(島田宿本陣跡)
JR島田駅を降りて、北口には観光案内所があり、隣接している駐輪所で自転車を借りることもできる。観光案内所で初倉種月院の場所を聞いてみたが、観光案内所の方もよくご存知ではなかった。取り敢えず行ってみるしかない。
島田宿本陣跡
島田宿は、東海道五十三次の二十三番目の宿場町である。東海道の難所の一つ大井川を控え、たびたび川止があったため、大変繁盛した。本陣跡には立派なモニュメントが建てられ、中本陣、下本陣跡も場所が特定されていて、それぞれ小さな石碑が建てられている。
(蓬莱橋)
蓬莱橋
大井川には江戸防備という幕府の軍事政策上の要請から橋が掛けられなかった。当時は大井川を渡るには川越人足に頼るしかなかった。
明治に入って徳川家に従って多くの幕臣が駿府に移住した。彼らは牧之原を開拓してお茶を作り始めた。当初は筆舌に尽くしがたい苦難の連続であったが、やがて茶栽培が軌道に乗り始めると、初倉に住む人たちが島田まで生活用品や食糧品を買いに出かけることになった。島田宿の住人も初倉に山林、原野の開墾に出かけるようになったが、その都度、大井川を小舟で渡るのは大変危険であった。そこで島田宿の総代たちが静岡県令に架橋の願いを出し、これを受けて明治十二年(1879)になって蓬莱橋が完成した。
木造の橋は大井川の増水のたびに被害を受けたが、昭和四十年(1965)にコンクリート橋脚に変えられ、今日の姿になった。「世界一長い木造歩道橋」として英国ギネス社から認定を受けたそうである。渡橋には歩行者、自転車とも百円を払わなくてはならない。
大井川
向う側には島田大橋が見える
(中條金之助景昭像)
中條金之助は石高三百石の旗本の家に生まれ、剣道、柔道に長じた。嘉永七年(1854)御書院番、安政三年(1856)講武所剣術世話心得、文久二年(1862)には同所剣術教授方、御小納戸役、翌年には浪士取扱、新徴組支配、御徒頭を拝命した。大政奉還の後、慶喜の護衛のために精鋭隊を組織してその隊長となった。慶喜が静岡に移ると、それに随行して移住。精鋭隊を新番組と改称した。やがて世の中が治まると、中條金之助は新番組二百数十名を率いて牧之原台地の開墾に従事することになった。明治四年(1871)、廃藩置県と同時に神奈川県令を命じられたが固辞して牧之原にとどまった。以後、官途に就くことなく、牧之原の開拓と士族の殖産に身を捧げた。明治二十九年(1896)七十歳で当地に没した。
牧之原台地
中條金之助像の立つ高台から見下ろすと、一面茶畑が広がる。士族による開拓には想像を絶する苦労があったと想像される。今日の静岡県における製茶の隆盛を眺めて、きっと満足しているに違いない。
中條金之助景昭像
伊佐新次郎書碑
伊佐新次郎は、文化六年(1809)に生まれ、下田奉行支配組頭、具足奉行、講武所奉行支配組頭、海軍奉行並組頭等を歴任した。維新後は牧之原に移住して中條金之助の屋敷に起居した。仏典、漢籍に通じ、短歌にも長じ、蘭学も修めた。特に書の名声は高く、高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟らに書を教授したことでも知られる。牧之原に移住した新次郎は既に高齢に達していたため開墾には従事せず、私塾を開いて士族の子弟や近隣の人々に漢籍や書を教えた。明治二十四年(1891)八十二歳で死去した。
中條金之助像の傍らにある伊佐新次郎の書碑には、「龍」という一文字が刻まれている。
(法林寺)
法林寺
法林寺には伊佐新次郎の墓がある。
法林寺の本堂前には、唐人お吉の石像がある。伊佐新次郎は、下田奉行支配組頭時代に米国総領事ハリスにお吉を引き合わせたと言われる。
伊佐新次郎峯満之墓
(種月院)
種月院へは、島田大橋を渡って、ひらすらその道を直進する。新幹線を渡る高架橋の手前の十字路を左に折れて、しばらく走ると行き当たる。種月院には、中條金之助の墓がある。明治二十九年(1897)当地で没した。葬儀委員長は勝海舟であった。同じ墓域の成瀬家、遠山家はいずれも旧幕臣の家であろう。
種月院
牧ノ原開墾先駆者の記念碑
牧ノ原開墾先駆者の記念碑には、中條金之助と今井信郎の事績が刻まれている。中條金之助没後百年を記念して、平成八年(1996)に建立されたものである。
志岳中條先生墓
今井信郎之碑
中條金之助の墓の背後に、坂本龍馬暗殺の実行犯として知られる今井信郎の碑が建てられている。今井信郎は、戊辰戦争が終わると投獄され、明治五年(1872)に至ってようやく赦され出所した。多くの幕臣と同じように、今井も静岡に移住して学校を設立した。一時新政府に仕えて八丈島に赴いたが、明治十一年(1878)、中條金之助らの勧めもあって、初倉に入植し、自由民権運動や教育、殖産などに尽力した。明治三十九年(1906)には初代初倉村長にもなっている。大正七年(1918)に七十八歳で没したが、今井信郎を慕う地元の人たちの手により、当時に碑が建立された。
JR島田駅を降りて、北口には観光案内所があり、隣接している駐輪所で自転車を借りることもできる。観光案内所で初倉種月院の場所を聞いてみたが、観光案内所の方もよくご存知ではなかった。取り敢えず行ってみるしかない。
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島田宿本陣跡
島田宿は、東海道五十三次の二十三番目の宿場町である。東海道の難所の一つ大井川を控え、たびたび川止があったため、大変繁盛した。本陣跡には立派なモニュメントが建てられ、中本陣、下本陣跡も場所が特定されていて、それぞれ小さな石碑が建てられている。
(蓬莱橋)
