(大林寺)
誠徳院月潭秋芳居士(諸葛秋芳の墓)
諸葛秋芳君碑
諸葛(もろくず)秋芳は長府藩士。名は信澄。報国隊器械方副役。維新後は、東京師範学校(のちの東京教育大学。現・筑波大学)の初代校長。その後大阪の師範学校長も務めた。明治十三年(1880)三十二歳で病没。本堂前には、中村正直撰文、立花種恭の書ならびに篆額になる顕彰碑も建てられている。
(海蔵寺)
海蔵寺
海蔵寺には、水戸藩の儒者立原翠軒の墓や第十代横綱雲竜久吉の墓がある。
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立原家の墓
中央が「立原翠軒居士之墓」
立原翠軒は、延享元年(1744)、水戸城下竹原町にて生まれた。二十歳のとき江戸に出て、大内熊耳、細井平洲、松平楽山らに学んだ。水戸藩に戻って、七代藩主徳川治紀に仕え、彰考館総裁に任じられて、停滞していた「大日本史」編纂事業に尽力した。「大日本史」編纂については、藤田幽谷とその編纂方針を巡って対立した。文政六年(1823)没。八十歳。
翠軒の墓の横には、翠軒の顕徳碑や孫の立原春沙(南画家)の墓もある。
第十代横綱雲竜久吉の墓
第十代横綱雲竜久吉の墓である。墓石中央の「雲山玄龍居士」とあるのが、雲竜の法名である。雲竜型の土俵入りを始めたことで有名。
雲竜久吉は、文政六年(1823)筑後国山門郡大和町皿垣開小字甲木に生まれた。十九歳の頃、土地の力士小桜らを師としていたが、弘化三年(1846)、江戸に出て追手風に弟子入りし、柳川藩主立花候の抱え力士となった。嘉永五年(1852)、入幕。安政元年(1854)、ペリー再来航の時、その妙技と怪力を披露した。安政五年(1858)大関に進み、文久元年(1861)、第十代横綱となった。慶応元年十一月、引退。年寄追手風となる。明治二十三年(1890)、年六十八にて没。
雲竜久吉ら力士らがペリー艦隊の前で相撲を披露したのは、日米和親条約が締結された神奈川であった。時は嘉永七年(1854)二月二十六日。両国の間で贈り物を交換する場で、幕府は力士らを登場させた。現在でも欧米人と比べて日本人は圧倒的に体格で劣るが、今から百五十年前では今以上に体格差が顕著であった。外国人から侮られたくない一心から、「我が国にもこのような巨漢が存在している」ことを知らせるために、つまりささやかな示威行動の一つとして力士をペリーに見せたのである。
ペリーは、その「遠征記」にその場面を記録しているが、あまり良い印象は持たなかったようである。
――― 力士たちはいずれも肉がつきすぎて、ひとりひとりの特徴を失ってしまったようで、たんに二五個の脂肪の塊としか見えなかった。(『ペリー提督日本遠征記』(角川文庫))