後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

暗い気持ちになるチベット騒乱

2008年03月26日 | 国際・政治

もう何年も前になるが、ダライ・ラマの側近で桐蔭横浜大教授のペマ・ギャルポ氏の話を聞いたことがある。教養の深い知識人らしく、上品な日本語でチベットが中国に占領されていることの不当性を切々と説いていた。眉毛が濃く、黒目が光る顔が憂愁に沈んでいた。

話はとぶが中村彜画伯のロシア革命で祖国を終われた「エロシェンコ像」の悲しい表情と同じであった。

今回の騒乱をギャルポ氏はどんな思いで見ているのだろうか?

中国がチベットを占領するのは悪であろう。でもそれを非難する資格のある国家は存在するのであろうか?アメリカは武力でメキシコからカルフォルニアを奪い、フィリッピンをスペインから奪い、日本は台湾や朝鮮を奪った歴史を持つ。アメリカが純粋な人道主義から干渉するとしても中国政府が人道主義の意図を正しく理解するであろうか?それはどちらの両国にとっても悲劇である。そしてアメリカが介入することがチベット人にとって幸なのであろうか?かえって中国の武力鎮圧が残酷にならないであろうか?日本からチベットを訪問した記者達は現地の人々の考え方を直接聞くチャンスはあった筈である。何故、それを報道しないのであろうか?北京政府への遠慮であろうか?いろいろな疑問だけが増えて行く。

ロシアやイギリスはどんな目的でどのような方法で介入・干渉するのであろうか?

日本人の我々にはどのようなことが出来るのであろうか?心が暗くなるばかりである。

中国政府が穏健な政策をとるように祈る他はない。悲しいニュースである。

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外国体験のいろいろ(36)(37)の補足ー日本の新聞の報道しないエピソード

2008年03月26日 | 旅行記

この2回の連載ではベトナム戦争にまつわるエピソードを7つ書きました。みな外国で直接聞いたことですが、日本の新聞やマスコミでは報道されなかったことです。日本のマスコミの戦争の取り上げ方はアメリカ帝国主義のせいで戦争が起き、社会主義国家は平和主義であるという、恐ろしく単純すぎる見方です。それに合致しないエピソードは取り上げません。

外国体験のいろいろ(36)では、1)ベトナム難民のアメリカ移住の時、一般のアメリカ人がボランテアーとして数人ずつ家庭に引き取り、就職先が決まるまで世話をした。2)ベトナムでボートピープルが多数発生したとき、アメリカ、ヨーロッパ各国の民間団体が客船をチャーターしてベトナム沖で避難民を拾い上げた。3)韓国兵がベトナムで勇敢に戦ったことにアメリカ人は感動している。

また、外国体験のいろいろ(37)では、1)日本の新聞を賑わした「ベ平連」はベトナムでは日本でほど有名ではなかった。2)日本の米軍空軍基地の日本人従業員のメッセージが有名であった。3)ベトナム戦争当時、中国の南部農民が食料をベトナムへ必死で送っていた。4)中国人はベトナムのカンボジア侵攻へ懲罰を与えるべきと思っていた。

以上の脈略の無い7つのエピソードの真偽の程は確かめようもありません。が、全てアメリカ人、ベトナム人、中国人から現地で個人的に聞いたことも事実です。

新聞の一つの役目はこのように戦争に関係する事実の真偽の程を客観的に調査し独自のニュースとして報告することと思います。

単純にアメリカ政府や日本政府の一方的な発表をそのまま報道するのもいけません。またアメリカ帝国主義が悪の根源で社会主義国家は平和勢力であるという教条主義的な視点でしか記事にしないのもいけません。戦争の善悪を議論するのは空しいことです。しかし戦争に関連して輝く崇高な人間性を調査し記事にすることは心を豊かにする大切なことと思います。

このブログの「外国体験のいろいろ」では日本の新聞には出ていない外国の事情や人々の感じ方を正直に描きだすことを重要な目的にしています。

皆様のご忌憚の無いコメントを頂ければ幸いです。藤山杜人

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外国体験のいろいろ(37)新聞に出なかったベトナム戦争の2つのエピソード

