昭和五十九年(1984)に上梓された古典的名著である。本著は、小栗忠順から坂本龍馬、岩崎弥太郎、三野村利左衛門、渋沢栄一に至る五人の人物を取り上げている。
特に幕臣小栗上野介忠順を、経済人の一人として取り上げている点に著者の独創的着眼点がある。小栗は兵庫商社なる組織を慶応三年(1867)六月に立ち上げた。今でいう貿易商社である。兵庫商社は、戊辰戦争の勃発とその後の混乱により、半年余りで事業の中断を余儀なくされたが、これが我が国における株式会社の原型だと位置づけられている。
さらに本著では、坂本龍馬の錬金術について解説を加えている。龍馬は
――― 土佐藩の保証で薩摩藩から五千両借り、うち四千両をハットマン商会に(ライフル銃代金として)支払い、二百両を海援隊経費とし、百五十両を長崎商人に口入料、百五十両を海援隊士の交通費、滞在費、運搬船賃とした。これで五百両残る勘定である。これを田辺藩に貸し付けた。
要するに「他人のフンドシで相撲を取る」に等しいカラクリである。龍馬自身に資力がない限り、これは止むを得ないことであるが、まず普通の武士では思いつかない才覚である。龍馬の出自が商家だったということを思い起こす必要があるだろう。
海援隊は、その目的の一つに「射利」を明確に謳っていた。射利とは「手段をえらばず利益を得ようと狙うこと」である。龍馬の海援隊は、維新後、九十九商会、そして三菱へと引き継がれた。岩崎弥太郎が率いる三菱に、国益意識、組織的団結力とともに、この体質は着実に遺伝したと考えるべきであろう。
本著では、三菱と三井(即ち岩崎と渋沢栄一)の熾烈な闘いを描いている。両者とも政治家と癒着し、戦争に乗じて成り上がった政商というべき存在であった。本来、新興国日本の海運会社が欧米列強の会社に勝てるはずがなかったが、強烈な明治新政府からの支援を得て、三菱は上海航路で勝利を得、確固たる地位を築いた。三菱、三井とも大隈重信や井上馨ら、政府の有力者と結びついて巨大化した。
その後も三井は、中上川彦次郎、益田孝といったカリスマ性を持った経営者に引き継がれ、岩崎家を中心に固い結束を誇る三菱と死闘を繰り広げた。やがて“組織の三菱”と“個人の三井”と称されるように、それぞれ独自の強みを身につけ、財閥を構築したのである。
財閥というと三菱と三井と並ぶもう一つの雄である住友は、両者の激闘に顔を出さない。住友は両者とは対照的に政治とは一線を画していた。「石橋を叩いても渡らない」といわれる堅実で慎重な姿勢は今も変わらない。三者の生い立ちの違いが、現代まで脈々と受け継がれているようで、誠に興味が尽きない。
特に幕臣小栗上野介忠順を、経済人の一人として取り上げている点に著者の独創的着眼点がある。小栗は兵庫商社なる組織を慶応三年(1867)六月に立ち上げた。今でいう貿易商社である。兵庫商社は、戊辰戦争の勃発とその後の混乱により、半年余りで事業の中断を余儀なくされたが、これが我が国における株式会社の原型だと位置づけられている。
さらに本著では、坂本龍馬の錬金術について解説を加えている。龍馬は
――― 土佐藩の保証で薩摩藩から五千両借り、うち四千両をハットマン商会に(ライフル銃代金として)支払い、二百両を海援隊経費とし、百五十両を長崎商人に口入料、百五十両を海援隊士の交通費、滞在費、運搬船賃とした。これで五百両残る勘定である。これを田辺藩に貸し付けた。
要するに「他人のフンドシで相撲を取る」に等しいカラクリである。龍馬自身に資力がない限り、これは止むを得ないことであるが、まず普通の武士では思いつかない才覚である。龍馬の出自が商家だったということを思い起こす必要があるだろう。
海援隊は、その目的の一つに「射利」を明確に謳っていた。射利とは「手段をえらばず利益を得ようと狙うこと」である。龍馬の海援隊は、維新後、九十九商会、そして三菱へと引き継がれた。岩崎弥太郎が率いる三菱に、国益意識、組織的団結力とともに、この体質は着実に遺伝したと考えるべきであろう。
本著では、三菱と三井(即ち岩崎と渋沢栄一)の熾烈な闘いを描いている。両者とも政治家と癒着し、戦争に乗じて成り上がった政商というべき存在であった。本来、新興国日本の海運会社が欧米列強の会社に勝てるはずがなかったが、強烈な明治新政府からの支援を得て、三菱は上海航路で勝利を得、確固たる地位を築いた。三菱、三井とも大隈重信や井上馨ら、政府の有力者と結びついて巨大化した。
その後も三井は、中上川彦次郎、益田孝といったカリスマ性を持った経営者に引き継がれ、岩崎家を中心に固い結束を誇る三菱と死闘を繰り広げた。やがて“組織の三菱”と“個人の三井”と称されるように、それぞれ独自の強みを身につけ、財閥を構築したのである。
財閥というと三菱と三井と並ぶもう一つの雄である住友は、両者の激闘に顔を出さない。住友は両者とは対照的に政治とは一線を画していた。「石橋を叩いても渡らない」といわれる堅実で慎重な姿勢は今も変わらない。三者の生い立ちの違いが、現代まで脈々と受け継がれているようで、誠に興味が尽きない。