(青山霊園)
1種イ1号13側

富小路家之墓
富小路敬直(とみのこうじ ひろなお)は、堂上公家の出。文久元年(1861)、和宮降嫁問題が起きると、岩倉具視、久我建通、千種有文らと降嫁を推進したため、その後尊攘派から「四奸二嬪」の一人として執拗な排斥と威嚇を受けた。このため、文久二年(1862)、蟄居を命じられ、辞官・落飾。さらに洛中居住を禁じられたため、洛北一乗寺村に幽居した。慶応三年(1867)、孝明天皇の大喪により洛中居住を許された。維新後は右京太夫、侍従に任じられ、権大宣教使を兼任した。明治二十五年(1892)、五十一歳で没。
1種ロ8号1~14側

頭山満
頭山満は、明治から昭和初期にかけて活躍した右翼の巨頭。玄洋社を首催。大隈重信を爆殺しようとした来島恒喜は、玄洋社の元社員であった。
1種ロ8号1~14側

安楽家之墓

安楽君碑銘
安楽兼道は、川路利良の命を受けて西南戦争前夜、私学校生徒の離間を狙って、鹿児島に潜入した「東京獅子」の一人。戦後、山口県知事、福島県知事、岐阜県知事を歴任したほか、警視総監を三度務めた。昭和七年(1932)没。
墓の横には、牧野伸顕の篆額になる墓碑銘が建立されている。
1種ロ8号36側

八田知紀之墓
寛政十一年(1799)、薩摩西田村に生まれた。文政八年、京都薩摩藩邸の留守居下役。香川景樹に歌道を学び、熊谷直好とともに同門の逸材と称された。近衛家に仕え、御広敷番頭、ついで御用人、明治元年(1868)には京都の皇学所御用掛となった。東京に移って、明治五年(1872)宮内省八等出仕歌道御用掛となった。門弟の育成に努め、高崎正風、黒田清綱を育てた。明治六年(1873)、七十五歳にて病没。
「幕末歴史散歩」(一坂太郎 中公新書)、「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)、いずれも八田知紀の墓は、杉並区和泉の大円寺にあると記載されていたので、大円寺の墓地を隈なく歩き回った(それも二回も)が、発見できなかった。いつの間にか青山霊園に移葬されたようである。
1種ロ12号6側

肥後藩士の墓

巡査亀鑑

安舘精一之墓
肥後藩士の墓は、左から倉田萬助、村上藤四郎、安藤七十郎(中央は村上と安藤の合葬墓)、高田平蔵。彼らは明治二年(1869)、一月四日、箱館に赴く途中、上総鬼ヶ浦(勝浦沖)にて遭難溺死。
1種イ1号13側

富小路家之墓
富小路敬直(とみのこうじ ひろなお)は、堂上公家の出。文久元年(1861)、和宮降嫁問題が起きると、岩倉具視、久我建通、千種有文らと降嫁を推進したため、その後尊攘派から「四奸二嬪」の一人として執拗な排斥と威嚇を受けた。このため、文久二年(1862)、蟄居を命じられ、辞官・落飾。さらに洛中居住を禁じられたため、洛北一乗寺村に幽居した。慶応三年(1867)、孝明天皇の大喪により洛中居住を許された。維新後は右京太夫、侍従に任じられ、権大宣教使を兼任した。明治二十五年(1892)、五十一歳で没。
1種ロ8号1~14側

頭山満
頭山満は、明治から昭和初期にかけて活躍した右翼の巨頭。玄洋社を首催。大隈重信を爆殺しようとした来島恒喜は、玄洋社の元社員であった。
1種ロ8号1~14側

安楽家之墓

安楽君碑銘
安楽兼道は、川路利良の命を受けて西南戦争前夜、私学校生徒の離間を狙って、鹿児島に潜入した「東京獅子」の一人。戦後、山口県知事、福島県知事、岐阜県知事を歴任したほか、警視総監を三度務めた。昭和七年(1932)没。
墓の横には、牧野伸顕の篆額になる墓碑銘が建立されている。
1種ロ8号36側

八田知紀之墓
寛政十一年(1799)、薩摩西田村に生まれた。文政八年、京都薩摩藩邸の留守居下役。香川景樹に歌道を学び、熊谷直好とともに同門の逸材と称された。近衛家に仕え、御広敷番頭、ついで御用人、明治元年(1868)には京都の皇学所御用掛となった。東京に移って、明治五年(1872)宮内省八等出仕歌道御用掛となった。門弟の育成に努め、高崎正風、黒田清綱を育てた。明治六年(1873)、七十五歳にて病没。
「幕末歴史散歩」(一坂太郎 中公新書)、「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)、いずれも八田知紀の墓は、杉並区和泉の大円寺にあると記載されていたので、大円寺の墓地を隈なく歩き回った(それも二回も)が、発見できなかった。いつの間にか青山霊園に移葬されたようである。
1種ロ12号6側

肥後藩士の墓

巡査亀鑑

安舘精一之墓
肥後藩士の墓は、左から倉田萬助、村上藤四郎、安藤七十郎(中央は村上と安藤の合葬墓)、高田平蔵。彼らは明治二年(1869)、一月四日、箱館に赴く途中、上総鬼ヶ浦(勝浦沖)にて遭難溺死。