(徳川綱吉霊廟勅額門)
徳川綱吉霊廟勅額門
この霊廟勅額門の奥には、家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定の六人の将軍が眠る。この一角に家定夫人天璋院篤姫の墓もあるはずであるが、残念ながら非公開である。篤姫の宝塔のそばには、好物だったという枇杷の木が植えられているそうである。
(寛永寺霊園)
沼間家之墓
(沼間守一の墓)
幕臣出身、明治のジャーナリスト沼間守一の墓である。以前、谷中霊園の沼間蓮翠(幕臣、守一の養父)を守一の墓と紹介したところ、誤りを指摘された。そのとき以来気になっていたが、やっと沼間守一の墓を訪ね当てることができた。墓の正面には、沼間家之墓とのみ刻まれているが、傍らの墓誌に英光院操守一貫大居士という戒名とともに「明治二十三年五月十七日卒 俗名 沼間守一 享年四十八歳」とある。
(東京国立博物館)
東京国立博物館が庭園を公開していると聞いた。この機会を逃すわけにいかない。土曜日の朝、上野へと急いだ。目当ては、普段見ることができない町田久成の顕彰碑である。
東京国立博物館本館
コンクリート建築に赤茶色の瓦屋根を乗せた本館は、昭和十三年(1938)昭和天皇の即位を記念して開館したものである。初代の本館は、有名なジョサイア・コンドルの設計で明治十五年(1882)に竣工したが、大正十二年の関東大震災で大きな被害を受けた。
表慶館
表慶館は、明治三十三年(1900)の大正天皇の成婚を記念して計画され、明治四十二年(1909)に開館した。設計はJ.コンドルの弟子、片山東熊である。中央と左右の美しい緑色のドームが印象的で、天気の良いこの日は、多くの人が写生を楽しんでいた。内部はアジアギャラリーとして、中国、韓国、インドなどの彫刻、工芸、考古遺物などが展示されている。
国立博物館庭園と転合庵
本館の北側は広い庭園となっている。毎年、春と秋に公開される。
町田石谷(久成)君碑
町田久成の顕彰碑は春草蘆という茶室に近接して建てられている。何とこの日は春草蘆で茶会が開かれており、立ち入り禁止という。わざわざこの石碑を撮影するために八王子からここまで出てきて、ここですごすごと引き返すわけにいかない。春草蘆の前で落ち葉を掃いている方に頼み込んで、写真を撮らせていただいた。
町田久成は、天保九年(1838)鹿児島城下に生まれ、十九歳のとき江戸に出て昌平黌に学んだ。帰藩後は小姓組番頭、大目付となった。慶応元年(1865)藩命によりイギリスに留学した。この時大英博物館などを訪れ、日本での博物館開設を志しようになったという。帰国後、明治新政府の参与職外国事務局判事、長崎裁判所判事、外務大丞などを歴任した後、明治四年(1871)文部大丞に転じ、米国内国博覧会事務局長などに任じられた。初代博物局長として我が国の博物館の基礎を築くとともに、私財を擲って書や古美術を買い求め、文化財の散逸を防ぐことに努めた。明治十五年(1882)に退職すると、仏門に入り圓城寺光浄院住持となった。明治三十年(1897)六十歳で死去。
久成とともに英国留学した町田申四郎、清次郎兄弟は帰国後の消息不明である。兄が栄達した背後で何があったのだろうか。
第二回内国勧業博覧会の碑
明治新政府は、勧業政策の一環として博覧会を開催したが、その第一回から第三回までの会場が上野公園であった。第一回は明治十年(1877)。ちょうど明治政府は西南戦争を戦う一方で、上野で勧業博覧会を開いていた。会期百二日、入場者数は四十五万人を超えたという。第二回は明治十四年(1881)新築間もない国立博物館旧本館が使用された。会期百二十二日、入場者数は八十二万人に上った。
九条館
もともと京都御所内九条邸内にあった建物である。東京赤坂の九条家に移された後、昭和九年(1934)博物館に寄贈され移築された。
有馬家の墓
博物館の敷地は、かつて寛永寺の境内であった。庭園に残る越前丸岡藩主有馬家の墓が、わずかな名残である。ただし、何故有馬家の墓だけがここに残されたのかは不明。