史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

梅屋敷

2010年12月12日 | 東京都
(梅屋敷)
 梅屋敷は、文政年間(1818~29)に売薬所の敷地に山本久三郎が梅の木百本をはじめ、かきつばたなどを植え、東海道の休み茶屋を開いたのがその始まりという。時の将軍徳川家慶が鷹狩りの時に休憩所としたほど広壮な屋敷であった。街道上にあって、文人、行楽客、旅人を集め、特に梅の季節は大変な賑わいであった。
文久元年(1861)十一月、高杉晋作ら長州藩の攘夷派が横浜の外国人を襲撃する計画を立てていた。この密計が土佐藩の同志から漏れ、藩主山内容堂から長州藩主毛利定広(元徳)に伝えられた。驚いた定広は使者を送って高杉らを呼び戻し、梅屋敷に集めて説諭した。計画は頓挫したが、そこへ長州藩の重臣周布政之助が泥酔して現れ、「容堂公は攘夷をちゃらかしなさる」と放言した。その場にいた土佐藩士らは憤激して周布に斬りつけようとしたが、高杉が咄嗟の機転で馬を斬りつけ、驚いた馬は周布を乗せたまま走り去ったという。


明治天皇行幸所蒲田梅屋敷

 明治天皇は梅屋敷の風情をことのほか気に入り、明治元年(1868)から明治三十年(1897)の間に九度の行幸があった。これを記念して公園の前に石碑が建てられている。


梅屋敷

 私が梅屋敷を訪問したのは晩秋のことである。往時からすれば規模が小さくなった敷地は公園として整備されている。もちろん、梅の花は咲いていなかったが、その代わりに一本の紅葉が真っ赤に色付いていた。


距日本橋三里十八丁

 公園内に建てられている里程標は往時の復元したものであるが、梅屋敷門前に建てられていたもので、木戸孝允、伊藤博文らがここで新年宴会を開いたとき二人が合作した一幅の絵にも、この里程標が描かれているという。

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大森

2010年12月12日 | 東京都
(大森駅)


日本考古学発祥の地

 JR大森駅のホームに日本考古学発祥の地なる石碑がある。明治十年(1877)、アメリカのモース博士が、横浜から新橋に向かう汽車の窓から大森貝塚を発見した逸話はあまりにも有名である。このことから百年を経て、この地に考古学発祥の地の碑が建立された。なお大森貝塚は、大森駅から徒歩数分の場所にある。

(大森寺)


大森寺


魄光大尊霊

 大森南の大森寺には、この近くに流れ着いた彰義隊士の遺体を供養した墓が建てられている。

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新宿 Ⅱ

2010年12月12日 | 東京都
(成覚寺)

(成覚寺)
成覚寺

 新宿の猥雑な街の中に成覚寺が在る。成覚寺の墓地に幕臣塚本明毅の墓碑が建つ。隣に塚本家の墓があるが、明毅の墓は昭和三十年代の境内地整理のときに整理されており、現在は墓碑のみが残っている、この墓碑は明治二十八年(1895)建立、篆額は榎本武揚、撰文は川田剛、書は田辺太一。


塚本明毅墓碑(右)

 塚本明毅は天保四年(1833)江戸下谷に生まれた。昌平黌に学んだ後、安政二年(1855)、長崎海軍伝習所一期生に選ばれた。その後も幕府海軍で重きを成した。維新後、徳川家に従って静岡に移住。沼津兵学校で一等教授を務めた。明治四年(1871)新政府に出仕して、兵学教授等を務めた。その後は、内務省地理局で地誌の編纂にあたった。明治五年(1872)には太陽暦への改暦を建言し、その遂行に尽力した。権大内史兼法制課長、一等編修館、内務省御用掛、内務省書記官を歴任。明治十八年(1885)、五十三歳で死去。

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