(五稜郭)
五稜郭跡
今回の道南旅行も五日目となった。満を持して五稜郭を訪ねる。五稜郭は箱館戦争の主戦場となった。今は観光都市函館を象徴する史跡となっている。
五稜郭
高さ百メートル余りの五稜郭タワーから五稜郭の綺麗な星型を目にすると、誰もが感嘆の声を上げるだろう。
明治新政府が派遣した箱館府(清水谷公考知事)は早々に退去したため、既に箱館は無主となっていた。松前藩を蹴散らした榎本軍は、明治元年(1868)十二月には道南を鎮圧して、五稜郭に入城した。このとき彼らが選挙(当時の用語でいうと「入札」)によって幹部を選出したことから、榎本政権のことを「蝦夷共和国」と呼ぶ向きもあるが、果たして正確であろうか。少なくとも榎本自身あるいは旧幕軍の幹部自らこの政権を「蝦夷共和国」と呼んだことはない。選挙権のあったのは中級将校以上に限られるし、榎本武揚自身はいずれ徳川家の当主を箱館に迎えたいという意向を持っていたようである。榎本らがこの時点でどのような思想や理想を持っていたか判然としないが、我々がイメージするような共和国的な構想を持っていたとは考えにくい。
入れ札の結果、選出されたのは以下の顔ぶれである。
総裁 榎本武揚
副総裁 松平太郎
海軍奉行 荒井郁之助
陸軍奉行 大鳥圭介
陸軍奉行並 土方歳三
箱館奉行 永井尚志
箱館奉行並 中島三郎助
江差奉行 松岡四郎次郎
江差奉行並 小杉雅之進
松前奉行 人見勝太郎
開拓奉行 沢太郎左衛門
会計奉行 榎本対馬、川村録四郎
津軽陣屋総督 中島三郎助
裁判局頭取 竹中重固
歩兵頭並 伊庭八郎、星恂太郎
決して今日的な意味でいう民主的選挙ではないものの、一方で箱館政権に加わっていた松平定敬(桑名藩主)や板倉勝静(備中松山藩主)、小笠原長行(唐津藩主)といった殿様は一人も選ばれなかったことを見れば、実力主義が徹底されていたということかもしれない。
箱館政権に元京都所司代松平定敬や老中経験者である板倉勝静らが参加していたことは、あまり知られていない事実ながら注目して良い。彼らの存在は、箱館政権にとって軍事的にも政治的にもほとんど意味がなかったが、それぞれの旧領地には深刻な影響が及んでいた。桑名藩、備中松山藩とも国元では新しい藩主を立てて新政府に宥免を願い出たが、旧藩主が抵抗を続けていることを理由に認められなかったのである。
半月堡
半月堡は、郭内への出入口を防御するために設置されたもので、当初の設計では各稜堡間に五カ所配置する予定であったが、予算の関係で一カ所のみに縮小されたという。
武田斐三郎先生顕彰碑
武田斐三郎は、大洲藩の出身。秀才の誉れ高く、昔からこのレリーフをなでると頭が良くなるという伝説があり、そのため顔の部分は妙にピカピカである。
安政四年(1857)、幕府から築城を命じられた蘭学者武田斐三郎がこの地を選んだのは、艦砲の届かない場所というのが最大の理由であった。しかし、築城から十年余りが経過した明治二年(1868)の戦争では、新政府軍の艦砲射撃の砲火に曝された。さすがの俊才武田斐三郎をもってしても、十年の技術の進歩まで予見できなかったのである。
築城に費やした資金は十万両。七年の歳月を要した。それまで箱館奉行所は、現在の元町公園にあったが、海から近かったため、移転が急がれた。
西洋流の築城術を学んだ武田斐三郎が設計したのは、鉄砲を主体とした戦闘を想定した星形の城郭であった。五稜郭には奉行庁舎など二十二の建物が建築された。
箱館奉行所
現存する資料や文献をもとに、できるだけ当時の工法や材料を採用して、平成二十二年(2010)復元されたものである。一部二階建ての構造であるが、中央の望楼は、恰好の標的となったため、箱館戦争終盤には撤去されたという。
入室但清風
再現新築された箱館奉行所を入ると、いきなり榎本武揚の書「入室但清風」が出迎えてくれる。榎本武揚が土方歳三のことを偲んで書いたもので、「部屋に入ってくると清らかな風が流れる」という意味である。京都時代には「鬼の副長」として冷徹なイメージが強かったが、北へ転戦を重ねるにつれて温和になったと言われる。終始、土方の側に従った中島登によれば「厳しかった性格が温和になり、まるで赤ん坊が母親を慕うように慕われた」という。
堀利熙の書
箱館奉行所内には、榎本武揚のほか、堀利熙や杉浦梅潭(誠)らの書が展示されている。堀利熙は二代目の箱館奉行。のちには外国奉行として条約締結に活躍した。プロシアとの交渉でも全権に任じられたが、条約草案がプロシア単独ではなく関税同盟諸国を相手としたものだったため時の老中安藤信正に難詰され、その夜自刃した。享年四十三。
杉浦梅潭の書
こうしてみると歴代の箱館奉行には、小出秀実、水野忠徳、栗本鋤雲ら幕末を代表する能吏が名を連ねている。幕府が蝦夷地の開拓と警備をいかに重視していたかの証左であろう。
兵糧庫
兵糧庫は、五稜郭築造当時の建物で、唯一現存しているものである。昭和四十八年~四十九年(1973~74)の修復工事により土蔵造りに復元され、平成十三年~十四年(2001~02)には庇屋を再現復元した。
なお旧幕軍が降伏したとき、榎本から黒田了介(清隆)に渡された目録には、米五百俵とあった。つまり、兵糧が尽きて降伏したのではないということを意味している。
ブラッケリー砲
クルップ砲
箱館戦争で使われた二門の大砲が展示されている。クルップ砲は口径十四センチのドイツ製で、箱館沖で撃沈された朝陽に搭載されたいたものである。昭和七年(1932)、七飯浜の埋め立て工事中に発掘された。もう一つのブラッケリー砲は口径十四センチのイギリス製。旧幕軍により築島台場に設置されていたものという。
土饅頭
ここに旧幕軍の戦死者の遺体が埋葬されたとされる。伊庭八郎や土方歳三もここに埋葬されたと推定されている。
大砲を引き上げるための坂
土塁の上に大砲を引き上げるための坂で、箱館戦争当時に造られたと見られる。大砲を運んだ際についた轍の跡がかすかに残る。
弾薬庫も箱館戦争時代に造られたもので、記録に拠れば城内に六ヶ所あったようである。
弾薬庫跡
五稜郭裏門
明治元年(1868)十月二十六日、箱館府都の戦闘に勝利した旧幕軍は続々と五稜郭に入城した。まず大鳥圭介の率いる部隊が裏門より入った。湯の川で一夜を明かした土方隊も夕方以降、やはり裏門から五稜郭に入った。