史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

福島 飯野

2020年04月04日 | 福島県

(東栄寺)

 

東栄寺

 

大久保村(現・福島市飯野大久保)は「海を渡った幕末の曲芸団」(宮永孝著 中公新書)の主役高野広八の故郷である。明治二十一年(1888)頃、高野広八は、日蓮の仏像二体をもって帰郷し、うち一体を東栄寺に寄進した。もう一体は今も曽孫の家にあるという。

東栄寺本堂はガラス張りになっているので、目を皿にして中を覗いてみたが、仏像らしきものは見当たらなかった。

 

(住吉神社)

 

住吉神社

 

高野広八は、文政五年(1822)一月十七日、百姓甚兵衛とその妻うんの長男に生まれた。慶応二年(1866)十月二十九日、横浜を出帆し、二年余りの間、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、スペイン、ポルトガルなどを巡業した「帝国日本芸人一座」の後見人である。一座は足芸・手品・こま回しなど計十八名から成っていた。我が国における民間人パスポート(当時は「御印章」と呼んだ)第一号である。広八は、海外巡業中、日々の出来事を簡単ながらまめに記録していた。「広八日記」は市井の日本人が残した貴重な海外見聞録となっている。約三年の欧米巡業から帰った広八は、東京で過ごした後、明治三年(1870)の春、初めて故郷大久保村に帰った。広八、四十九歳であった。村に残る言い伝えによれば「広八は東京から大久保村に帰るとき、毛布をした白馬に乗ってきた」という。

広八の生家は百姓のほか「住吉屋」を号して生糸や絹織物の取引を行っていたという。住吉屋は、住吉神社の入り口にあった。住吉屋は雑貨商として大正初年まで続いたとされる。住吉屋は約三反五畝の田を所有していた。たまに野良仕事もしたようだが、口碑によれば広八は羽織を着て、コウモリ傘をさし、下駄ばきで田まわりをしていたという。当時、洋傘は珍しく、犬に吠えらえたというエピソードも伝わっている。

 

(大桂寺)

 

大桂寺

 

大高廣儀居士(高野広八の墓)

 

大桂寺墓地に高野広八の墓がある。明治二十三年(1890)九月二十日、広八は大久保村にて息をひきとった。享年六十九。

大桂寺墓地には古い墓石がゴロゴロしており、同姓高野家の墓も数えきれないくらいあって、この中から広八の墓を見つけ出すのは相当大変だと思ったが、何のことはない、彼の墓の横には「高野廣八の墓」と記した石柱が建てられており、比較的簡単に出会うことができる。

 

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福島 Ⅲ

2020年04月04日 | 福島県

(陣屋跡史績公園)

 当初の計画では伊達市内の史跡までであったが、竹さんから福島市内の史跡をご紹介いただいたので、時間の許す限り、福島市内を探索することにした。

 

陣屋跡史績公園

 

足守藩瀬上陣屋跡

 

 寛政十二年(1800)十二月、幕府より信夫、伊達両郡内二十五ヶ村に二万石余の村替を命じられた備中足守藩は、その分領支配のため陣屋を宮代村に設置した。

 以後、七十年間、この地を支配し、明治三年(1870)十二月、分領は県に渡され解体した。

 

(八島田駐在所)

 

八島田陣屋跡

 

 寛政元年(1798)、越後国新発田藩溝口氏は幕領二万石との村替を命じられ、信夫・田村・楢葉三郡のうち、二十三ヶ村は新発田藩の飛領となった。新発田藩は八島田村に陣屋を置いて支配した。初めは藩の役人が来ていたが、実際の仕事は三郡大庄屋吉野家に任されていた。文政十二年(1829)の村替により信夫郡八ヶ村のみとなったが、この陣屋は明治四年(1871)まで八十二年間続いた。陣屋の北隣に大庄屋吉野家があった。

 現在跡地は駐在所となっているが、建物は陣屋をイメージして設計されたそうである。

 慶応四年(1868)の戊辰戦争では、新発田藩が西軍先鋒として会津藩領に攻め入ったことを受けて、米沢藩が八島田陣屋を占領し、陣屋の役人を全員連行したという。

 

