月日の流れは早いものでこの師走があけると平成28年、2016年になります。
あの東日本大震災の大津波や福島原発の爆発からもう丸5年になろうとしています。
私の行っているカトリック教会は現在でも時々、大震災で亡くなった方々のためにお祈りを唱えています。残された町や村の復興もお祈りしています。
2012年の10月に被災地を訪問した折にかつて300軒もあったという集落は影も形もありませんでした。復興など始まっていませんでした。ただ墓地だけは整理され新しい卒塔婆が並んでいました。本堂が津波ですっかり流されていましたが生き残った住職が墓地の整理と犠牲者の供養をしているそうです。
その様子は、「大津波被害地の復興進まず!・・・現地取材へ行ってきました。」という記事にして、http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyamaの2012年10月16日 に掲載いたしました。
今日は朝から2012年の10月に訪ねた東松島町のことを思い出しています。
そしてせめてお花の写真だけでも亡くならた方々へお送りしてご冥福をお祈りしたいと思います。
ここに掲載するシクラメンの花の写真は昨日、三鷹市のJマートで撮ってきた写真です。
さて最近、趣味人倶楽部の桃太郎さんという方の日記を読んでいましたら大震災の時のお寺の状態が鮮明に書いてあります。ご自分が本山で修行し、大震災の当時は被災地のお寺の住職になっていた方の日記です。住職の地位に安住せず現在でも行脚僧として掛錫修行を続けている方です。ご本人のお許しを頂きましたので以下に日記の抜粋を示します。
桃太郎さん著、『破戒坊主』①:http://smcb.jp/_ps01?post_id=6326652&oid=463063
・・・・あの時は参った。
なにしろこのちっちゃな町で(津波で亡くなった人が)385人だ。
全部が全部 俺の寺じゃない 他に3つ寺があるけど。
たまらず 兄(あに)さん呼んで 手伝って貰ったよ。
山陰の貧乏寺の兄さんは 体力自慢で 本山でも兄さんに手出しする奴なんかいなかった。
したい放題さ。だから兄さんが本山下りた時にゃ 一山みんなホッとしたみたいだ。
・・・・・・
あんなに一度にたくさんのホトケ見たのは初めてだ。
それが 次から次からやってくる。
其処はさすがにまずかろう って所にも 並べていく。
仕方ないんだ 置くところが無いんだよ。
棺桶が手に入らなかったホトケなんか 色んな物にくるまれて 布団とか 毛布とか。
俺の寺は 海からずっと離れていたから 助かった。
でも あちこち大分傷んでしまった。
放射能だって気になるじゃないか。
中にゃホトケ置いたっきり逃げちまった家族もいたらしい。
後は宜しく ってね。
そいつらを責める気なんか無いんだよ。
取り敢えずは頼むけど すぐまた帰って来るから ってそんな気持ちだったはずだ。
俺だって生身の体 放射能がどんなものか分からないだけに 恐ろしくてどうにも仕方がなかった。
でも 放射能は見えないけど 目の前に並べられたホトケは 寝ても起きても見えるじゃないか。
このホトケ放ったらかして置くわけにいかないじゃないか。
幸い 焼き場は無傷だった。
そうなれば あとは 順々に 決まり通りにやってくしきゃない。
四つの釜を 四つの寺に割り当てて みんなフル回転。
寒い季節だったから まだ良かった。
あれが夏だったら と思うと 身震いがする。
それでも 腐敗を恐れて 釜の取り合いをする家族もいた。
隣の釜が空いているので、 先に我が娘を焼いてくれ って 俺に泣きすがる婆さま。
隣は托蓮寺のものだし すぐまた次のホトケが入る予定らしいし。
今だから言うが 野焼きしたホトケも 随分あったみたいだ。
仕方ないんだ。
ホトケが多すぎるんだよ。(つづく)
(脚注:掛錫とは錫杖(しゃくじょう)を僧堂の壁に掛ける意。行脚の禅僧が、僧堂に滞在し修行すること。転じて、僧堂に籍をおいて修行すること。)
上の記述を見ると被災地におけるお寺の役割が分かります。
家族は亡くなった人の供養を願ってお寺に運ぶのです。寺の住職は本堂が流されて無くなっていても亡骸にお経を唱え、あの世でお釈迦様の弟子になるようにと引導をわたすのです。そして火葬場へ送り、遺骨も家族が願えば墓に入れるのです。
大震災の時、マスコミは町や村の公共の施設に並んだ遺骸の写真だけを報道しました。寺の境内に並んだ遺骸の様子はほとんど報道されなかったのです。
そして大震災の直後に全国の神社に多数の人がお祈りに行ったこともほとんど報道されませんでした。宗教に関連するニュースはマスコミでは御法度なのです。しかしそれも時と場合によるのではないでしょうか?
