後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本のサレジオ会宣教の先駆者、チマッティ神父のお墓詣りに行きました。

2017年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム
サレジオ修道会は19世紀にイタリアで創設されましたが、現在はイエズス会に次いで世界で2番目に大きな修道会です。
日本には1928年にチマッティ神父等が来て宣教活動を活発に始め、数多くの学校を作りました。
東京都の調布市にはサレジオ神学校を作り、1965年にそこで帰天しました。享年86歳でした。
日本人を愛し、サレジオ会の日本人が第二次大戦で徴兵され、戦死する度に深く嘆き悲しんだのです。
墓はサレジオ神学校の裏手の地下室にあり遺骸も石棺の中に安置されています。
今日は思い立ってチマッティ神父のお墓詣りに行きました。
撮ってきた写真をお送りします。

1番目の写真は地下にあるチマッティ神父のお墓へ下りて行く階段です。

2番目の写真はチマッティ神父の遺骸の入っている石棺です。お墓です。

3番目の写真はチマッティ神父の資料館です。

4番目の写真は戦死したサレジオ会の日本人です。

5番目の写真は同じ場所にあるカトリック調布教会です。

尚、ヴィンチェンツォ・チマッティ 神父(Vincenzo Cimatti、1879年7月15日-1965年10月6日)の略歴は以下にあります。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%84%E3%82%A9%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3

日本へ
1923年、ローマ教皇がサレジオ修道会に日本の宣教地の一部を担当するように願った。サレジオ会の最初の宣教団の派遣から50周年にあたる1925年、9名の会員(司祭6人、修道士3人)が日本行きを指名され、46歳にして団長を拝命した。
来日初期
1926年2月8日に門司港に到着。2月16日宮崎で日本語の勉強を開始。一年後1927年2月よりサレジオ会がパリ外国宣教会より宮崎、大分、中津の三つの教会を受け継ぐ中で宮崎教会の主任司祭に着任。1928年、宮崎教区の教区長となり田野、高鍋、都城、別府、延岡など、次々と新しい教会を設立した。
1930年、大分に「ドン・ボスコ社」を創立。同年、日本人司祭の育成を目的に中津で小神学校を設立し、1933年、宮崎へ移転させた(後の日向学院)。一方で東京への進出も果たし、三河島教会を引き受けた後、1935年、東京都練馬区で修練院、神学校、サレジオ会独自の教育事業「育英工芸学校」(後の育英工業高等専門学校、現在のサレジオ工業高等専門学校)を開校。「ドン・ボスコ社」の出版事業の本部もここに置いた。
また、1933年、見放された年寄りや孤児たちのために宮崎で「救護院」という事業も設立し、この事業を維持するため、また発展させるために、1937年、邦人の修道女会「宮崎カリタス修道女会」(現在のイエスのカリタス修道女会)の創立を同サレジオ会員のアントニオ・カヴォリ神父と共に実現した。
戦前、戦時中、戦後
戦前や戦時中、キリスト教が外国の宗教として厳しく監視される中で、度々コンサートを開くことで音楽を通して教会に対する好感を培うように努めた。コンサートは奄美大島から札幌、占領下の満州、北朝鮮や韓国など各地で開催され約2,000回におよんだ。演目には宗教的な曲も交えその内容を説明しながら教義を伝えていた。1940年、教会の外国人責任者に対して辞職命令が出され教区長を辞職。宮崎を去って東京に移った。旅行を制限され、一時三河島教会の主任司祭となり、1943年末以降、空爆中でも練馬のサレジオ神学校で過ごした。戦後、破壊された事業を復帰させ、サレジオ会の新しい事業設立と発展に尽力した。
最期
70歳で管区長を退任。2年間役職なしで神学院の図書係となり手書きで図書の目録の完成に努めた。1952年末、調布のサレジオ神学院院長に就任。1962年、83歳で退任した。1965年10月6日、86歳で死去。「日本の土になりたい」との遺言にしたがい遺体は府中カトリック墓地に土葬された後1967年10月4日、調布サレジオ神学院の新聖堂が完成に伴い、棺は府中カトリック墓地から地下聖堂に移された。

関東ローム層の崖と冬木立のシルエット

2017年12月24日 | 写真
時の流れは早いもので今日は12月24日の日曜日です。夜にはクリスマスイヴのミサがあります。私共は今夜のミサに行きす。
西洋のカトリックやプロテスタント諸派のクリスマスは12月の25日ですが、ロシア正教のクリスマスは年が明けた1月の7日です。
ロシア正教会は、ユリウス暦(ロシアでは旧暦と呼ばれている)でクリスマスを祝うのです。現代の欧米のグレゴリオ暦から約2週間遅れているため、ロシアのクリスマスは1月7日になります。
そしてロシアでは、クリスマスよりも新年を迎え、祝うことがより重大な行事なそうです。ツリーも、サンタクロース(ジェット・マロース)も新年を祝うためのものだそうです。
キリスト教と言っても国々によってクリスマスの日も違いますし、祝い方も違うのです。
冬至の一陽来復の祝いも新年の祝いも国々によって違いますが、人々の心と時の流れは同じなのではないかと思います、
そんなことを考えながら関東ローム層の崖と冬木立の写真を撮って来ました。
JR南武線の稲城駅の西にある崖です。崖には火山灰が降り注いだ赤土が層状になっています。十数万年前から何度も噴火した富士箱根火山の火山灰なのです。悠久の時の流れを感じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









関東ローム層とは?
関東ローム層とは関東地方に分布する火山灰起源の地層群の総称であり、火山活動に由来します。
群馬県新田郡笠懸村岩宿(現みどり市)の岩宿遺跡は旧石器時代の遺跡であり、石器は関東ローム層の中から発見されました。
南関東での関東ローム層は富士箱根火山に噴出灰が偏西風にのって堆積、風化、粘土化した赤土です。火山活動の時期の相違から、新しい順に立川ローム層、武蔵野ローム層、下末吉ローム層、多摩ローム層の4層に区分されています。
武蔵野によくある段丘は氷河性海面変動と地殻変動が重なることによって生じた地形であり、形成時代に応じたローム層に被われています。
関東ローム層は保水性が良いと同時に透水性も大きいという特徴を持っています。また、冬期に乾燥状態が続くと、地面の砂が強風に煽られて土ぼこりとなります。ロームが土ぼこりになりやすいのは、土粒子が細粒であり、細かくて軽いことが主な原因です。
(http://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/yougo/B_nendai/nendai_kantouloam.htm より抜粋)