2008年03月26日 | 旅行記

@爆弾に書かれた日本語

1986年、ベトナムがドイモイ開放政策を導入した後、同国は日本の多額の政府開発援助(ODA)で工場特区開発や高速道路建設を進めた。

93年、ハノイ市郊外の高速道路予定地を訪れた際、ベトナム戦争時ハノイ防空隊長をしていたチュウ氏が案内してくれた。丘陵の頂に立ち、「ここから東の方向、10キロ先にハノイの中心街が見えますね。この間の畑に四車線の高速道路を建設します。測量が終わったところです」と説明してくれた。

「アメリカの戦闘機はハノイを低空で攻撃した後、真っ直ぐこの高速度道路予定地を飛んできました。ちょうどこの丘陵の上で上昇反転して、またハノイ市街攻撃に戻ります。その時速度が落ちますから、そこを機関砲で打ち上げるとよく当たったものです」。説明するチュウ氏の顔が生き生きする。機関砲を打つ仕草もする。

ベトナム戦争当時は日本でも反戦運動が盛んで、「ベ平連」などが米軍の脱走兵の手引きをし中立国へ送り込んでいた。その話をすると、チュウ氏は「ベ平連のことは知りませんが、そういう団体が世界の各国にあったという噂は聞いていました。しかし、ベトナム人にとって一番感動したことはアメリカ空軍機が投下した時限爆弾の胴体の文字でした。はじめはどこの国の文字か分かりませんでしたが、そのうち日本語と分かりました」

チュウ氏の目が遠いところを見ている。「日本語でこうありました。『これは不発弾ではない!!時限爆弾である!!専門処理兵以外近づかない事!!!――アジア人の血を流したくない日本人より』」。

さらに説明を続ける。「この文字は米空軍が日本の軍事飛行場で時限爆弾を搭載する直前に日本人作業員が白のマジックペンで書き込んだと考えられる。時限爆弾の全てに書いてあるのではない。ただ、筆跡から五人以上の違う人間が書いていた」

この事実は新聞には出なかったが、口コミでベトナム全土へ広まった。新聞に出せば、日本人作業員が米空軍に逮捕・処罰されるからである。チュウ氏はさらに「フランス軍相手の独立戦争のとき、多くの日本兵がベトナム側に参加してくれた。その精神が若い日本人へも繋がっているのに感動した」

日本人の全てがアメリカ政府の戦争政策に賛同しているわけではない。それをベトナム人はよく知っていた。米軍基地で働いている日本人を通じて。

     @中国人のベトナム懲罰戦争

1985年、北京。知り合いの周教授と五星ビールを飲みながら、こんな話をしたことがある。

「中国軍が北ベトナムを攻撃して北部の三都市を占領した理由を知っていますか?」「軍事作戦のことは日本の新聞にも出ていましたが、その理由は全く出ていません」「十年にわたるベトナム戦争の間、揚子江より南の諸省は食うものも食わずに、食料をホーチーミンルートでサイゴン付近まで送り続けたのです」

「ところが戦争に勝った途端、ベトナム政府は中国の反対を無視してカンボジアへ侵攻、またラオスを攻撃した。カンボジアとラオスを植民地にしようとしたのです。思い上がりもはなはだしいので、懲罰のため北ベトナムを攻撃、三都市を占領したのだ」「懲罰とは穏やかでないですね?」「もう一つの理由は、中国の反対にもかかわらずソ連海軍へダナンなどの港湾の使用を許可したからです」

周教授の説明はいつもの明快さがなくて歯切れが悪い。

ベトナム戦争を支援した中国は戦勝後、ベトナムを思い通りにしようとした。が、独立心の強いホーチーミンはソ連の支援を使い中国から距離を置こうとした。中ソ関係は1959年以来悪化していた。中国はカンボジアを支援していた。ベトナム戦争後の中国とベトナムの戦争も中ソ関係の影が見え隠れする。その辺が真相と考えて間違いないのではなかろうか?(続く)