(梅屋敷)
梅屋敷は、文政年間(1818~29)に売薬所の敷地に山本久三郎が梅の木百本をはじめ、かきつばたなどを植え、東海道の休み茶屋を開いたのがその始まりという。時の将軍徳川家慶が鷹狩りの時に休憩所としたほど広壮な屋敷であった。街道上にあって、文人、行楽客、旅人を集め、特に梅の季節は大変な賑わいであった。
文久元年(1861)十一月、高杉晋作ら長州藩の攘夷派が横浜の外国人を襲撃する計画を立てていた。この密計が土佐藩の同志から漏れ、藩主山内容堂から長州藩主毛利定広(元徳)に伝えられた。驚いた定広は使者を送って高杉らを呼び戻し、梅屋敷に集めて説諭した。計画は頓挫したが、そこへ長州藩の重臣周布政之助が泥酔して現れ、「容堂公は攘夷をちゃらかしなさる」と放言した。その場にいた土佐藩士らは憤激して周布に斬りつけようとしたが、高杉が咄嗟の機転で馬を斬りつけ、驚いた馬は周布を乗せたまま走り去ったという。
明治天皇行幸所蒲田梅屋敷
明治天皇は梅屋敷の風情をことのほか気に入り、明治元年(1868)から明治三十年(1897)の間に九度の行幸があった。これを記念して公園の前に石碑が建てられている。
梅屋敷
私が梅屋敷を訪問したのは晩秋のことである。往時からすれば規模が小さくなった敷地は公園として整備されている。もちろん、梅の花は咲いていなかったが、その代わりに一本の紅葉が真っ赤に色付いていた。
距日本橋三里十八丁
公園内に建てられている里程標は往時の復元したものであるが、梅屋敷門前に建てられていたもので、木戸孝允、伊藤博文らがここで新年宴会を開いたとき二人が合作した一幅の絵にも、この里程標が描かれているという。
梅屋敷は、文政年間(1818~29)に売薬所の敷地に山本久三郎が梅の木百本をはじめ、かきつばたなどを植え、東海道の休み茶屋を開いたのがその始まりという。時の将軍徳川家慶が鷹狩りの時に休憩所としたほど広壮な屋敷であった。街道上にあって、文人、行楽客、旅人を集め、特に梅の季節は大変な賑わいであった。
文久元年(1861)十一月、高杉晋作ら長州藩の攘夷派が横浜の外国人を襲撃する計画を立てていた。この密計が土佐藩の同志から漏れ、藩主山内容堂から長州藩主毛利定広(元徳)に伝えられた。驚いた定広は使者を送って高杉らを呼び戻し、梅屋敷に集めて説諭した。計画は頓挫したが、そこへ長州藩の重臣周布政之助が泥酔して現れ、「容堂公は攘夷をちゃらかしなさる」と放言した。その場にいた土佐藩士らは憤激して周布に斬りつけようとしたが、高杉が咄嗟の機転で馬を斬りつけ、驚いた馬は周布を乗せたまま走り去ったという。
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明治天皇行幸所蒲田梅屋敷
明治天皇は梅屋敷の風情をことのほか気に入り、明治元年(1868)から明治三十年(1897)の間に九度の行幸があった。これを記念して公園の前に石碑が建てられている。
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梅屋敷
私が梅屋敷を訪問したのは晩秋のことである。往時からすれば規模が小さくなった敷地は公園として整備されている。もちろん、梅の花は咲いていなかったが、その代わりに一本の紅葉が真っ赤に色付いていた。
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距日本橋三里十八丁
公園内に建てられている里程標は往時の復元したものであるが、梅屋敷門前に建てられていたもので、木戸孝允、伊藤博文らがここで新年宴会を開いたとき二人が合作した一幅の絵にも、この里程標が描かれているという。