goo blog サービス終了のお知らせ 

史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

青山霊園 補遺Ⅳ

2014年03月09日 | 東京都
(青山霊園)
1種イ1号13側


富小路家之墓

富小路敬直(とみのこうじ ひろなお)は、堂上公家の出。文久元年(1861)、和宮降嫁問題が起きると、岩倉具視、久我建通、千種有文らと降嫁を推進したため、その後尊攘派から「四奸二嬪」の一人として執拗な排斥と威嚇を受けた。このため、文久二年(1862)、蟄居を命じられ、辞官・落飾。さらに洛中居住を禁じられたため、洛北一乗寺村に幽居した。慶応三年(1867)、孝明天皇の大喪により洛中居住を許された。維新後は右京太夫、侍従に任じられ、権大宣教使を兼任した。明治二十五年(1892)、五十一歳で没。

1種ロ8号1~14側


頭山満

頭山満は、明治から昭和初期にかけて活躍した右翼の巨頭。玄洋社を首催。大隈重信を爆殺しようとした来島恒喜は、玄洋社の元社員であった。

1種ロ8号1~14側


安楽家之墓


安楽君碑銘

安楽兼道は、川路利良の命を受けて西南戦争前夜、私学校生徒の離間を狙って、鹿児島に潜入した「東京獅子」の一人。戦後、山口県知事、福島県知事、岐阜県知事を歴任したほか、警視総監を三度務めた。昭和七年(1932)没。
墓の横には、牧野伸顕の篆額になる墓碑銘が建立されている。

1種ロ8号36側


八田知紀之墓

寛政十一年(1799)、薩摩西田村に生まれた。文政八年、京都薩摩藩邸の留守居下役。香川景樹に歌道を学び、熊谷直好とともに同門の逸材と称された。近衛家に仕え、御広敷番頭、ついで御用人、明治元年(1868)には京都の皇学所御用掛となった。東京に移って、明治五年(1872)宮内省八等出仕歌道御用掛となった。門弟の育成に努め、高崎正風、黒田清綱を育てた。明治六年(1873)、七十五歳にて病没。
「幕末歴史散歩」(一坂太郎 中公新書)、「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)、いずれも八田知紀の墓は、杉並区和泉の大円寺にあると記載されていたので、大円寺の墓地を隈なく歩き回った(それも二回も)が、発見できなかった。いつの間にか青山霊園に移葬されたようである。

1種ロ12号6側


肥後藩士の墓


巡査亀鑑


安舘精一之墓

肥後藩士の墓は、左から倉田萬助、村上藤四郎、安藤七十郎(中央は村上と安藤の合葬墓)、高田平蔵。彼らは明治二年(1869)、一月四日、箱館に赴く途中、上総鬼ヶ浦(勝浦沖)にて遭難溺死。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四ツ谷 Ⅳ

2014年03月09日 | 東京都
(迎賓館)


迎賓館

 四ツ谷駅から歩いて数分。迎賓館の広大な敷地はかつて紀州藩の上屋敷の敷地であった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛西

2014年03月03日 | 愛知県
(西音寺)


名鉄丸渕駅

 この日の最後の訪問地は、愛西(あいさい)市の西音寺である。ここに青松葉事件で斬首された横井時足の墓がある。
 西音寺の最寄駅は、名鉄尾西線丸渕駅である。休日であっても一時間に四本ほど走っているので、丸渕駅までは比較的簡単に到達できる。問題は、丸渕駅から西音寺へのアクセスである。直線距離で約三㎞。路線バスか、せめて貸自転車でもあれば…と微かな期待を抱いて駅を降り立ったものの、そのような気の利いたものは全くない。目的地までひたすら歩いて往復することになった。


西音寺

 西音寺まで来ると、木曽川は近い。東海大橋を越えれば岐阜県海津市である。
 西音寺は藤ケ瀬横井家の菩提寺であり、歴代の墓が並べられている。その中に、青松葉事件で斬首された横井時足の墓がある。この数カ月、青松葉事件で処刑された尾張藩士十四名の墓を追ってきたが、結論としては現存しているのは八名のみである。残念ながら残る六名の墓は、行方が知れない。


