(大久寺)
大久寺
石川家墓
大久寺に福井藩士横山猶蔵の墓を訪ねてみたが、いくら歩いても分からなかった。「幕末維新江戸東京史跡辞典」(新人物往来社)によれば「墓は風化が甚だしい」らしいので、発見するのは簡単ではないことは覚悟していたのだが…。
大久寺は、伊勢亀山藩主石川家の江戸の菩提寺である。幕末の藩主は、石川成之(なりゆき)。慶応元年(1865)に襲封。鳥羽伏見戦では、在京の藩兵が会津藩に同調したため、朝廷の不興を買った。同年家中に内訌を生じ、翌明治二年(1869)、父閑翁とともに京都に呼ばれ、その処置を申し渡された。同年藩知事となり、開かれた教育による人材育成に努めた。墓碑には成之の名はないが、寺の過去帳に明治十一年(1878)、二十四歳で死去したことが記されているそうである。
(与楽寺)
与楽寺には、陸軍大将大島久直の墓がある。
与楽寺
陸軍大将 正二位勲一等功二級
子爵大島久直墓
大島久直は秋田藩士大島久徴の次男として嘉永元年(1848)に生まれた。戊辰戦争に参加。維新以降も、西南戦争、日清戦争、日露戦争に出征と、輝かしい戦歴を残した。その間、軍事参議官、教育総監、近衛師団長等の要職を歴任した。日露戦争では、乃木大将の指揮する第三軍に属し、旅順攻略戦、奉天会戦に加わった。戦後、大将さらに子爵に叙された。秋田藩出身の軍人としてはほかに例のない出世であった。昭和三年(1928)、七十九歳にて逝去。
大久寺
石川家墓
大久寺に福井藩士横山猶蔵の墓を訪ねてみたが、いくら歩いても分からなかった。「幕末維新江戸東京史跡辞典」(新人物往来社)によれば「墓は風化が甚だしい」らしいので、発見するのは簡単ではないことは覚悟していたのだが…。
大久寺は、伊勢亀山藩主石川家の江戸の菩提寺である。幕末の藩主は、石川成之(なりゆき)。慶応元年(1865)に襲封。鳥羽伏見戦では、在京の藩兵が会津藩に同調したため、朝廷の不興を買った。同年家中に内訌を生じ、翌明治二年(1869)、父閑翁とともに京都に呼ばれ、その処置を申し渡された。同年藩知事となり、開かれた教育による人材育成に努めた。墓碑には成之の名はないが、寺の過去帳に明治十一年(1878)、二十四歳で死去したことが記されているそうである。
(与楽寺)
与楽寺には、陸軍大将大島久直の墓がある。
与楽寺
陸軍大将 正二位勲一等功二級
子爵大島久直墓
大島久直は秋田藩士大島久徴の次男として嘉永元年(1848)に生まれた。戊辰戦争に参加。維新以降も、西南戦争、日清戦争、日露戦争に出征と、輝かしい戦歴を残した。その間、軍事参議官、教育総監、近衛師団長等の要職を歴任した。日露戦争では、乃木大将の指揮する第三軍に属し、旅順攻略戦、奉天会戦に加わった。戦後、大将さらに子爵に叙された。秋田藩出身の軍人としてはほかに例のない出世であった。昭和三年(1928)、七十九歳にて逝去。