昨日は3.11、東日本大震災から7年目の日でした。
こういう日は記念日といった言い方が正しいのか?
良く判らないけれど、少なくとも『結婚記念日』などのめでたい日とは違うでしょう。
8月15日の『終戦記念日』も、最近では『終戦の日』と言うようになりましたからね。
僕の中ではこの日は『東日本大震災の日』で、忘れられない日でもある。
【津波動画】東日本大震災 大船渡市の津波Part.1/3 JAPAN TSUNAMI 2011.3.11
7年前のこの日、午後3時直前に突然の揺れに襲われ、僕は自部署フロアに居た。
立っているのも大変な中、卓上の電話機の受話器が落ちたり、
パソコンが落ちそうになって机にしがみつきながら押さえた。
そして呆然としている部下に向かって、机の下に潜るよう怒鳴った。
揺れが治まって、インターネットで情報を見て、電車が止まって帰れない人や
自宅に子供が居て心配な人は、僕の判断で帰宅させた。
幸いなことに僕の部下の殆どが自転車通勤で、帰りの足は心配無かった。
その日は、会社を辞めようと思っていた僕を、本社から、子会社に引き寄せてくれ、
本社に居た頃から思うように仕事をさせてくれた大恩人の社長(当時)の
退任祝い(送別会)が予定されていて、料亭が予約されていた。
出発前に集会所のテレビには、大津波に飲まれる民家や農地の映像。
それに都心でも火災が起きて、大混乱だった。
帰宅難民が出そうな状況だというのに、宴会を仕切る総務部は
社員の帰宅の足を確保したり、帰宅できない社員の対応が最優先のはずなのに
宴会に幹部全員が出席して、社員の事などほったらかし。
宴会会場に着いたら、今度は阿呆の副社長(当時)が
出席者全員分の帰宅の足を確保すると言う名目でタクシーを呼んで、
宴会が終わるまで料亭の前で待たせた。
元副社長は機転を利かせたつもりで、鼻高々だったけれど僕は
会社の金で、自分の懐が痛まないから出来る事、結局は自分が帰るため…
と、僕は白けた目で、むしろ軽蔑した目で見ていた。
会社に居る社員の事など全く頭になかったのです。
その日は長女が卒業式で、電車が止まって嫁さんと何とかタクシーで帰宅したのだが、
携帯電話もメールも繋がらず、僕が帰宅したのは夜中だった。
僕はあの日宴会に行き、その一方では大勢の人が被災して命を失った。
そんな後ろめたさがあったから、翌年から東北復興プロジェクトに参加した。
それでも、ただ参加していただけ。
何か違うと疑問を抱きながらも、『行かないよりはマシ』と言った感じで数年が経った。
僕は被災地の人、特にお年寄りや子供に笑顔になって貰いたくて
どうしたら、力になれるのかな?って、ずっと考えていた。
そんな疑問に答えを出してくれたのが、劇団の音楽担当の大塚先生。
大塚先生の楽曲を使って、お年寄りに笑って貰おうって決めた。
思い立ったら、すぐに動きたくなる。
それで去年は7月から1か月に1回程度の間隔で、大船渡へ出向いた。
今年も2月の23日から1泊で出かけて来た。
大船渡の皆さんが、僕を笑顔で出迎えてくれて嬉しかったですね。
でも被災者の本当の所は、報道されていない。
僕がここに書くのも、躊躇うくらい深刻な事が沢山ある。
それでも、被災地へは行こうと思う。
大船渡の次は、何所へ行こうか?
陸前高田、石巻、気仙沼、南三陸など復興のスピードが遅いところへ
出向いてみたいなって、考えているところです。