(和光神社)

 

和光神社

 

溝口主膳正碑

 

元治元年(1864)の天狗党鎮圧のため新

発田藩が出兵したことを記念した石碑である。

和光神社と常光寺の碑は、いずれも水戸天狗党関係のものである。個人的には天狗党関係の史跡は回り切った感があったが、まだ関連史跡が残っていたことに小さな喜びを覚えた。

和光神社に溝口氏(新発田藩)関係の石碑があるのは、新発田藩が八島田に飛び地を与えられそこに陣屋を置いて藩士を派遣していたこととも関係があるだろう。

 

(常光寺)

 

常光寺

 

追善供養塔

 

 福島藩も天狗党や真忠組鎮圧に借りだされ、犠牲者を出している。彼らを供養するために建立された供養塔である。

 

英光院忠道釼元居士(渋川市十郎の墓)

 

 渋川家の墓域に渋川市十郎の墓がある。

 渋川市十郎は、福島藩士。慶應四年(1868)五月二十七日、白河大谷地にて戦死。

 

(岩谷墓地)

 

官軍 西島新蔵永重墓

 

 西島新蔵は、福岡藩銃隊。慶応四年(1868)秋、会津で負傷。十一月十六日、福島にて死亡。三十六歳。

 

 岩谷墓地は信夫山の斜面に広がる。場所が分からなくて岩谷観音から観音寺墓地辺りを歩き回った。結果からいえば観音寺墓地に隣接しているのである。ここだけで数千歩、歩き回ってしまった。

 

(福島護国神社)

 福島護国神社は明治十二年(1879)の造営。戊辰の役に従軍した殉難者で相馬・田村・会津の招魂場に祀られていた御霊と、西南の役に殉じた管内人の御霊が合祀されたのが、その始まりである。それ以来、国難に殉じた御霊を合祀している。

 

福島護国神社

 

招魂之碑

 

 本殿右手に建つ招魂之碑は、明治十九年(1886)十一月建立。

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伊達

2020年04月04日 | 福島県

(興国寺)

 

興国寺

 

 文化四年(1807)、松前家は蝦夷の領地を召し上げられ、梁川藩九千石に転封された。蝦夷交易により実質的に数万石の収入があったとされる松前家にとって、改易に等しいものだったといわれる。このころ、幕府は北方警備を強化する必要に迫られており、それを松前家に任せるわけにいかないという事情があったのであろう。転封直後から松前家はひたすら幕府や公家に対して旧領地への復帰を働きかけ、移封から十五年後の文政四年(1821)、国替えの沙汰を獲得した。同時に梁川藩は廃藩となり、幕府直轄となったが、安政年間に松前藩の飛び領地となってそのまま明治を迎えた。興国寺墓地にある松前藩士の墓は、旧松前家支配時代の名残である。

 

松前藩士の墓

 

安岡正煕(藤田克馬)之墓

 

 先日読破した安岡章太郎「流離譚」は、冒頭東北弁を話す親戚が筆者を訪ねる場面から始まる。「親戚に一軒だけ東北弁の家」があったのが、梁川(現・伊達市)である。

この家系は、安岡嘉助の娘・真寿と覚之助の長男・平太郎(松静)との間に生まれた娘・美名吉(みなえ)が藤田家から克馬(安岡正煕)を婿に迎えた家で、安岡章太郎は「本家」と呼んでいる。

 安岡正煕は明治二十年(1887)に発令された保安条例によって東京を追われ、相州(横浜?)に逃れ、そこで東北に行けば蚕卵紙の輸出で非常な好景気にめぐまれているという噂を聞き、仙台へ行って医院を開業したが、うまくいかず。継いで梁川で眼科医を開いたところ、これが繁盛したため、改めて美名吉を妻に迎え、義祖母万喜、養母真寿を伴って梁川に移住した。昭和十三年(1938)、七十六歳にて没。

 正煕の墓の回りには、万喜や後妻安猪らの墓もある。

 

(保原町金原田)

 

菅野八郎の生家跡

 

