史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

和田山 Ⅱ

2015年02月15日 | 兵庫県
(円龍寺)


円龍寺

 生野における挙兵が失敗に終わると、指揮者を失った農兵は暴徒化して各所で打ち壊しを行った。農兵は諸道具蔵や土蔵に入り込み、金銭や米麦五穀類、衣類やありとあらゆる什器を強奪した。山東地区のあと和田山方面に向かう勢いであったが、和田山の円龍寺に出石藩の一部が陣取っていたことを知り、鎮静化した。結果的に農兵の暴動は局地に抑えられた。

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生野 Ⅲ

2015年02月15日 | 兵庫県
(来迎寺)


来迎寺

 年末、京都の実家に帰省して、ここを拠点に関西の史跡を精力的に回った。二日目はレンタカーを調達して、生野、和田山、養父、出石を訪問した。朝八時に京都駅を出発し、十時に生野に到着した。
 生野市口銀谷の山麓は寺町になっており、八つの寺院が軒を並べている。
 最も西に位置する来迎寺は、生野挙兵の際、農兵が宿陣した寺である。また、生野の挙兵が鎮静化された文久三年(1863)十月十一日、出石藩一番手は東恩寺(現・東西寺)を本陣に、来迎寺を脇本陣として生野の警衛に当たった。同じく二番手は金蔵寺を本陣に、西福寺を脇陣とし、三番手は教徳寺を本陣に、禅操寺を脇陣とした。

(東西寺)


東西寺

 文久三年(1863)当時は東恩寺といったが、現在は東西寺と改称している。東西寺には、十四代までの歴代徳川将軍の位牌が祀られている。

(西福寺)
 同じく出石藩兵が宿陣した西福寺である。
 明治元年(1868)、フランス人鉱山技師ジャン・フランソワ・コアニエが夫人を伴って生野に来た際、異人館が完成するまでの間、宿舎として利用されたこともある。


西福寺

(金蔵寺)
 以下の金蔵寺、教徳寺、禅操寺、いずれも出石藩が兵を置いた寺院である。
 金蔵寺は、とりわけ歴史が古く、平安時代までその起源を遡ることができるという。


金蔵寺

(教徳寺)


教徳寺

(禅操寺)


禅操寺

 明治四年(1871)、文久三年(1863)の生野挙兵を彷彿とさせるような生野鉱山焼き討ち事件が発生した。このとき、生野県役人白洲文吾は、一揆勢を止めようとして命を絶たれている。禅操寺には白洲文吾の墓と墓碑が建てられている。


白洲吉容(文吾)墓

(旧生野鉱山職員宿舎)
 明治以降、生野銀山は我が国初の官営鉱山となり、その近代化のためフランスから鉱山技師が招聘された。街には外国人が暮らすための洋館のほかに、日本人向けの官舎も建てられた。明治九年(1876)建設という職員住宅は今も当時の姿をとどめている。
 俳優の志村喬は、少年期をここで過ごした。敷地内には、志村喬生誕の地を記念する石碑が建てられている。


志村喬生誕の地

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堺筋本町

2015年02月06日 | 大阪府
(泊園書院跡)


泊園書院跡

 藤沢東畡が起こした泊園書院は、明治九年(1876)嫡子藤沢南岳によってこの地(現・淡路町1-5)に移され再興された。長く大阪の文教の維持発展に貢献した。

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八尾 Ⅱ

2015年02月06日 | 大阪府
(神宮寺)


神宮寺

 近鉄法善寺駅でレンタサイクルを借りて神宮寺を目指す。法善寺駅は柏原市に所在しているが、神宮寺の住所は八尾市である。
 神宮寺の背後には、大きな来迎寺墓地が広がる。見晴らしの良い高台の中腹に大谷家の墓域があり、その一角に新選組に籍を置いた大谷良助の墓石がある。


大谷有知墓(大谷良助墓)

 大谷良助は、柏原の郷士大谷十助の子。元治元年(1864)の第一次行軍録には、その名前は記載されておらず、その直後に新選組に入隊したものと思われる。翌慶応元年(1865)三月、切腹により死。その理由は伝わっていないが、丁重に葬られたといわれる。

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岸和田 Ⅱ

2015年02月06日 | 大阪府
(本町通り)


吉田松陰逗留の地
(久住家)

