史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

川崎

2020年03月21日 | 宮城県

(西福寺)

 一週間前に仙台在住の竹さんから、村田町の芝多・片平両家家臣供養塔や真田の郷公園の情報をラインで送っていただいた。この時期、東北は路面が凍結したり、積雪に被われていて旅には不向きである。というわけで最初から諦めていたが、暖冬の影響なのか、どうやら自動車で訪問も可能のようである。竹さんから送られてきた画像にも一切雪は映っていなかった。

 急遽、宮城県南部から福島市周辺の史跡探訪の旅を計画した。時間を有効に使うため、金曜日、帰宅して夕食と入浴を済ませ、八時過ぎに家を出た。最初の訪問地である、川崎町の西福寺に着いたのは、出発から四時間後であった。

 車中で夜を明かすために、後部座席に布団や毛布を積み込んだ。布団に潜り込もうとしたその瞬間、車のドアをノックされた。寺の方が、深夜にお寺の駐車場に進入してきた不審者を誰何しにきたのである。事情を話して一晩駐車場で過ごすことを許可いただいた。

 これでぐっすり眠ることができる。と、思ったが、冬の東北をなめてはいけない。寒さのために一睡もできないまま、夜明けを迎えることになった。結果からいうと、掛布団が一枚足らなかった。

 

 この日の日の出は、午前六時三十分過ぎであった。お日様が昇ると同時に活動を開始した。西福寺本堂の写真も撮影したのだが、寒さのあまり手が震えてしまい、見るに堪えない写真になってしまった。

 

小野家歴代之墓(小野亀代治の墓)

 

 墓地中段の一際立派な墓石は、小野家歴代の墓である。傍らの墓碑に、歴代の事績が略述されている。

 小野家は菅原道真の末裔と伝えられ、凡そ四百年数十前にこの地に移り住んだ。初代小野雅樂之允から数えて十二代目の雅樂之允の四男亀代治(喜代治とも)は戊辰戦争に従軍し、慶応四年(1868)六月二十九日、磐城小名浜にて負傷、のち死亡した。十九歳。

 

(龍雲寺)

 

龍雲寺

 

川崎伊達家の墓

 

伊達邦賢墓誌

 

 龍雲寺から百メートルほど離れた墓地に川崎伊達家の墓所がある。川崎伊達家は、初代村和の嫡男二代村詮のとき、享保七年(1722)に二千石を賜り、川崎要害の館主となり、仙台藩の一門に列せられた。以来、明治維新まで村敏、村煕、村賢、宗和、邦和、邦賢と七代百四十六年間この地方に君臨した。

 七代邦賢(くにかた)は、戊辰戦争の敗戦後、領地を没収された。明治十年(1877)の西南戦争では、旧家臣を率いて大隊の指揮をとった。戦後は東京に移住した。明治十四年(1881)、東京で没した。四十五歳。

 

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大森 Ⅴ

2020年03月14日 | 東京都

(厳正寺)

 嘉永六年(1853)六月、ペリー率いるアメリカの艦隊が浦賀沖に現れると、直ちに各藩に沿岸警備の命がくだされた。同月九日、幕府は久里浜に設けた応接所にてペリーが携えてきたアメリカ大統領の親書を受理した。その日の夕刻、四隻の黒船は、江戸湾深く侵入し、金沢沖に姿を現した。この時、長州藩主毛利敬親は、大森厳正寺(大田区大森東3‐7‐27)を本営と定め、自らそこに入ったが、十二日に米艦が金沢沖から消えたため、幕府からの撤兵命令を受けて十五日には江戸桜田の藩邸に帰った。

 

厳正寺(ごんじょうじ)

 

 厳正寺山門には、梵鐘が置かれている。この梵鐘は、安永元年(1772)に大森村などの檀信徒によって寄進されたものである。

 

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小金井 Ⅲ

2020年03月14日 | 東京都

(小金井神社)

 この日の最終訪問地は、小金井神社である(小金井市中町4‐7‐2)。拝殿は令和二年(2020)十一月まで工事中で、青いシートで覆われていた。

 朝から京王線で調布、京王線と銀座線を乗り継いで青山霊園に移動し、青山霊園からは都バスで白金台へ。白金台から東急バスと山手線を乗り継いで高田馬場。そこから歩いて大江戸線中井駅に向かい中野坂上駅へ。丸ノ内線から中央線に入って武蔵小金井駅まで移動した。万歩計の歩数は二万二千歩を越えた。腰椎ヘルニアの激痛に苦しんだ半年前はとてもこれほど長時間歩くことはできなかったが、よくもここまで回復したものだと感慨深いものがある。

 

小金井神社

 

小金井小次郎寄進の狛犬

 