大震災後、いろいろな宗教団体が復興支援活動をしています。カトリックでも仙台司教区に復興支援の本部を置き、根気よく支援を続けています。
それにしても東北地方と関東地方の太平洋岸の復興はまだまだです。福島原発の解体作業も遅々として進んでいません。
やはり東日本大震災のことは忘れられません。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料================
「大津波被害地の復興進まず!・・・現地取材へ行ってきました。」の抜粋:(http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyamaの2012年10月16日 に掲載)
・・・・この東名(とうな)駅は昔、野蒜海岸へよく海水浴に行ったので何度も通過した駅です。名前が「とうな」と遠方の海を連想させるのでよく憶えていました。
踏切らしいところを横切って、海側に出ると、そこは一面の荒れ地になっています。600人位の住民が住んでいて、260人が犠牲になったそうです。
一面の荒れ地の所々に上の写真のように津波の猛威をしめす家々がかろうじて立っています。
下の写真が運転手さんの家のあった場所です。門のあった所に彼が茫然と立っています。
下は彼の家の門の所から庭の方向を見た写真です。庭さきは海です。
運転手さんは庭に入って来て、ここが玄関で、居間はここ、台所はここと説明しています。そして庭の奥には娘夫婦一家の家がありました。大きな庭木も沢山ありましたが、ご覧のように根こそぎ津波に持って行かれました。残った木々も海水で写真のように枯れているのです。・・・・
あの東日本大震災の大津波や福島原発の爆発からもう丸5年になろうとしています。
私の行っているカトリック教会は現在でも時々、大震災で亡くなった方々のためにお祈りを唱えています。残された町や村の復興もお祈りしています。
2012年の10月に被災地を訪問した折にかつて300軒もあったという集落は影も形もありませんでした。復興など始まっていませんでした。ただ墓地だけは整理され新しい卒塔婆が並んでいました。本堂が津波ですっかり流されていましたが生き残った住職が墓地の整理と犠牲者の供養をしているそうです。
その様子は、「大津波被害地の復興進まず!・・・現地取材へ行ってきました。」という記事にして、http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyamaの2012年10月16日 に掲載いたしました。
今日は朝から2012年の10月に訪ねた東松島町のことを思い出しています。
そしてせめてお花の写真だけでも亡くならた方々へお送りしてご冥福をお祈りしたいと思います。
ここに掲載するシクラメンの花の写真は昨日、三鷹市のJマートで撮ってきた写真です。
さて最近、趣味人倶楽部の桃太郎さんという方の日記を読んでいましたら大震災の時のお寺の状態が鮮明に書いてあります。ご自分が本山で修行し、大震災の当時は被災地のお寺の住職になっていた方の日記です。住職の地位に安住せず現在でも行脚僧として掛錫修行を続けている方です。ご本人のお許しを頂きましたので以下に日記の抜粋を示します。
桃太郎さん著、『破戒坊主』①:http://smcb.jp/_ps01?post_id=6326652&oid=463063
・・・・あの時は参った。
なにしろこのちっちゃな町で(津波で亡くなった人が)385人だ。
全部が全部 俺の寺じゃない 他に3つ寺があるけど。
たまらず 兄(あに)さん呼んで 手伝って貰ったよ。
山陰の貧乏寺の兄さんは 体力自慢で 本山でも兄さんに手出しする奴なんかいなかった。
したい放題さ。だから兄さんが本山下りた時にゃ 一山みんなホッとしたみたいだ。
・・・・・・
あんなに一度にたくさんのホトケ見たのは初めてだ。
それが 次から次からやってくる。
其処はさすがにまずかろう って所にも 並べていく。
