史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

田端

2014年09月07日 | 東京都
(大久寺)


大久寺


石川家墓

 大久寺に福井藩士横山猶蔵の墓を訪ねてみたが、いくら歩いても分からなかった。「幕末維新江戸東京史跡辞典」(新人物往来社)によれば「墓は風化が甚だしい」らしいので、発見するのは簡単ではないことは覚悟していたのだが…。
 大久寺は、伊勢亀山藩主石川家の江戸の菩提寺である。幕末の藩主は、石川成之(なりゆき)。慶応元年(1865)に襲封。鳥羽伏見戦では、在京の藩兵が会津藩に同調したため、朝廷の不興を買った。同年家中に内訌を生じ、翌明治二年(1869)、父閑翁とともに京都に呼ばれ、その処置を申し渡された。同年藩知事となり、開かれた教育による人材育成に努めた。墓碑には成之の名はないが、寺の過去帳に明治十一年(1878)、二十四歳で死去したことが記されているそうである。

(与楽寺)
 与楽寺には、陸軍大将大島久直の墓がある。


与楽寺


陸軍大将 正二位勲一等功二級
子爵大島久直墓

 大島久直は秋田藩士大島久徴の次男として嘉永元年(1848)に生まれた。戊辰戦争に参加。維新以降も、西南戦争、日清戦争、日露戦争に出征と、輝かしい戦歴を残した。その間、軍事参議官、教育総監、近衛師団長等の要職を歴任した。日露戦争では、乃木大将の指揮する第三軍に属し、旅順攻略戦、奉天会戦に加わった。戦後、大将さらに子爵に叙された。秋田藩出身の軍人としてはほかに例のない出世であった。昭和三年(1928)、七十九歳にて逝去。
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東京 Ⅳ

2014年09月05日 | 東京都
(東京駅八重洲口)
 東京駅の八重洲口から一本南の筋の道路脇に、少し不思議な形をした碑が置かれている。


尾台榕堂之碑

 尾台榕堂は、越後魚沼郡中条村(現・新潟県十日町市中条)出身の漢方医。十六歳のとき江戸に出て、尾台浅岳に医学を、亀田綾瀬(鵬斎の子)に儒学を学んだ。三十六歳のとき、師浅岳の家を継いで尾台姓を称することになった。六十五歳のとき、将軍家茂に単独謁見した。当時、この地に居住して医療活動を行い、当代屈指の名医と謳われた。この石碑は、平成二十三年(2011)に、日本東洋医学会や日本漢方医学研究所、十日町市などの手によって建立されたものである。

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日暮里 ⅡⅩ

2014年09月05日 | 東京都
(谷中霊園)


正四位勲四等文學博士黒川真頼
妻 紀伊子墓

 黒川真頼は、文政十二年(1829)、上野国桐生新町(現・群馬県桐生市)の商家に生まれた。江戸に出て、国学者、歌人として名を成した黒川春村に師事し、慶応二年(1866)には黒川家を継いだ。明治十二年(1879)には東京大学文学部講師を嘱託され、その後も東京美術学校や東京音楽学校でも教鞭をとった。明治二十一年(1888)文学博士を授与された。明治三十九年(1906)没。【天王寺墓地】


ペール・ニコライ墓

ニコライは文久元年(1861)に箱館ロシア領事館付司祭として来日。明治二年(1869)に一旦帰国したが、明治四年(1871)再来日。ニコライ堂の建設など、ロシア正教の布教に尽くした。日露戦争の際も日本に踏みとどまった。大正元年(1912)、七十六歳で没。【乙2号新1側】

(本行寺)


判事 従四位勲三等 永井岩之丞墓

 永井尚志の墓の近くに、養子永井岩之丞の墓がある。永井岩之丞は、弘化二年(1845)、幕臣三好長済の子に生まれ、のちに永井尚志の養子となった。養父とともに箱館戦争を戦った。維新後は司法省に出仕し、明治十三年(1880)判事、同十六年、控訴院判事、明治二十七年(1894)には大審院判事を務めた。明治四十年(1907)、六十三歳にて死去。


正厳院殿正五位子爵尚服日晧大居士
(永井尚服の墓)

 本行寺の墓地の、永井尚志の墓とちょうど反対側に同姓尚服、尚典の墓がある。永井尚服は美濃加納藩の最後の藩主である。陸奥福島藩主板倉氏の出で、文久二年(1862)、永井尚典より家督を継いだ。講武所奉行や若年寄、会計奉行など、幕末の幕府要職を歴任した。鳥羽伏見戦争勃発時は、幕府を支持していたが、慶応四年(1868)二月、新政府に恭順を申し入れ、藩兵を戦線に送った。明治十八年(1885)五十三歳にて死去。


市河米庵・市河萬庵の墓

 本行寺墓地の中ほどに書家市河家の墓域がある。写真中央は、市河米庵の墓。
 市河米庵は、儒学者、漢詩人であった市河寛斎の子。安永八年(1779)に江戸京橋桶町に生まれ、林述斎や柴野栗山に学んだ、書は父の寛斎のほか、顔真卿や米芾(べいふつ)の書風を学んだといわれる。寛政十一年(1799)には書塾小山林堂を開き、門人は五千人に及んだという。父のあとを継いで越中富山藩前田家の藩校広徳館の教授となった。嘉永三年(1850)高齢のために致仕し、子の遂庵があとを継いだ。安政五年(1858)七月、コレラにより没した。
 米庵の墓碑に向かい会って建てられているのが、その子萬庵の墓碑である。市河萬庵は、江川太郎左衛門、高島秋帆に洋式砲術を学び、幕府の鉄砲方となった。一方、家業である書については、明治初年、ロンドンで製作された新紙幣の文字を書いたことでも知られる。明治四十年(1907)死去。


