史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「日本の貴人151家の運命」 中山良昭著 朝日新書

2010年12月18日 | 書評
本書は序章と第一~三章、そして付編として堂上家百三十七家の出自や家格を紹介した一編から構成されている。コンパクトな本であるが、公家という日本特有の一団の持つ不思議さを余すことなく解説している。
第一章と第二章では、「その後の貴人たち」「旧宮家の光と影」と題して、近現代を生きた公家の生き様を紹介している。彼らは武士に政権を奪われて以来、五百年余りを「天皇の藩塀」という曖昧な存在でありながら、しぶとく生き抜いた。明治維新で再び脚光を浴びるが、政治家として活躍した例はほんのわずかである。学者として名を成したものもいれば、軍人や女優、スポーツ選手として活躍したものもいる。貴種故の世間知らずが招いたというべきか、中には世間を賑わす醜聞を起こした例もある。
公家の大事な役割の一つが貴族の文化や有職故実を脈々と伝えることである。雅楽や蹴鞠を伝える人たちがいることは、時々マスコミにも取り上げられるのでよく知られている。七卿落ちの一人、四条隆謌の家は、包丁道と呼ばれる日本料理に関する作法、故実、調理法を伝える家だという。この包丁道は、四条隆謌の子、四条隆平の家系に今も引き継がれている。このことは本書で初めて知った次第である。
七卿落ちといえば、本書111Pで「明治天皇の叔父にあたる(中山)忠光は七卿落ちで長州にいたところを、長州内の親幕派の刺客に襲われて死んだ」と記述されているが、忠光は所謂七卿落ちのメンバーではない。八一八の政変が起きた時、忠光は天誅組に担がれて大和にいたのである。その後、天誅組が破陣して長州に逃れたのであって、本書のこの部分の記述はちょっと正確ではないように感じた。どうでも良いことですけど。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

城里

2010年12月18日 | 茨城県
(鹿島神社)
 今年平成二十二年(2010)は桜田門外の変から百五十年というメモリアル・イヤーである。この記念の年に桜田烈士といわれる二十人の墓を訪ねることが今年の“目標”であった。これまで常磐共有墓地などに在る彼らの墓を訪ね歩き、残るは城里町の鯉淵要人と増子金八の二人となった。
 本年も残すところ一か月を切った。年内に二人の墓を訪ねるとすれば、この日がラストチャンスであった。墓の場所は事前に十分調べきれず、阿波山の町立図書館に寄ってそこで調べることにした。城里町は、平成十七年(2005)に常北町、桂町、七会村が合併してできた町である。未だに昔の町村の壁が存在しているようで、この図書館では旧桂町のことは分かっても、それ以外の史跡は分からなかった。
 仕方なく増子金八の墓があるという石塚地区へ向かう。交番で宗清山墓地の在り処を尋ねてみたが、若いお巡りさんは聞いたことがないという。当てもなく石塚地区を歩いてみたが、そんなことで見つかるものではなかった。残念ながら、この日はこれで撤収することにして、次の目的地である鯉淵要人の墓を目指すことにした。増子金八の墓は来年以降の課題である。


鹿島神社

鯉淵要人の墓は、上古内の鹿島神社に隣り合う鯉淵家の敷地内の墓地にある。鹿島神社は建て替えられて間もないらしい。


贈正五位鯉淵要人墓

 鯉淵要人は、上古内(現城里町上古内)の諏訪神社祀官の家に生まれた。尊王攘夷の信念が強く、また剣は無念流を学んで抜群といわれた。桜田門外の大老襲撃に参加し、彦根藩の護衛何名かを斬り倒したが、自身も重傷を負った。引き上げる途中で力尽き八重洲河岸で自刃して果てた。五十一歳であった。