仕方ないんだ 置くところが無いんだよ。
棺桶が手に入らなかったホトケなんか 色んな物にくるまれて 布団とか 毛布とか。
俺の寺は 海からずっと離れていたから 助かった。
でも あちこち大分傷んでしまった。
放射能だって気になるじゃないか。
中にゃホトケ置いたっきり逃げちまった家族もいたらしい。
後は宜しく ってね。
そいつらを責める気なんか無いんだよ。
取り敢えずは頼むけど すぐまた帰って来るから ってそんな気持ちだったはずだ。
俺だって生身の体 放射能がどんなものか分からないだけに 恐ろしくてどうにも仕方がなかった。
でも 放射能は見えないけど 目の前に並べられたホトケは 寝ても起きても見えるじゃないか。
このホトケ放ったらかして置くわけにいかないじゃないか。
幸い 焼き場は無傷だった。
そうなれば あとは 順々に 決まり通りにやってくしきゃない。
四つの釜を 四つの寺に割り当てて みんなフル回転。
寒い季節だったから まだ良かった。
あれが夏だったら と思うと 身震いがする。
それでも 腐敗を恐れて 釜の取り合いをする家族もいた。
隣の釜が空いているので、 先に我が娘を焼いてくれ って 俺に泣きすがる婆さま。
隣は托蓮寺のものだし すぐまた次のホトケが入る予定らしいし。
今だから言うが 野焼きしたホトケも 随分あったみたいだ。
仕方ないんだ。
ホトケが多すぎるんだよ。(つづく)
(脚注:掛錫とは錫杖(しゃくじょう)を僧堂の壁に掛ける意。行脚の禅僧が、僧堂に滞在し修行すること。転じて、僧堂に籍をおいて修行すること。)
上の記述を見ると被災地におけるお寺の役割が分かります。
家族は亡くなった人の供養を願ってお寺に運ぶのです。寺の住職は本堂が流されて無くなっていても亡骸にお経を唱え、あの世でお釈迦様の弟子になるようにと引導をわたすのです。そして火葬場へ送り、遺骨も家族が願えば墓に入れるのです。
大震災の時、マスコミは町や村の公共の施設に並んだ遺骸の写真だけを報道しました。寺の境内に並んだ遺骸の様子はほとんど報道されなかったのです。
そして大震災の直後に全国の神社に多数の人がお祈りに行ったこともほとんど報道されませんでした。宗教に関連するニュースはマスコミでは御法度なのです。しかしそれも時と場合によるのではないでしょうか?
大震災後、いろいろな宗教団体が復興支援活動をしています。カトリックでも仙台司教区に復興支援の本部を置き、根気よく支援を続けています。
それにしても東北地方と関東地方の太平洋岸の復興はまだまだです。福島原発の解体作業も遅々として進んでいません。
やはり東日本大震災のことは忘れられません。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料================
「大津波被害地の復興進まず!・・・現地取材へ行ってきました。」の抜粋:(http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyamaの2012年10月16日 に掲載)
・・・・この東名(とうな)駅は昔、野蒜海岸へよく海水浴に行ったので何度も通過した駅です。名前が「とうな」と遠方の海を連想させるのでよく憶えていました。
踏切らしいところを横切って、海側に出ると、そこは一面の荒れ地になっています。600人位の住民が住んでいて、260人が犠牲になったそうです。
一面の荒れ地の所々に上の写真のように津波の猛威をしめす家々がかろうじて立っています。
下の写真が運転手さんの家のあった場所です。門のあった所に彼が茫然と立っています。
下は彼の家の門の所から庭の方向を見た写真です。庭さきは海です。
運転手さんは庭に入って来て、ここが玄関で、居間はここ、台所はここと説明しています。そして庭の奥には娘夫婦一家の家がありました。大きな庭木も沢山ありましたが、ご覧のように根こそぎ津波に持って行かれました。残った木々も海水で写真のように枯れているのです。・・・・