(南泉寺)

 南泉寺本堂裏に意外と奥深い墓地が広がっている。階段を昇った場所に、近江西大路藩(文久三年(1863)以前は仁正寺藩と称した)一万七千石の藩主市橋家の墓域がある。


正五位市橋長義墓

 幕末の藩主は市橋長義(初名は長和)である。庄内藩酒井家から養子に入った人で、弘化元年(1844)家督を継ぐと、高島秋帆から砲術や蘭語を学び、ペリー来航後は海岸の警備に努めた。鳥羽伏見戦争勃発直後は幕府についたが、のちに新政府側に転向し、奥羽に藩兵を送った。維新後は西大路藩知事となった。明治十五年(1882)、六十二歳で没。向かい側には、長男市橋長寿の墓も建てられている。

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新馬場 Ⅳ

2014年09月05日 | 東京都
(品川神社)


乾庄右衛門信武墓 行年三十三歳

 板垣退助墓の傍らにある墓は、乾庄右衛門信武のもの。庄右衛門は、板垣退助の祖父である。

 品川神社の入口に登山道があり、そこを昇って行くと富士塚がある。その七合目に松本寒緑の碑がある。


寒緑松本先生之碑

 松本寒緑は、通称来蔵といい、会津藩の出身。江戸で学問を修め、藩の儒員となった。藤田東湖らと交わり、国防を憂えたといわれる。
 天保九年(1838)閏四月、幕府の代官羽倉外記が、海防強化するため伊豆七島を巡航する儒者を募ったとき、寒緑は進んでこれに応じた。御蔵島に航行する途中、荒天となり船は転覆。寒緑は海に投げ出されながら、文天祥の正気歌を吟じて洋上を漂白し、ついに歿した。享年五十。

(東海寺)
 東海寺入口近くに丹波篠山藩主青山家の大きな墓がある。


青山家墓

 青山家の墓に篠山藩主青山忠良(ただなが)、忠敏(ただゆき)父子も合葬されている。
 青山忠良は、文化四年(1807)、藩主青山忠裕の五男に生まれた。天保六年(1835)に襲封。翌天保七年(1836)には奏者番、天保八年(1837)には寺社奉行を兼ねた。弘化元年(1844)には老中となったが、嘉永元年(1848)、病のため辞した。元治元年(1864)、五十八歳で没。
 忠敏は、天保五年(1834)、忠良の二男に生まれた。文久二年(1862)襲封。文久三年の八一八政変では二条城の警護に当たった。また、同年十月の生野挙兵では鎮圧のため出兵した。元治元年(1864)七月、禁門の変でも幕軍に属して禁裏の護衛に当たった。慶応元年(1865)正月、奏者番に任じられた。維新後、篠山藩知事となったが、廃藩後は東京に移り住み、明治五年(1872)、三十九歳で没した。

(天龍寺)


鈴木君主税之墓

 前回(といっても何年も前になるが)、出会えなかった鈴木主税の墓を探して、再び天龍寺を訪ねた。何故だか、今回は簡単に見つけることができた。
 鈴木主税は文化十一年(1814)福井藩士の家に生まれた。天保八年(1837)、二十四歳で町奉行となった。木田地方荒田の「あさだ」と呼ばれる苛税を撤廃したため、百姓からその徳を慕われ、「世直神祠」を建てられた。天保十三年(1842)、寺社奉行に任じられ、ついで藩主松平春嶽の近習役として輔導に努めた。嘉永六年(1853)のペリー来航後は、江戸にあって幕府・諸藩の名士と交わり、橋本左内、中根雪江らとともに、藩の柱石となった。しかし、安政三年(1856)、病床に左内を招いて後事を託し、常盤橋内の藩邸に歿した。四十三歳であった。
 水戸の藤田東湖は、方今真に豪傑と称すべきものは天下ただ鈴木主税と西郷吉之助(隆盛)あるのみと語った。熊本の長岡監物も、主税のことを資質豪邁にして学識才略あるは東湖に如くは無く、学術正大にして智徳兼ね備わるは主税に如くは無しと絶賛した。

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大崎

2014年09月05日 | 東京都
(妙光寺)
 妙光寺に、野口九郎太夫(会津藩士)、馬島春海の墓を訪ねた。妙光寺は、JR大崎駅から徒歩で十分ばかり。建物はコンクリート製のビルとなっているが、その背後に墓地が拡がっている。
 結論からいうと、野口九郎太夫の墓は見つけられなかった。これだけ探して無かったということは、どこかほかに移転したとしか考えられない。


妙光寺


馬島家累代之墓
(馬島春海の墓)

 馬島春海は長州藩士。十六~七歳のとき、吉田松陰門下に入り、文久年間まで国事に奔走したとされる。奇兵隊では書記を務めた。文久三年(1863)より萩に帰り、晩成堂という漢学塾を営み、明治四年(1871)まで続けた。のちに東京に出て、明治三十八年(1905)十一月、六十六歳で亡くなった。
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