 久しぶりに岸和田の街を散策した。駅前の駐輪場で自転車を借りて、観光案内所で本町通りへの道筋を確かめると、一路吉田松陰が逗留したと伝えられる久住家を目指す。岸和田城北側の旧紀州街道沿いには古い町並みや建物を保存しており、タイムスリップ感を楽しむことができる。
 観光案内所の方から
「久住家は二つある」
と伺ったが、両家は向い合わせになっており、南側の住宅が嘉永六年(1853)二月、吉田松陰が森田節斎と逗留した塩屋平衛門宅(現・久住清子邸)である。
 今もこの場所には古い木造住宅が建てられているが、この住宅は明治三十年代後半に建てられたもので、残念ながら松陰が滞在したものではない。
 松陰は藩儒相馬九方ら岸和田藩士らと藩校講習館の一室で議論を重ねたという。せっかくなので、藩校講習館跡にも足を延ばしてみることにした。

(中央保育園)


岸和田藩校(講習館)跡

 岸和田藩校講習館は、岸和田岡部家九代藩主岡部長慎(ながちか)が隠居後設立した藩校で初代館長に相馬九方(きゅうほう)が招かれた。
 嘉永六年(1853)、岸和田を訪れた吉田松陰は、講習館の一室で囲炉裏を囲んで、茶を飲み、せんべいをかじりながら、時には夜を徹して時勢や詩文について議論を重ねた。松陰は、頻繁に姿を現すようになった外国船に対し、海防の手薄なことを繰り返し説いたという。
 現在、藩校跡は保育園となっており、その前に岸和田市が建てた説明板が置かれているのみで、遺構らしきものは一切残っていない。


相馬九方肖像画
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泉大津

2015年02月06日 | 大阪府
(田中家住宅)


田中家住宅

 田中家は助松本陣と呼ばれ、紀州徳川家御用の小休本陣として参勤交代の際に利用されていた。今も往時の広壮な住宅を偲ぶことができる。田中家は庄屋を兼ねており、飢饉に備えて食糧を備蓄した備窮倉などを備えていた。

(牛滝塚)
 南海本線北助松駅から南西に数百メートル進むと、住宅に囲まれるように場違いな森が出現する。駅前の地図にも「牛滝塚」と明記されているが、この場所は代々本陣を務める田中家の墓所である。鍵を押し開けて中に入ると、田中家歴代の墓がある。


田中矩方之墓

 この田中矩方の墓が、天誅組に参加した田中楠之助の墓だという情報をどこかで得た。しかし、手元の書籍をいくら調べても出典が分からない。田中楠之助は、法善寺村の庄屋の出なので、ここに墓のある田中矩方とは別人であろう。


田中楠三郎源重矩墓

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平塚 Ⅱ

2015年02月01日 | 神奈川県
(宝積院)


宝積院

 成器塾跡から徒歩十分足らずの住宅街の中に宝積院がある。本堂向かって右手の墓地に宮崎拡堂の墓がある。


俱會一處(宮崎拡堂の墓)

 宮崎拡堂の名は長発。文政二年(1819)、加賀金沢の生まれ。明治二年(1869)、五十一歳で没した。同じ墓に拡堂の長男宮崎三昧も葬られている。三昧は、安政六年(1859)江戸の下谷仲徒町に生まれた。小説家として活躍した。大正八年(1919)六十一歳にて病没した。

(JAビルかながわ)


二宮尊徳先生像

JR平塚駅南口のJAビルかながわ前に二宮尊徳胸像がある。
平塚と二宮尊徳との関わりは浅くない。片岡村(現・平塚市片岡)では、天保の大飢饉などで疲弊し、打ちこわしなども発生していた。そこで小田原藩で飢民救済に成果を上げていた二宮尊徳の指導を仰ぎ、復興を果たしている。

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本駒込 Ⅳ

2015年02月01日 | 東京都
(大林寺)


誠徳院月潭秋芳居士(諸葛秋芳の墓)


諸葛秋芳君碑

 諸葛(もろくず)秋芳は長府藩士。名は信澄。報国隊器械方副役。維新後は、東京師範学校(のちの東京教育大学。現・筑波大学)の初代校長。その後大阪の師範学校長も務めた。明治十三年(1880)三十二歳で病没。本堂前には、中村正直撰文、立花種恭の書ならびに篆額になる顕彰碑も建てられている。

(海蔵寺)