 辞世

 君が為 思いを張りし 梓弓
 ひきてゆるまし やまと魂

(伊藤益荒・斉宮自刃の地)
 増子金八の墓に続き、「伊藤益荒、伊藤斎宮自刃の地」が分からない。このまま帰ろうかと半ば諦め気分であったが、ダメモトで商店のおじいさんに聞いてみた。おじいさんは、メモ用紙に地図を書きながら「この前の道を真っ直ぐいくと、右手に物産センターがあるから、その前の道を百メートルくらい行けば、登り口がある…」と、そこまで説明してくれたとき、「近くにデリバリーがあるから、これから車で行くよ。付いてきなさい」ということになり、ご親切にも登り口まで案内して下さった。登り口から落ち葉の絨毯が敷き詰められた坂道を進むと、左手に鳥居が見える。その奥に高さ一メートルくらいの石碑が建っている。


伊藤両氏(天狗党)自刃の碑

 伊藤益荒は島原脱藩浪士。伊藤斎宮は高崎脱藩浪士。ともに天狗党挙兵に参加した。横浜の異人を襲撃する計画を立て、鹿島に及んだところで幕府軍および佐倉藩、麻生藩兵に要撃され、鉾田、岩間、杉崎と敗走を続けた。このとき既に残兵は十数名となっていた。二人は小勝(おがち)に落ち延び、ここで一夜を過ごしたが、翌朝、笠間藩兵に発見されてこの地で自刃した。元治元年(1864)九月九日のことであった。

(黒沢止幾生家)


黒沢止幾生家

 黒沢止幾は文化三年(1806)に当地(現城里町錫高野(すずごや))に生まれた。父は修験者黒沢将吉といい、寺子屋を営んでいたという。安政六年(1859)、安政の大獄で藩主斉昭が処分を受けると、止幾は単身、京都に出て、斉昭の雪冤を訴えようと決意した。一か月の旅の末、京都に着いた止幾は、孝明天皇に自作の長歌を献上したが、ほどなく同心に捕えられる。厳しい尋問を受け、中追放処分を受けた。維新後、止幾はひそかに錫高野に帰り住んで、明治五年(1872)、六十七歳のとき、小学校教師となった。日本初の女性教師と言われる。教師と退職したあとも私塾を開き、生涯を教育に捧げた。明治二十三年(1890)八十五歳で死去。


黒沢止幾手植えの松

 明治八年(1875)、止幾七十歳のとき、大洗の徳川斉昭公の記念碑を訪ねた折、その記念に小松を持ち帰り植えたものである。


黒沢止幾生家の内部

 黒沢止幾の生家は、今は無人である。鍵はかかっておらず、内部を自由に見学することができる。ほとんど維持保存の手が加えられておらず、家屋は荒れ放題となっている。室内も長らく清掃された気配もなく、このままでは取り壊されるのは時間の問題であろう。貴重な史跡を大事にしてもらいたいと切に望む。


贈位三十年記念碑

 昭和十一年(1936)、贈位三十年を記念して建立された記念碑である。この近くに墓もあるらしいが、とても独力で探せる様子ではなかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水戸 六反田

2010年12月18日 | 茨城県
(六地蔵寺)


六地蔵寺

 六地蔵寺の地蔵堂の背後に栗田家墓地がある。一群の墓石の中央で一際目を引く石碑が、栗田寛の墓碑である。内藤耻叟の撰文、徳川慶喜の題字を刻む。


継往開来
(栗田寛墓碑)

 栗田寛は天保六年(1835)に水戸に生まれた。藤田東湖や会沢正志斎といった天下に名の知れた学者から薫陶を受けたが、とりわけ彰考館総裁豊田天功から受けた影響が大きかった。安政四年(1857)、二十四歳のとき、豊田総裁の推薦によって史館に出仕することになり、大日本史編纂事業のうち最も困難な志類表編纂の事業を委嘱された。折しも藩内は門閥派と改革派が激しく対立し、藩情は激動の時代を迎えたが、栗田は館務と著述に専念して、兵火から史料を守った。維新を迎え大日本史編纂事業も中止の風説も流れたが、事業継続を主張し、その結果、史館は偕楽園の一角に移されることになった。光圀、斉昭を祀る常磐神社の創建に奔走する一方、家塾を開いて後進の指導にも力を尽くした。明治二十五年(1892)には文科大学に招聘され、文部大臣官房図書館兼務とともに国史学科の教授に就任。修史館再興にも参画した。明治三十二年(1899)六十五歳で世を去った。


