戦前の昭和11年生まれで主に戦後の教育を受けた私は、満州を作り中国に武力侵入した日本は悪いと教わりました。そして真珠湾攻撃をして、東南アジアを占領した日本の歴史は悪い歴史だったと教わりました。
新制中学や新制高校で教わった歴史はアメリカ占領軍の指導によるもので、日本は間違った軍国主義のおかげでアメリカをはじめ近隣の諸国に不当な損害を与えたのですと教わりました。世の中に溢れる出版物も占領軍の検閲があるので、戦前の日本は悪かったという歴史観だけが横行していたのです。それに対してアメリカは東京裁判をして軍国主義の首謀者を断罪し、日本が再び軍国主義に走らないようにしたと教わりました。
新しい平和憲法では武力の放棄と再び戦争をしないという誓いが高らかにうたい上げられたのです。そしてその憲法が占領軍の押し付けであることは長い間秘密にされていたのです。
日本人が間違った武力行使を反省し高邁な憲法をみずからの手で作ったと信じられていたのです。
そのようなお陰で戦後すぐに新制中学や新制高校で教育を受けた高齢者は大東亜戦争は間違っていた、反省すべきだという歴史観を持っていたのです。
このように日本が悪い事をしたという歴史観は最近では自虐的歴史観と言われています。
そしてこのような歴史観を持っている高齢者はどんどんこの世を去り次第に消えつつあります。
最近の若い日本人は明治維新以来の富国強兵策は決して間違っていなかったと言うのです。欧米列強が植民地政策を強化拡大している歴史の中で、日本が独立を守るために武力を使いアジア諸国を植民地から解放したのです。それは日本がせざるをえなかった歴史の必然であり何も間違ったことではないというのです。間違ったことではないので何ら反省などする必要がありません。
ついでに言えば占領軍が勝手にした東京裁判は間違った裁判で、それは戦勝国が復讐の為にした悪い裁判です。
このように日本人の歴史観が変わって来つつあるのです。間もなく後期高齢者が死に絶えれば「自虐的歴史観」は歴史学の文献に残るだけになるのです。
こういう時代になってみると戦前の昭和15年に開催された「紀元は二千六百年の式典」を思い出します。
その歴史観によると日本は天照大神が作った国で、それ以来歴代の天皇が治めた2600年の輝かしい歴史があるというのです。
2600年前といえば縄文時代の末期、地方によってな稲作が始まり弥生時代にさしかかる時代です。
それはさておき、江戸時代の武士階級はどのような歴史観を持っていたのでしょうか?
奈良時代や平安時代の天皇を中心とした貴族政治を覆したのが源氏の源頼朝です。武士を中心にした政府を鎌倉に作ったのです。
ですから江戸時代の武士階級は鎌倉幕府以後の歴史は良い歴史だと思っていたのでしょうか?
武家が政権をとるのが正しい歴史だと考えていたのでしょうか?
しかしそれも幕末になると尊王攘夷などと再び天皇が重要視されるようになります。その結果明治天皇が大きな権力を持ったのでしょうか。
しかし江戸時代やそれ以前の日本人の歴史観には、隣国の中国の歴史観が大きく影響を与えていたと考えるのが自然ではないでしょうか。それは紀元前500年以上にわたる華麗な文化を誇る国の歴史です。そして王朝が武力闘争によって交代する歴史です。その歴史を学んだ武士階級は日本の歴史をどのように考えていたのでしょうか?
薩長土肥の諸藩が江戸幕府を倒すのは中國の王朝の交代のようにも見えます。そしてそれに欧米列強が干渉するのですから話は複雑になります。
それにしても日本は、欧米の植民地にならずによく独立を守ったと感慨深いものがあります。
同時に日本人の歴史観も時代の流れにしたがってどんどん変わるという感慨にもとらわれます。
今後の日本政府の国内政策や外交政策は自虐的歴史観を払拭した新しい歴史観によって進められるようになります。
安倍政権はすでにその方向へ動いているので軍備強化と憲法改正は歴史の必然として実行されて行くのです。しかしアメリカの戦争観の「テロとの戦い」という戦争観にはあまり深く巻き込まれないようにすべきではないでしょうか?
そんな感慨に関連して、今日は大和朝廷より古い歴史を持っていると考えられている諏訪大社の写真を示します。諏訪湖の航空写真以外はこの11月3日に自分が撮った写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=================
諏訪大社の歴史:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E5%A4%A7%E7%A4%BE
『古事記』・『先代旧事本紀』では、天照大神の孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に先立ち、武甕槌命(たけみかづちのみこと)が大国主命に国譲りするように迫ったとされる。これに対して、大国主命の次男である建御名方命が国譲りに反対し、武甕槌命に相撲を挑んだが負けてしまい、諏訪まで逃れた。そして、以後は諏訪から他の土地へ出ないこと、天津神の命に従うことを誓ったとされる。説話には社を営んだことまでは記されていないが、当社の起源はこの神話にあるといわれている。なお、この説話は『日本書紀』には記載されていない。
以上はあくまでも神話の域を出ないが、これを基に土着の勢力の上に外から入った神氏によって成立したのが当社であると考えられている。諏訪一帯の遺跡分布の密度・出土する土器の豪華さは全国でも群を抜いており、当地が繁栄していた様子がうかがわれる。以下省略。
上の写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E5%A4%A7%E7%A4%BEです。
新制中学や新制高校で教わった歴史はアメリカ占領軍の指導によるもので、日本は間違った軍国主義のおかげでアメリカをはじめ近隣の諸国に不当な損害を与えたのですと教わりました。世の中に溢れる出版物も占領軍の検閲があるので、戦前の日本は悪かったという歴史観だけが横行していたのです。それに対してアメリカは東京裁判をして軍国主義の首謀者を断罪し、日本が再び軍国主義に走らないようにしたと教わりました。
新しい平和憲法では武力の放棄と再び戦争をしないという誓いが高らかにうたい上げられたのです。そしてその憲法が占領軍の押し付けであることは長い間秘密にされていたのです。
日本人が間違った武力行使を反省し高邁な憲法をみずからの手で作ったと信じられていたのです。
そのようなお陰で戦後すぐに新制中学や新制高校で教育を受けた高齢者は大東亜戦争は間違っていた、反省すべきだという歴史観を持っていたのです。
このように日本が悪い事をしたという歴史観は最近では自虐的歴史観と言われています。
そしてこのような歴史観を持っている高齢者はどんどんこの世を去り次第に消えつつあります。
最近の若い日本人は明治維新以来の富国強兵策は決して間違っていなかったと言うのです。欧米列強が植民地政策を強化拡大している歴史の中で、日本が独立を守るために武力を使いアジア諸国を植民地から解放したのです。それは日本がせざるをえなかった歴史の必然であり何も間違ったことではないというのです。間違ったことではないので何ら反省などする必要がありません。
ついでに言えば占領軍が勝手にした東京裁判は間違った裁判で、それは戦勝国が復讐の為にした悪い裁判です。
このように日本人の歴史観が変わって来つつあるのです。間もなく後期高齢者が死に絶えれば「自虐的歴史観」は歴史学の文献に残るだけになるのです。
こういう時代になってみると戦前の昭和15年に開催された「紀元は二千六百年の式典」を思い出します。
その歴史観によると日本は天照大神が作った国で、それ以来歴代の天皇が治めた2600年の輝かしい歴史があるというのです。
2600年前といえば縄文時代の末期、地方によってな稲作が始まり弥生時代にさしかかる時代です。
それはさておき、江戸時代の武士階級はどのような歴史観を持っていたのでしょうか?
奈良時代や平安時代の天皇を中心とした貴族政治を覆したのが源氏の源頼朝です。武士を中心にした政府を鎌倉に作ったのです。
ですから江戸時代の武士階級は鎌倉幕府以後の歴史は良い歴史だと思っていたのでしょうか?
武家が政権をとるのが正しい歴史だと考えていたのでしょうか?
しかしそれも幕末になると尊王攘夷などと再び天皇が重要視されるようになります。その結果明治天皇が大きな権力を持ったのでしょうか。
しかし江戸時代やそれ以前の日本人の歴史観には、隣国の中国の歴史観が大きく影響を与えていたと考えるのが自然ではないでしょうか。それは紀元前500年以上にわたる華麗な文化を誇る国の歴史です。そして王朝が武力闘争によって交代する歴史です。その歴史を学んだ武士階級は日本の歴史をどのように考えていたのでしょうか?
薩長土肥の諸藩が江戸幕府を倒すのは中國の王朝の交代のようにも見えます。そしてそれに欧米列強が干渉するのですから話は複雑になります。
それにしても日本は、欧米の植民地にならずによく独立を守ったと感慨深いものがあります。
同時に日本人の歴史観も時代の流れにしたがってどんどん変わるという感慨にもとらわれます。
今後の日本政府の国内政策や外交政策は自虐的歴史観を払拭した新しい歴史観によって進められるようになります。
安倍政権はすでにその方向へ動いているので軍備強化と憲法改正は歴史の必然として実行されて行くのです。しかしアメリカの戦争観の「テロとの戦い」という戦争観にはあまり深く巻き込まれないようにすべきではないでしょうか?
そんな感慨に関連して、今日は大和朝廷より古い歴史を持っていると考えられている諏訪大社の写真を示します。諏訪湖の航空写真以外はこの11月3日に自分が撮った写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=================
諏訪大社の歴史:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E5%A4%A7%E7%A4%BE
『古事記』・『先代旧事本紀』では、天照大神の孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に先立ち、武甕槌命(たけみかづちのみこと)が大国主命に国譲りするように迫ったとされる。これに対して、大国主命の次男である建御名方命が国譲りに反対し、武甕槌命に相撲を挑んだが負けてしまい、諏訪まで逃れた。そして、以後は諏訪から他の土地へ出ないこと、天津神の命に従うことを誓ったとされる。説話には社を営んだことまでは記されていないが、当社の起源はこの神話にあるといわれている。なお、この説話は『日本書紀』には記載されていない。
以上はあくまでも神話の域を出ないが、これを基に土着の勢力の上に外から入った神氏によって成立したのが当社であると考えられている。諏訪一帯の遺跡分布の密度・出土する土器の豪華さは全国でも群を抜いており、当地が繁栄していた様子がうかがわれる。以下省略。
上の写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E5%A4%A7%E7%A4%BEです。