市川駅北)に集結した旧幕府軍は、総帥に大鳥圭介を選出し、日光へ向けて行軍を始めた。慶応四年(1868)四月十二日のことである。
 小金から北上を続ける本隊とは別に、土方歳三の率いる支隊は水街道から下妻、下館をたどる経路をとった。武井(現・茨城県結城市南郊)での遭遇戦で快勝を得た大鳥隊は、栃木に入った。その頃、土方支隊は蓼沼(現・栃木県上三川)に進軍していた。
 土方歳三は、蓼沼の満福寺に陣を置き、ここで四人の黒羽藩士を捕え斬首している。黒羽藩は前藩主大関増裕が幕府で海軍総裁兼若年寄を務めた佐幕派の家柄である。しかし、大関増裕が前年に亡くなったあと、藩論は一変して勤王に転じていたのである。
 斬首された四人の黒羽藩士の墓が、満福寺から百メートルほど離れた満福寺上総堂に残されている。

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壬生

2009年06月07日 | 栃木県
(壬生城)
 壬生藩は、遠祖に鳥居元忠を持つ鳥居家が、正徳二年(1712)に移封されて以降、幕末に至るまで鳥居家三万石の領地であった。幕末には常に佐幕と勤王の間で揺れ、両派で激しい争いが絶えなかった。戊辰戦争以降も藩論が定まらず、最終的には宇都宮藩等の近隣諸藩と足並みをそろえて官軍に属することになった。


壬生城跡

 陣屋の置かれた壬生城は、明治四年(1871)の廃藩置県の直後、廃城となり、現在は壬生城址公園として整備されている。土塁と水堀が残されているが、ほとんど往時の遺構は残っていない。


壬生城址公園

 慶応四年(1868)四月十九日、大鳥圭介の率いる旧幕軍の猛攻に耐え切れず、新政府軍は宇都宮城を明け渡した。これに対し、板橋にあった東山道総督府は、すぐさま精鋭を送った。河田左久馬(鳥取藩)が隊長に任命され、土佐藩、鳥取藩を主力とする兵約五百である。この部隊は三月に甲州勝沼で近藤勇の甲陽鎮撫隊を破った戦歴を持っている。河田左久馬指揮下の混成大隊は、同月二十日壬生城に入って宇都宮城に対峙した。
 その翌日、旧幕軍と新政府軍は、壬生城と宇都宮の中間に位置する安塚で激突することになる。

(常楽寺)


常楽寺

 常楽寺は、寛正三年(1462)、当時の壬生城主壬生胤業が創建した寺院で、江戸時代には鳥居家の菩提寺となった。


官修墓地 忍藩 佐藤市郎春儀之墓

 墓地には、安塚の戦闘で唯一の忍藩の戦死者である佐藤市郎の墓がある。


鳥居家累代の墓


斎藤一族の墓
手前は斎藤元昌墓

 斎藤元昌は、壬生藩の蘭方医である。天保十一年(1840)に壬生領内では初めての人体解剖を行い、嘉永三年(1850)には種痘を開始したことでも知られる。また、下野国に招かれた二宮尊徳の主治医も務めた。戊辰戦争では野戦病院で負傷者の治療に当たった。壬生藩は、六代藩主鳥居忠挙が蘭学を好んだため、蘭学が盛んとなった。現在、斎藤元昌らが住んでいた旧街道は、蘭学通りと呼ばれている。

(興光寺)


興光寺

 蘭学通りを西へ少し入ったところに興光寺がある。三代将軍家光の遺骸を日光に葬送する際に、幕命により福和田村から現在地に移転させられたという歴史を持つ寺である。


官修墓地
土佐 国吉榮之進親敬墓(左)
半田擢吉墓など

 興光寺官修墓地には、安塚の戦争で犠牲となった新政府軍兵士の墓がある。墓碑を確認すると、土佐藩士、因州鳥取藩士のものらしい。安塚の払暁での戦闘での戦死者は、主力となった土佐藩がもっとも多く六名、続いて鳥取藩四名、松本藩二名、吹上藩、壬生藩、忍藩、不明各一名、計十七名となっている。


官修墓地
因藩官軍附属山国隊 新井兼吉道成之墓(右)
高室次兵衛宗昌 田中淺太郎利政之墓(左)


官修墓地
因藩 石脇鼎元繁墓

(雄琴神社)
 雄琴神社は、当初藤森神社と称していたが、壬生城を本拠とした壬生氏が、遠祖を祀る雄琴神社(現・滋賀県大津市)から分祀して改称したものである。
 幕末、戊辰戦争の宮司黒川豊麿は、周辺の神主五十六名から成る利鎌隊を組織して新政府軍の先導隊として活躍した。安塚での戦闘にも参加している。


雄琴神社


黒川家遠祖之碑

(安塚)


安昌寺

 安塚の安昌寺にも官軍兵士土佐藩士山村鉄太郎の官修墓地がある。墓石は新しく建て替えられたらしいが、その傍らに同じく山村鉄太郎の名を刻んだ朽ちかけた墓碑も置かれている。


土佐 森山鉄太郎之墓


島田家

 安塚交差点のすぐ北側、道路左側に長屋門が見える。安塚の戦争の際、新政府軍が本陣を置いた島田家である。

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