(西福寺)
一週間前に仙台在住の竹さんから、村田町の芝多・片平両家家臣供養塔や真田の郷公園の情報をラインで送っていただいた。この時期、東北は路面が凍結したり、積雪に被われていて旅には不向きである。というわけで最初から諦めていたが、暖冬の影響なのか、どうやら自動車で訪問も可能のようである。竹さんから送られてきた画像にも一切雪は映っていなかった。
急遽、宮城県南部から福島市周辺の史跡探訪の旅を計画した。時間を有効に使うため、金曜日、帰宅して夕食と入浴を済ませ、八時過ぎに家を出た。最初の訪問地である、川崎町の西福寺に着いたのは、出発から四時間後であった。
車中で夜を明かすために、後部座席に布団や毛布を積み込んだ。布団に潜り込もうとしたその瞬間、車のドアをノックされた。寺の方が、深夜にお寺の駐車場に進入してきた不審者を誰何しにきたのである。事情を話して一晩駐車場で過ごすことを許可いただいた。
これでぐっすり眠ることができる。と、思ったが、冬の東北をなめてはいけない。寒さのために一睡もできないまま、夜明けを迎えることになった。結果からいうと、掛布団が一枚足らなかった。
この日の日の出は、午前六時三十分過ぎであった。お日様が昇ると同時に活動を開始した。西福寺本堂の写真も撮影したのだが、寒さのあまり手が震えてしまい、見るに堪えない写真になってしまった。
小野家歴代之墓(小野亀代治の墓)
墓地中段の一際立派な墓石は、小野家歴代の墓である。傍らの墓碑に、歴代の事績が略述されている。
小野家は菅原道真の末裔と伝えられ、凡そ四百年数十前にこの地に移り住んだ。初代小野雅樂之允から数えて十二代目の雅樂之允の四男亀代治(喜代治とも)は戊辰戦争に従軍し、慶応四年(1868)六月二十九日、磐城小名浜にて負傷、のち死亡した。十九歳。
(龍雲寺)
龍雲寺
川崎伊達家の墓
伊達邦賢墓誌
龍雲寺から百メートルほど離れた墓地に川崎伊達家の墓所がある。川崎伊達家は、初代村和の嫡男二代村詮のとき、享保七年(1722)に二千石を賜り、川崎要害の館主となり、仙台藩の一門に列せられた。以来、明治維新まで村敏、村煕、村賢、宗和、邦和、邦賢と七代百四十六年間この地方に君臨した。
七代邦賢(くにかた)は、戊辰戦争の敗戦後、領地を没収された。明治十年(1877)の西南戦争では、旧家臣を率いて大隊の指揮をとった。戦後は東京に移住した。明治十四年(1881)、東京で没した。四十五歳。