春月院殿即入大覚大禅定門(横井時足墓)

 丸渕駅から西音寺に向かう途中、リュックサックが開き、中に入れていたカメラやら地図やらが、全部飛び出てしまった。その衝撃でズーム・レンズが真っ二つに折れてしまった。買い換えたばかりのカメラ本体には影響はなかったものの、レンズを一本台無しにしてしまい、半泣き状態であった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蟹江

2014年03月03日 | 愛知県
(寺西家墓所)


佐野七五三之助源重之神霊

 新選組の佐野七五三之助の墓が発見されたという。新選組隊士の墓など調べつくされているものと思っていたが、まだ「新発見」があったとは驚きである。
 佐野七五三之助は、本姓寺西蔵之丞といい、実家は須成天王社の神職を務める家である。のちに母方の姓である佐野を名乗った。
 十八歳から二十歳頃に故郷を出て、江戸に上り、北辰一刀流の剣術を学んだ。攘夷を志して、開港地横浜に潜居し、神奈川奉行や運上所の警備などをしていた。結局、攘夷実行の機会を得られないまま、元治元年(1864)、三十一歳のとき、伊東甲子太郎らとともに新選組に加入し、京都に赴いた。慶応三年(1867)六月、新選組が幕臣に取り立てられたことに反発して離脱を企てたが、仲間三人とともに会津藩京都守護職邸で斬殺された。三十四歳であった。当初、光縁寺に葬られたが、慶応四年(1868)二月、伊東甲子太郎らとともに戒光寺に改葬された。故郷須成村に佐野七五三之助の死が伝えられたのは、明治二年(1869)のことであった。一報を受けて関係者の手により、寺西家墓所に墓碑が建立された。当地には、佐野七五三之助の両親、祖父、弟とその妻の墓が集められている。


寺西家墓所

(佐野七五三之助生家付近)
 付近には「寺西」という表札を掲げた家が妙に多い。龍照院の裏手辺りが佐野七五三之助の生家跡と推定されている。何も残っていないが、一応写真を撮っておいた。


佐野七五三之助生家付近

(八釼神社)


八釼神社

 佐野七五三之助の実家が神職を務めたという神社がどれなのか不明であるが(須成地区には少なくとも四つから五つの神社が確認できる)、墓所から一番近い八釼神社を紹介しておく。八釼神社とその隣に位置している冨吉建速神社は、ともに室町時代後期に建築されたという古い社殿を有している。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿倍野 Ⅱ

2014年03月01日 | 大阪府
(阿倍野墓地)
 久しぶりに阿倍野墓地を歩いた。広い墓地なので、当てもなく歩いたのでは非効率である。阿倍野図書館で下調べをしてから…ともくろんでいたが、年末は休館であった。仕方なく「当てもなく」歩き回ることになった。


正七位粟谷品三良定墓

 粟谷品三は、文政十二年(1829)阿波の生まれ。文久二年(1862)大阪に出て勤王派と交わり、銃火薬を扱う商いを始めた。西南戦争でも小銃を献納し、表彰を受けた。明治二十八年(1895)六十五歳で亡くなった。


従五位山邉丈夫之墓

 山邊丈夫は、嘉永四年(1851)津和野の生まれ。明治三年(1870)上京して、いずれも同郷の先学、福羽美静の国文学塾と西周の育英舎に学んだ。さらに横浜に移って英語を学び、明治十年(1877)には渡英して、経済学、機械工学を修め、特に紡績業を研究した。明治十五年(1882)、渋沢栄一らと大阪紡績会社を創立、のちに三重紡績会社を合併して東洋紡績会社を創った。紡績業のほか、大阪病傷保険、豊田機械、大連土地家屋などの会社にも関係した。大正十年(1921)、七十一歳で死去。