海蔵寺

 海蔵寺には、水戸藩の儒者立原翠軒の墓や第十代横綱雲竜久吉の墓がある。


立原家の墓
中央が「立原翠軒居士之墓」


 立原翠軒は、延享元年(1744)、水戸城下竹原町にて生まれた。二十歳のとき江戸に出て、大内熊耳、細井平洲、松平楽山らに学んだ。水戸藩に戻って、七代藩主徳川治紀に仕え、彰考館総裁に任じられて、停滞していた「大日本史」編纂事業に尽力した。「大日本史」編纂については、藤田幽谷とその編纂方針を巡って対立した。文政六年(1823)没。八十歳。
 翠軒の墓の横には、翠軒の顕徳碑や孫の立原春沙(南画家)の墓もある。


第十代横綱雲竜久吉の墓

 第十代横綱雲竜久吉の墓である。墓石中央の「雲山玄龍居士」とあるのが、雲竜の法名である。雲竜型の土俵入りを始めたことで有名。
 雲竜久吉は、文政六年(1823)筑後国山門郡大和町皿垣開小字甲木に生まれた。十九歳の頃、土地の力士小桜らを師としていたが、弘化三年(1846)、江戸に出て追手風に弟子入りし、柳川藩主立花候の抱え力士となった。嘉永五年(1852)、入幕。安政元年(1854)、ペリー再来航の時、その妙技と怪力を披露した。安政五年(1858)大関に進み、文久元年(1861)、第十代横綱となった。慶応元年十一月、引退。年寄追手風となる。明治二十三年(1890)、年六十八にて没。
 雲竜久吉ら力士らがペリー艦隊の前で相撲を披露したのは、日米和親条約が締結された神奈川であった。時は嘉永七年(1854)二月二十六日。両国の間で贈り物を交換する場で、幕府は力士らを登場させた。現在でも欧米人と比べて日本人は圧倒的に体格で劣るが、今から百五十年前では今以上に体格差が顕著であった。外国人から侮られたくない一心から、「我が国にもこのような巨漢が存在している」ことを知らせるために、つまりささやかな示威行動の一つとして力士をペリーに見せたのである。
 ペリーは、その「遠征記」にその場面を記録しているが、あまり良い印象は持たなかったようである。
――― 力士たちはいずれも肉がつきすぎて、ひとりひとりの特徴を失ってしまったようで、たんに二五個の脂肪の塊としか見えなかった。(『ペリー提督日本遠征記』(角川文庫))

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白山 Ⅲ

2015年02月01日 | 東京都
(心光寺)
 再度、心光寺を訪ねた。以前、発見した吉岡勇平(艮太夫)の墓を再訪。裏面を確認すると「徳順院殿吉岡盡政大居士」 明治四年十一月没とあった。
 吉岡家の墓の横には、入江北嶺という函館出身の画家の墓がある。


北嶺江斎墓

 入江北斎(通称善吉)は、箱館出身の浮世絵師。文化七年(1810)生まれ。入江南嶺、葛飾北斎に学んだという。墓の前に、昭和十年(1935)に当時の函館市長が記した文が置かれている。


廣勝院延譽李蹊居士
(石本亀齢の墓)

 一坂太郎著「吉田松陰とその家族」(中公新書)でこの墓のことを知り、早速、心光寺を訪ねた。この墓は、本堂向って右側の奥にある。
 石本亀齢は、姫路藩の四百石取りの重役であった。安政二年(1855)十月二日、いわゆる安政の大地震で江戸城辰ノ口にあった姫路藩上屋敷でも火の手が上り、石本は一旦外に出て助かったものの、建物の中に老母がいることを知り、火に飛び込んで亡くなった。五十歳であった。
 この話に感激した吉田松陰は、当時実家である杉家の幽囚室で石本を称える漢文の墓碑銘を書き上げ、遺族に送った。遺族は、見知らぬ長州人から送られてきた銘文を手に戸惑ったことであろう。しかし、吉田松陰が「偉人」として知られるようになった昭和四年(1929)、石本亀齢の七十五回忌のとき、松陰の銘文を墓石の三方に刻むことになった。
 松陰は
――― 聖人といへるあり
身を殺して仁を成すと
天地崩れ裂く
豈に其の身を顧りみんや
急ぎて往いて抱持し
慈親に殉ず
澆季(軽薄な世の中)と謂ふなかれ
世かくのごとく人あり
 と、感激を文字にしている(原文は全文漢文)。



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