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蓬莱橋
大井川には江戸防備という幕府の軍事政策上の要請から橋が掛けられなかった。当時は大井川を渡るには川越人足に頼るしかなかった。
明治に入って徳川家に従って多くの幕臣が駿府に移住した。彼らは牧之原を開拓してお茶を作り始めた。当初は筆舌に尽くしがたい苦難の連続であったが、やがて茶栽培が軌道に乗り始めると、初倉に住む人たちが島田まで生活用品や食糧品を買いに出かけることになった。島田宿の住人も初倉に山林、原野の開墾に出かけるようになったが、その都度、大井川を小舟で渡るのは大変危険であった。そこで島田宿の総代たちが静岡県令に架橋の願いを出し、これを受けて明治十二年(1879)になって蓬莱橋が完成した。
木造の橋は大井川の増水のたびに被害を受けたが、昭和四十年(1965)にコンクリート橋脚に変えられ、今日の姿になった。「世界一長い木造歩道橋」として英国ギネス社から認定を受けたそうである。渡橋には歩行者、自転車とも百円を払わなくてはならない。
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大井川
向う側には島田大橋が見える
(中條金之助景昭像)
中條金之助は石高三百石の旗本の家に生まれ、剣道、柔道に長じた。嘉永七年(1854)御書院番、安政三年(1856)講武所剣術世話心得、文久二年(1862)には同所剣術教授方、御小納戸役、翌年には浪士取扱、新徴組支配、御徒頭を拝命した。大政奉還の後、慶喜の護衛のために精鋭隊を組織してその隊長となった。慶喜が静岡に移ると、それに随行して移住。精鋭隊を新番組と改称した。やがて世の中が治まると、中條金之助は新番組二百数十名を率いて牧之原台地の開墾に従事することになった。明治四年(1871)、廃藩置県と同時に神奈川県令を命じられたが固辞して牧之原にとどまった。以後、官途に就くことなく、牧之原の開拓と士族の殖産に身を捧げた。明治二十九年(1896)七十歳で当地に没した。
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牧之原台地
中條金之助像の立つ高台から見下ろすと、一面茶畑が広がる。士族による開拓には想像を絶する苦労があったと想像される。今日の静岡県における製茶の隆盛を眺めて、きっと満足しているに違いない。
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中條金之助景昭像
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伊佐新次郎書碑
伊佐新次郎は、文化六年(1809)に生まれ、下田奉行支配組頭、具足奉行、講武所奉行支配組頭、海軍奉行並組頭等を歴任した。維新後は牧之原に移住して中條金之助の屋敷に起居した。仏典、漢籍に通じ、短歌にも長じ、蘭学も修めた。特に書の名声は高く、高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟らに書を教授したことでも知られる。牧之原に移住した新次郎は既に高齢に達していたため開墾には従事せず、私塾を開いて士族の子弟や近隣の人々に漢籍や書を教えた。明治二十四年(1891)八十二歳で死去した。
中條金之助像の傍らにある伊佐新次郎の書碑には、「龍」という一文字が刻まれている。
(法林寺)
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法林寺
法林寺には伊佐新次郎の墓がある。
法林寺の本堂前には、唐人お吉の石像がある。伊佐新次郎は、下田奉行支配組頭時代に米国総領事ハリスにお吉を引き合わせたと言われる。
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伊佐新次郎峯満之墓
(種月院)
種月院へは、島田大橋を渡って、ひらすらその道を直進する。新幹線を渡る高架橋の手前の十字路を左に折れて、しばらく走ると行き当たる。種月院には、中條金之助の墓がある。明治二十九年(1897)当地で没した。葬儀委員長は勝海舟であった。同じ墓域の成瀬家、遠山家はいずれも旧幕臣の家であろう。
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種月院
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牧ノ原開墾先駆者の記念碑
牧ノ原開墾先駆者の記念碑には、中條金之助と今井信郎の事績が刻まれている。中條金之助没後百年を記念して、平成八年(1996)に建立されたものである。
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志岳中條先生墓
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今井信郎之碑
中條金之助の墓の背後に、坂本龍馬暗殺の実行犯として知られる今井信郎の碑が建てられている。今井信郎は、戊辰戦争が終わると投獄され、明治五年(1872)に至ってようやく赦され出所した。多くの幕臣と同じように、今井も静岡に移住して学校を設立した。一時新政府に仕えて八丈島に赴いたが、明治十一年(1878)、中條金之助らの勧めもあって、初倉に入植し、自由民権運動や教育、殖産などに尽力した。明治三十九年(1906)には初代初倉村長にもなっている。大正七年(1918)に七十八歳で没したが、今井信郎を慕う地元の人たちの手により、当時に碑が建立された。