従二位勲一等高崎親章之墓

 六区の警察墓地の前に高崎親章の巨大な墓がある。
 高崎親章は、薩摩藩士高崎親広の子。西南戦争では、警視庁権少警部として中原尚雄らとともに帰県し、私学校生らに捕えられた。父親広は、親章に私学校の状況を告げ、鎮撫に尽くしたので私学校生徒の恨みを買い斬殺されている。西南戦争後、救出され、茨城県、長野県、岡山県、宮城県、京都府、大阪府の知事を歴任した。いわゆる西郷暗殺団「東京獅子」の中では出世頭であろう。
 司馬遼太郎先生は、『翔ぶが如く』の中で
――― 遊説と離間が私学校生徒を挑発し、それが西南戦争の近因となったことはたしかであり、政府がそういうかれらをのちに重く任用したことはかれらの挑発の功をみとめたとみてよい(後略)
 と、解説している。


正五位勲三等土居通夫墓

 同じく六区にある土居通夫の墓である。土居通夫は天保八年(1837)、宇和島に生まれたが、慶応元年(1865)、脱藩して大阪に出た。維新後は官界に入り、大阪鎮台、外国事務局などに務めたのち、司法省に移り、兵庫、大阪裁判所の裁判長などを歴任した。明治十七年(1884)、鴻池家の招請に応じて官を去り、以後実業界で活躍した。大阪電燈会社の社長、日本生命保険会社取締役、京阪電気鉄道社長などを務め、大阪商業会議所の会頭にもなった。大正六年(1917)、八十一歳で死去。


臼田馬造之墓

 臼田馬造は、歯ブラシや靴墨を発明し、海外へも輸出したことで知られる。


日柳三舟君碑

 日柳三舟は、日柳燕石の長男。天保十年(1839)生まれ。大阪の学務課長を務め、浪華文会をつくって教科書を出版した。今日の教科書の原型は三舟に始まるといわれる。明治三十六年(1903)六十五歳にて死去。


外山脩造墓


従六位勲四等外山脩造君碑

 外山脩造は、天保十三年(1842)、長岡藩生まれ。戊辰戦争では河井継之助のそばにあって行動をともにした。このとき継之助から「戦争が終わったら商人になれ」と諭されたという。初代日本銀行大阪支店長や横浜正金銀行取締役のほか、アサヒビールの創立にも関わった。初代阪神電鉄社長に就いたことから「阪神タイガース生みの親」と呼ばれている。タイガース・ファンとしては忘れてはならない人物である。戦前には甲子園球場に外山脩造の銅像があったらしい。


村山龍平墓

 村山龍平は、嘉永三年(1850)紀州藩の支藩伊勢田丸の城下に生まれた。明治十二年(1879)、朝日新聞を創刊。上野理一とともに草創期の朝日新聞の経営に尽くした。今も村山家と上野家は朝日新聞の大株主である。明治二十四年(1891)以後は衆議員議員に当選し、衆議員議員を三期務めたほか、大阪府議会議員、大阪市議会議員、貴族院議員などを歴任した。昭和八年(1933)八十四歳で死去。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷町九丁目 Ⅱ

2014年03月01日 | 大阪府
(齢延寺)


齢延寺

 生玉魂神社の南に隣接する齢延寺には、藤沢東畡、南岳父子や土佐の刀工左秀行の墓がある。ついでにいうと、南岳の孫で小説家の藤沢桓夫の墓も同寺にある。


東畡藤澤先生墓

 藤沢東畡は、寛政六年(1794)讃岐国安原村の生まれ。中山城山に就いて徂徠派の古文辞学を修めた。のち高松に出て塾を開き、文政八年に大阪に移った。従学するものが多く、名声は天下に高かった。高松藩主は抜擢して中士となし、使番に任じた。元治元年(1864)には、二条城において将軍家茂に謁を賜った。同年十二月、七十一歳にて死去。


南岳藤澤先生墓

 藤沢南岳は、天保十三年(1842)、東畡の長男に生まれた。慶応元年(1865)、父の職を継いで高松藩の儒者となった。戊辰戦争では高松藩は幕府側についたが、これに反対して尊王論を説いた。南岳は薩摩の大山綱良に陳情し、藩論を翻して新政府軍に味方させることに成功した。廃藩置県後は、官途に就かず、大阪に居住して門人の教育に努めた。大正九年(1920)、七十九で死去。


