後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今年、急激に変わった日本人の戦争観、そして「国破れて山河在り」を想う

2015年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム
今日はクリスマスのミサがあり、間もなく今年も暮れようとしています。
今年起きたいろいろなことを思い返しています。
国内では安倍政権が安保法案を改正して海外派兵が出来るようにしました。そして米軍との共同作戦の緊密化も進めました。
これを受けて多くの日本人の戦争観が変わったようです。勿論、日本人の戦争観は敗戦後から次第、次第に少しずつ変わってきたというのが正しい言い方です。しかしその変化がマスコミやインターネットの上で顕在化したのは安保法案の改正がキッカケになったことは否めません。
安保法案審議中の国会議事堂を15万人もの反対デモが取り囲んだ事実は外国のマスコミでは報道されたそうです。その写真をインターネットで私も見ましたが、15万人とは分かりませんが兎に角すごい人数のデモが国会を取り囲んでいました。この大規規模なデモの写真を日本のマスコミはほとんど報道しませんでした。
そして数週間前に「沖縄基地移転反対デモ」で、新宿南口通りが通行止めの状況になり1時間も自分の車が立往生した体験もしました。それは非常に大規模なデモでしたが翌日のマスコミはほとんど報道しませんでした。
これらのことから私は日本の新聞やテレビが安倍政権を支援することに潮流を変えたと理解しました。
日本は敗戦後、軍備を放棄し、全ての戦争をしない国家として再出発したのです。
その戦争放棄は国民に熱狂的に歓迎されたのです。決してアメリカ占領軍の押し付けだけではなかったのです。戦争放棄は全国民の希望でした。
しかしその後70年経過して日本人の戦争観は他の国々の国民と同じように戦争は必要だという考え方に変わったのです。自衛のための戦争は必要だと変わったのです。他国に侵略されないためには軍備を強化すべしと変わったのです。
この戦争観の変化は日本の運命にどのような結果をもたらすでしょうか?勿論、私にも分かりません。
ただ敗戦直後の日本の社会の風潮は戦争放棄に熱く染まっていたのです。
そして国が敗れても下の漢詩の「国破れて山河在り」を合言葉のようにして復興と工業技術の向上に邁進したのです。戦争で散った300万人もの犠牲を無駄にしないためにも絶対に日本を一流国家にしようと努力したのです。
今年の暮れにあたり、敗戦直後の日本の社会の雰囲気をあれこれ想う今日この頃です。
下に7歳から詩を作っていた杜甫(712-770年)の漢詩を示します。
「春 望」  
 (五言律詩。長安の賊中にあって、春の眺めを述べる。)
 
国破山河在   国破れて山河在り
城春草木深   城春にして草木深し
感時花濺涙   時に感じては花にも涙を濺ぎ
恨別鳥驚心   別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
烽火連三月   烽火 三月に連なり
家書抵万金   家書 万金に抵る
白頭掻更短   白頭 掻けば更に短く
渾欲不勝簪   渾て簪に勝えざらんと欲す

戦乱によって都長安は破壊しつくされたが、大自然の山や河は依然として変わらず、町は春を迎えて、草木が生い茂っている。
 時世のありさまに悲しみを感じて、(平和な時は楽しむべき)花を見ても涙を流し、家族との別れをつらく思っては、(心をなぐさめてくれる)鳥の鳴き声を聞いてさえ、はっとして心が傷むのである。
 うちつづく戦いののろしは三か月の長きにわたり、家族からの音信もとだえ、たまに来る便りは万金にも相当するほどに貴重なものに思われる。
 心労のため白髪になった頭を掻けば一層薄くなり、まったく冠を止める簪(かんざし)もさすことができないほどである。
(上の意訳の出典は、http://www.kangin.or.jp/what_kanshi/kanshi_B09_1.htmlです。)
間も無くお正月も来ます。楽しい休日が続く季節です。今日の挿絵の写真は山梨県北杜市で撮った風景写真です。

今日は皆様が楽しい気分でクリスマスやお正月をお過ごしなさるようにとお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山壮人)