 今回の旅の最大の眼目は、伊達市保原(ほばら)町金原田の菅野(かんの)八郎関係の史跡を訪ねることにあった。

 菅野八郎は文化七年(1810)伊達郡金原田中屋敷の名主を務める家に生まれた。儒者熊坂宇右衛門の門下で朱子学を修めた父和蔵の膝下で成長し、自然道を学び、水戸藩士の義弟太宰清右衛門に「おくった書状「秘書後の鑑」および「異人征伐海岸防備」が幕府役人の目にとまり、安政六年(1859)水戸密勅事件と同一視されて捕らえられ、万延元年(1860)四月、八丈島に流された。文久三年(1863)九月、許されて帰村したが、代官所から要視察人とされていた中で「誠信講」という農村自衛と教化を目的とした講を組織した。慶應二年(1866)六月、農民約五万人が生糸蚕種役御免・高利貸付御免・伝馬助郷御免を要求して世直し一揆を起こした(信達騒動)。八郎は「世直し大明神」と称されるほど農民の中に入って活躍した。同年七月、一揆指導者として再び捕らえられたが、慶応四年(1868)三月、赦免。金原田村に帰り、明治二十一年(1888)、七十九歳で没した。

 

(吾妻山)

 

菅野八郎自刻の碑

 

 生家跡の一本西の道を南に進み、最初の分岐を左に行くと昇り坂となり、山頂近くに屋根に覆われた自刻碑が現れる。安政四年(1857)、八郎自ら「八老、魂を留此而祈直(ここにとどまりてただしきをいのる)」と刻んだ岩である。

 

留此而祈直

 

(崖谷共同墓地)

 

大寶軒椿山八老居士(菅野八郎の墓)

 

 google mapで訪ねる場所をネットで疑似体験することが可能となり、おかげで菅野八郎の生家跡や自刻碑などの位置も概ね把握できた。ただし、google mapだけで墓を特定するのは不可能で、こればっかりは現地を歩かないと発見できるものではない。

菅野八郎の墓の所在地は、「明治維新名辞典」(吉川弘文館)によれば、崖谷共同墓地となっている。しかし、崖谷共同墓地という場所はネットで検索してもヒットせず、これもgoogle mapで生家近くにある墓地を探し出し、おおよその見当をつけておいた。生家跡から二本西側の道を南に進んだところである。

行ってみると、地元の二人連れのおばさんが墓参り中で、珍しいよそ者の出現に興味津々であった。「菅野八郎の墓を探している」と答えたところ、お二人ともご存じないようで、「近所の物知りの人に聞いてみたらわかるかもしれない」などとおっしゃっていたが、だったら墓地内をしらみつぶしに歩いた方がずっと早い。早々におばさんたちと別れて墓地内を歩き回ったところ、菅野家の墓所に自然石の墓を発見した。「明治維新人名辞典」に記載されているとおり、表面には「大寶軒椿山八老居士」という戒名が刻まれている。

 

(仙林寺)

 

仙林寺

 

 仙林寺には、太宰清右衛門の供養塔を訪ねた。簡単にみつかるはずであったが、残念なことにいくら探しても出会うことができなかった。太宰清右衛門の妻が、菅野八郎の妻と姉妹だったことから、両者の緊密な交流が始まり、太宰の影響を受けて八郎は水戸思想に染まったといわれる。太宰清右衛門の供養塔がみつからなかったので、その代わりに、仙林寺境内で見つけた熊坂適山・蘭斎兄弟の合作画碑や蘭斎の墓などを紹介しておく。

 

熊坂適山・蘭斎合作画碑

 

 熊坂適山は、寛政八年(1796)、陸奥伊達の生まれ。梁川に移封された松前藩家老蠣崎波響に絵画を習い、京都に出て浦上春琴から文人画を学んだ。元治元年(1864)、六十九歳にて死去。

熊坂蘭斎は、寛政十一年(1799)の生まれ。長崎で蘭学、医学を学んだ。のちに松前藩に仕えて藩医となった。明治八年(1875)、七十七歳にて死去。

 

熊坂蘭斎翁墓

 

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