『やんちゃジジイ・ゆうちゃん』のイカすセカンドライフ

我儘で『やんちゃ』な爺さんの目標は、
周りに笑顔を振りまいて、楽しくセカンドライフを生きる事。

人生なんて出会った人次第(その1)

2018年03月07日 | Weblog

一部上場の企業に運よく就職して、定年退職してもう2年が経った。
定年まで28年間務めた会社に入る前は、僕はちょっと変わった経歴を持っている。

最近、歳を取ったせいか?
そんな人生を送ってきた最初のきっかけは何だったか?
自分の人生の分岐点や、その要因を良く考えるようになった。
僕にとって音楽とサッカー、芝居の3つは切っても切れないものだけれど、
その中で人生の分岐点になったと言えるのは、多分音楽から始まる人の繋がりですね。

最初のきっかけは、中学校まで遡る。
僕は中学1年の7月に、親の転勤で東京へ戻ってきた。
埼玉の熊谷市の中学校へは、3か月しか通っていなかった。
その時に同級生だった女の子が、転校した後に手紙をくれて
それから高校に入るまで、手紙のやり取りをしていた。

高校に入ってからバンドを始めた事、そして色々なコンサートに出て、
高校生の分際で、大学祭に出演してギャラまで貰っていた。
そんな事を、手紙に書いたらその子から
『私の友達にコンサートを開くサークルが有るから紹介する』と言われ
数年ぶりに彼女と再会して、ある人を紹介された。

それがのちに一緒にバンドをやる事になったDera氏。
僕がまだ17歳、Dera氏は当時20歳で、日比谷高校から農大に進学していた。
その当時は、アマチュアコンサートのアドバイザー兼プロデューサー。
と言っても、あくまでアマチュアの主宰する、アマチュア相手の事務所だった。
あの時代は、そう言った組織や団体が多かったですね。

そんな関係で、コンサートで知り合ったのが今の相方Charlie。
彼の唄は、僕にとって凄く印象的でした。
そして、コンサート会場で良く見かけたのが『ノースジャーニー』の親分、鈴木氏。

その後、Dera氏、Charlieと3人でバンドを始めて、ラジオのコンテスト番組の
『サウンドウィズコーク』に出場。

これは番組プロデューサーが我々の事を気に入って居たので、予選免除、
全国大会まで出場する既定路線があったのですけれどね・・・・
その決勝前の関東甲信越大会で、プロデューサーの期待を裏切って
全国大会へは駒を進めることが出来なかった。
でも、僕らの曲は当時のテレビ番組の主題歌として候補に挙がったけど、
結局それも断っちゃった。
それについての裏話は、色々と有るのですけれどね・・・・・

その後、ドラムとベースを加えた5人編成のロックバンドを、結成したが
その二人が海外赴任になって、再び3人のバンドを再結成したり…

この時は、前出の鈴木氏が営む千葉県市川市にある『アルマナックハウス』を
主な活動拠点としていたかな?
それでも、今度は家庭の事情でDera氏が離脱。
色々と変遷を重ねながら、最後は相方と二人だけでやる事になった。

それも今は、ほぼ休止状態。

東日本大震災後に、鈴木氏が営む千葉県市川市にある『アルマナックハウス』の
出演者仲間と一緒に、復興支援プロジェクトとして『ノースジャーニー』を始め
今年でそれも7年目になる。

それで大船渡の人たちと出会い、

今では大船渡が自分の故郷みたいになってきた。
音楽をやって居なかったら、東日本大震災は単なる災害だったでしょう。
多分、大船渡に至るまでの人の繋がりは出来なかったでしょう。

続きはまた明日

コメント
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