土州豊永東虎左秀行墓

 左(さの)行秀は、筑前の刀工左文字の流れを汲んでいることから、左と称した。土佐に来て、弘化三年~四年頃、幡多郡入野郷で鍛刀に従事し、安政三年には刀工・鍛冶職として山内家に仕官した。幕末を代表する刀工の一人である。維新後、帰国して東虎と称する。晩年は居所を転々として、失意のうちに大阪で没したといわれる。

(万福寺)


新選組 大阪旅宿跡

 平成二十三年(2011)六月、歴史地理史学者中村武生氏の手により、万福寺の門前に「新選組 大阪旅宿跡」碑が建立された。

(正法寺)


正法寺

 谷町九丁目周辺は、ともかく寺院が多い。大阪市内随一の寺町である。正法寺は、イギリス公使パークスが大阪滞在時に宿泊した寺である。

(法雲寺)


法雲寺

 慶応四年(1868)二月、神戸事件の直後、アーネスト・サトウが宿泊した寺である。サトウが当寺に宿泊中に堺事件が発生している。

(谷町グランドハイツ)
 現在、谷町グランドハイツのある辺りに、幕末当時は本覚寺があったとされる。
 慶応三年(1867)三月、本覚寺にてアーネスト・サトウと薩摩の西郷隆盛が兵庫開港問題で会談している。歴史的舞台となった場所であるが、残念ながら何も残されていない。


本覚寺跡


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上本町 Ⅱ

2014年03月01日 | 大阪府
(大福寺)


池内陶所先生之墓

 大福寺に池内大学とその妻の墓がある。池内大学は、文化十一年(1814)に近江に生まれた。幕末京都の烏丸下長者町に住み、医業の傍ら青蓮院宮、知恩院宮の侍読となり、公家の子弟を教えた。安政年間、外交問題、将軍継嗣問題が起こると、青蓮院宮・三条実万らに入説した。安政五年、水戸藩に降下された密勅事件にも関与し、梁川星厳、梅田雲浜とともに尊皇攘夷論者として知られた。安政の大獄が起こると、伊勢に逃げたが逃れ難きを知り、京都町奉行所に自首し、江戸に檻送された上で糾問された。死罪は免れたが、退蔵と改名して大阪に籠居した。しかし、尊攘派から「裏切者」とにらまれることになった。文久三年(1863)土佐藩山内容堂が上京の途中、大阪に立ち寄った際、酒席に招かれ、その帰途、暗殺された。下手人は岡田以蔵らというが、以蔵以外の下手人は不明である。池内大学の首は、耳が削がれ、その耳は紙箱に入れ油紙に包まれ、一つは正親町三条実愛、もう一つは中山忠能の両大納言の屋敷に投げ込まれた。この事件がきっかけとなり両卿は退任した。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本町 Ⅱ

2014年03月01日 | 大阪府
(AAホール)


AAホール

 淡路町三丁目のAAホールという施設の前に専穪寺跡を示すステンレス製の説明が掲げられている。うっかりすると見逃してしまいそうなものである。
 文久三年(1863)勝海舟がここに居住しており、坂本龍馬や近藤長次郎らが海軍技術を学んだ場所である。


勝海舟寓居・海軍塾(専穪寺跡)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天満橋 Ⅳ

2014年03月01日 | 大阪府
(瑞光寺)


瑞光寺


長慶院恩富良儀居士(吉村武兵衛の墓)

 吉村武兵衛は久留米藩の参政で、佐幕派の重鎮であった。慶応四年(1868)四月、大阪瑞光寺で自刃した。墓の側面には辞世が刻まれている。戊辰戦争が終結し、官軍に参加した久留米藩軍が凱旋すると、藩内の佐幕派は次々と切腹に追いやられた。吉村武兵衛を含め、このとき粛清された久留米藩士は十名に及んだ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大阪城公園 Ⅱ

2014年03月01日 | 大阪府
(大阪城)


明治天皇駐輦之所碑


城中焼亡埋骨墳

大阪城が新政府軍に引き渡されることを潔しとしない幕臣たちが、城内に火を放ち自害した。薩長両軍の有志は、彼らの挙を武士の鑑と称え、慶応四年(1868)七月、遺骨を埋葬して石碑を建立した。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする