後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

それを見ると無我の境地になる風景写真を撮る

2015年12月14日 | 日記・エッセイ・コラム
無我の境地になると幸せになるという。しかし私は無我の境地とはどういうものなのかは理解していません。
そこで少し調べてみましたら自己というものを無の境地に至らしめることという意味だそうです。同じような意味の言葉には「 心を無にする 」とか「 自我を滅する 」とか「 心頭滅却 」などという言葉があるそうです。
よく聞くのは座禅をすると無我の境地になると聞きます。
またある説明によると、 無我とは、自我がないという意味で、自我に対するとらわれ(自分への執着)を離れよという仏教の根本的な教えです。
「無我の境地」という境地は、よほどの修行を積まなければ到達できない精神状態だが、「無我夢中」という言葉もあるように、われわれ庶民にも時にはこの境地に達する瞬間があるのです。(http://www.fleapedia.com/五十音インデックス/む/無我とは何か/より抜粋)
更に調べると同じような意味の類語が幾つも出て来ました。
雑念を排除し、完全にものに執着しなくなった心持ちのことだそうです。
この状態を、 無心の境地 ・ 悟り ・ 無の境地 ・ 悟りの境地 ・ 無我 ・ 無我の境地 ・ 梵我一如 ・ 解脱 ・ 悟り ・ 入涅槃 ・ 無我の境 ・ 自己を滅却 ・ 没我 ・ 無心 ・ 大悟の境地 ・ 悟りの域 ・ 諦念 ・ 虚心 ・ 無私 ・ 滅私 ・ 明鏡止水の心境 ・ 明鏡止水の境地 ・ 恬淡の心境 ・ 没我の境地 ・ 無私無欲の境地 ・自己というものを無の境地に至らしめること 心を無にする ・ 無我の境地 ・ 自我を滅する ・ 心頭滅却 などなどと言い換えることが出来るそうです。
これだけ書き並べれば「無我の境地」とはどういう境地なのか少しは分かったような気分になります。
そして私は何故か静かな自然の風景を見ると自分が無我の境地に入ったような気分になります。修行もろくにしていない私の場合はそれは錯覚なのでしょう。
しかしそんな錯覚は気分の良いもので、つい何時までもそんな静かな風景を眺めているのです。
そのような風景を撮った写真を示します。

上は山梨県と長野県の県境に聳えている甲斐駒岳です。

上は甲斐駒岳の麓の里の風景です。

上は茅ヶ崎市の相模湾の海辺です。

上は神奈川県の相模湖です。

上は山林の小屋の窓から見上げた樹木のシルエットです。
このような写真を撮っている間は何故か無心になり風景の中に自分が吸い込まれるような気分になります。
決して無我の境地ではありませんがそれに近いような感じがします。
そして自宅で時々、デスクトップに大きく写して何度も眺めています。見てると気分が落ち着いて良いのです。
でもこれは無我の境地ではありません。風景を意識し観賞しているのですから無我でないのです。
無我の境地に入るのは無理で、ただ、その入り口の近辺をうろうろしているのです。
私の解釈はたぶん間違っているでしょう。どなたかお教え下さいましたなら深く感謝いたします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料:仏教で用いる「無我の境地」の意味====
仏教で用いる「無我の境地」の意味は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91に御座います。しかし説明が難しすぎて自分には理解できません。ただその難しさに驚いています。何方か易しく解説して頂けたら幸いです。