 小金井神社の鳥居前の狛犬一対は、小金井小次郎が寄進したもの。台座には、「願主 關小治郎」という小次郎の本名と「明治十三年九月吉日」という日付が刻まれている。

 

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中野坂上

2020年03月14日 | 東京都

(成願寺)

 中野坂上駅近くの成願寺は、近藤勇ゆかりの寺である(中野区本町2‐26‐6)。

 子母沢寛の「新選組遺聞」によれば、近藤勇の妻ツネと一人娘の瓊子(たまこ)は、勇が甲州に出て間もなく、牛込廿騎町の自宅を引き払い成願寺の座敷を借りて移り住んだという。子母沢寛の著作は、聞き書きのようでいろいろと作家の創作も交じっているので、これも史実かどうか定かではないが、参考記録として。

 

成願寺

 

鍋島家墓所

 

 成願寺の墓地には、佐賀鍋島家の支藩蓮池藩鍋島家の墓所がある。

 

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高田馬場 Ⅱ

2020年03月14日 | 東京都

(観音寺)

 

観音寺

 

 高田馬場から徒歩二十分弱で観音寺に着く(中野区高田馬場3‐37‐26)。

 本堂前でカメラのレンズを交換していると、中から一人の女の子が出てきて、「何か用事ですか」と訊かれた。「無明橋の石碑を探しています」と答えると、「これですか」と本堂横に案内された。女の子が教えてくれた石碑は、私の探していていたものとは違ったが、すぐその横に無明橋の碑があった。写真を撮っていると「石碑の写真を集めているんですか」と女の子は不思議な生物でも見るような目でオジサンを見ていた。

 

無明橋 山岡鉄舟書

 

 無明橋の碑は、山岡鉄舟の書。由来は不明。

 

 

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白金台 Ⅴ

2020年03月07日 | 東京都

(覚林寺)

 

覚林寺 清正公堂

 

港区白金台1‐1‐47に所在する覚林寺は、加藤清正の位牌や像を祀っていることから「清正公さま」と呼ばれている。

 

「破魔軍」 有栖川熾仁親王書

 

 覚林寺は、弘化二年(1845)の大火で全焼し、山門は安政三年(1856)、清正公堂は慶應元年(1865)に再建されたものである。

 清正の像を祀る清正公堂には有栖川熾仁親王書「破魔軍」の扁額が掲げられている。

 

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調布 Ⅳ

2020年03月07日 | 東京都

(上布田宿)

 

近藤勇と新撰組ゆかりの人 伊東玄朴

 

 京王線調布駅北側の県道119号沿いの駐車場の前に目立たない駒札が建てられている(調布市布田1‐29‐1)。

 近藤勇が近藤周助の養子となって後のこと。病に罹り、病状が次第に悪化し、上石原に帰ったことがあったという。ちょうど伊東玄朴が上布田宿に来たときに診察し、投薬したところ本復し、こと無きを得たという。伊東玄朴は、小野路村の名主で近藤勇と義兄弟の契りをかわした小島鹿之助宅にも往診した記録が残っている。

 

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静岡 Ⅸ

2020年03月07日 | 静岡県

(中村敬宇旧宅跡)

 中村敬宇の旧宅跡地を訪ねて、年末京都の実家に帰省した帰路、静岡で途中下車して、駅から徒歩で当該地を目指した。歩いて三十分。富春院の二本北の道に石碑を発見した。

 

村敬宇先生舊宅之跡

 

 大正十五年(1926)に建立された石碑の上部は戦災によって欠損しており、中村の「中」の字が消えてしまっている。

 駿府藩主となった徳川家達を追って静岡に移り住んだ中村敬宇(正直)は、静岡学問所の一等教授に就任し、家達をはじめとする子弟の教育に努めた。この場所に「無所争斎」と称する半洋式の住宅を建て、明治五年(1872)に東京に戻るまで住んでいた。敬宇が「西国立志編」や「自由之理」を著わしたのは、静岡在住時代のことである。

 

(静岡陸軍墓地)

 先日、中公新書「軍神」を読み終えたところである。この本で静岡市内にも陸軍墓地があることを知り、さっそく訪ねることにした。

 静岡駅からバスで十五分くらいの「三松」というバス停で降りれば便利である。

 広い敷地のほとんどはグラウンド状の平地となっており、近所の子供たちの良い遊び場であろう。陸軍関係者は木立の中に葬られている。

 

陸軍墓地

 

静岡陸軍墓地

 

陸軍歩兵中佐従六位勲四等功四級橘周太之墓

 

 日露戦争遼陽の戦闘で戦死し、「軍神」と称えられた橘中佐もここで眠っている。

 

 

 

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