立原翠軒墓碑

 六地蔵寺の墓地には、立原家の墓所がある。立原翠軒のほか、父蘭渓、子の春沙の墓も並んでいる。


蘭渓立原先生墓

 立原翠軒は、彰考館文庫役立原蘭渓の長子として延享七年(1744)に生まれた。天明六年(1786)に彰考館総裁に就いた。その頃停滞気味であった修史編纂事業を復興し、館員に藤田幽谷、高橋広備といった藩内の秀才を抜擢して「大日本史」の編修促進に尽くした。文政六年(1823)、八十歳で逝去した。絵画、篆刻にも長じ、この才能はその子杏所、孫春沙に引き継がれた。


春沙女史立原氏墓

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水戸 元吉田

2010年12月18日 | 茨城県
(清巌寺)
 この日は、水戸の史跡を訪ねるために朝七時前に八王子を出たが、調布辺りで渋滞に遭い、水戸市内まで三時間近くかかってしまった。帰りは夕食に間に合うように史跡巡りを早めに切り上げたが、常磐自動車道で自動車四台による事故が発生し通行止めになってしまった。一旦、高速道路を下りて国道六号線を走ったが、これまた大渋滞であった。柏で再び高速道路に乗ったがそこでも渋滞。更に中央高速でも事故渋滞があって、結局帰路は六時間もかかった。事故に遭った人も災難だったとは思うが、その影響は甚大である。くれぐれも安全運転で願いたいものである。


清巌寺


結城朝道
結城一万丸 墓
結城七之助

 清巌寺の墓地には結城家の墓域があり、その一角に結城寅寿(朝道)、その子の一万丸(種徳)の合葬墓がある。「水戸の先人たち」(水戸市教育委員会)によれば、結城寅寿の墓は常陸大宮の蒼泉寺にもあるらしい。

 結城寅寿は、水戸藩門閥派の中心人物である。結城氏は南朝に仕えた結城宗廣以来という名族の出である。寅寿は、六歳で家督を継ぎ、天保十一年(1840)、二十三歳で小姓頭、翌年には参政に昇進し、更に藤田東湖とともに勝手改正掛に任じられた。この頃から門閥派の首領として改革派と対立が顕在化し始めた。弘化元年(1844)、斉昭が幕府から譴責を受け、致仕、謹慎を命じられると、門閥派が藩政の要職を門閥派が占めるようになり、寅寿も江戸詰めの表勤となって活動することになった。改革派の巻き返しにより表勤を罷免され水戸に返され、弘化四年(1847)には隠居・謹慎を命じられる。嘉永二年(1849)、斉昭が藩政に復帰。嘉永六年(1853)ペリーが来航すると政権は改革派が掌握することになったが、門閥派との対立は深刻の度合いを強め、その中心人物と目される寅寿は長倉陣屋(常陸大宮)に拘禁された。安政の大地震で藤田東湖、戸田蓬軒を失った改革派が巻き返しを図り、門閥派を次々と処刑した。結城寅寿も安政四年(1857)、斬罪に処された。四十歳。
 その子、結城種徳(一万丸)も家禄と屋敷を没収され蟄居処分を受け、寅寿と同じく拘禁された。絶食して牢死したとされる。

(蓮乗寺)


蓮乗寺

 蓮乗寺本堂裏には、天狗党の戦死者を弔う弔魂之碑が建てられている。


弔魂之碑

(常照寺)
 常照寺はかつて馬場氏の居城吉田城の跡という。


常照寺

 蓮乗寺門前の小径を五分ほど歩いて登ると、常照寺の境内に行き当たる。広い墓地の奥の方に水戸藩士にして画家、萩谷せん(“せん”は「僊」の旁)喬の小さな墓がある。せん喬は、立原杏所、林十江と並んで水戸の三画人と称される、江戸後期の水戸を代表する画家である。藩主斉昭にも愛され、しばしば公命を受けて作品を制作した。安政四年(1857)七十九歳にて死去。


せん喬萩谷君墓
(“せん”は「僊」の旁)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする