後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

キリスト教の簡単な説明(6)洗者ヨハネとは何者なのか?

2017年12月10日 | 日記・エッセイ・コラム
今日のミサは待降節第二の主日のミサでした。
今日の聖書朗読ではイエスに洗礼を授けた洗者ヨハネのことが紹介してあります。
洗者ヨハネとはいったい何者なのでしょうか?
イエスより少し年上で荒れ野で粗食に耐え修行していたユダヤ教の修道者のような人でした。イエスも荒れ野で悪魔の誘惑と戦ったのですから、洗者ヨハネの教えを聞き、共鳴して彼から洗礼を受けたのでしょう。
ですから洗者ヨハネはキリスト教では重要な存在なのです。
しかし彼の考え方や教えの詳細は分かっていません。
今日の新訳聖書の朗読はマルコの福音書の第1章 の始めの部分で、以下のようなものでした。
1神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
2預言者イザヤの預言書にこう書いてある。
「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。
3荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」
そのとおりに、4洗者のヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めの洗礼を説いた。 5そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼から洗礼を受けていた。 6ヨハネは、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。 7彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。 8私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」
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以上の福音書の冒頭で旧約聖書の預言者イザヤの預言書にキリストが来ることが明確に書いてあります。このように旧約聖書と新約聖書は密接に関連しあっているのです。
このように洗者ヨハネはキリスト教では重要な存在なので、数多くの絵画に描かれて来ました。
下に3点ほどの作品の写真を示します。

1番目の写真は洗者ヨハネがキリストへ洗礼を授けているステンドグラス絵画です。出典は、
http://www.aritearu.com/Influence/Francis/Bible/Bible_Holy_Land66.html です。

2番目の写真は ラファエロが1507年に描いた「美しき女庭師(聖母子と幼児聖ヨハネ)」です。洗者ヨハネは右側の幼児で、左がイエスです。
http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/raphael_giardinier.html

3番目の写真は正教会における主の洗礼祭のイコンです。キリストに洗礼を施す洗礼者ヨハネ(左)が描かれています。出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%97%E7%A4%BC%E8%80%85%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D です。
キリスト教の教理には荒れ野で発見されたクムラン教団の古文書の内容と似ている点が多いと言います。
しかしユダヤ教を「神と人間の間の愛の宗教」に改革し、さらにユダヤ民族を越えた世界宗教にしたのはイエスだったのです。
そのイエスの宣教活動の初期に深い影響を与えたのが洗者ヨハネだったと、私は考えています。
どうぞ皆様のご意見をお送り下さい。有難う御座います。
===ご参考までに=============================
佛教は日本人が約1500年も馴染んで来た宗教です。一方、ザビエルが約470年前に伝えたキリスト教は未だに日本人に馴染んでいません。
明治維新以来、数多くの宣教師がやって来ましたが、信者の数は総人口の3%を超えたことがありません。
その理由の一つはその教えが日本人には理解しにくいからです。
そこで私は無謀にもキリスト教を簡単に分かるように以下のような記事を書いてきました。
キリスト教の簡単な説明(1)何故イエスは処刑されたか?(2017-11-05)
キリスト教の簡単な説明(2)水を葡萄酒に変えたイエス(2017-11-08)
キリスト教の簡単な説明(3)イエスは何故生き返って来たか?(2017-11-12)
キリスト教の簡単な説明(4)何故イエスは異教徒に話しかけたか?(2017ー11ー21)
キリスト教の簡単な説明(5)何故イエスは馬小屋で生まれたか? (2017ー12ー03)

諏訪湖ホテルは良質なサービスを提供する良いホテル

2017年12月10日 | 日記・エッセイ・コラム
高齢になり足腰が弱くなってきたので良いホテルや宿を予約して気楽に車で行く旅を楽しんでいます。
例えば今年は箱根仙石原、大町温泉、八ヶ岳大泉、木曽馬の里、仙台市、会津東山温泉、鳥羽、湯河原、甲府の旅館、そして今回の諏訪湖などに泊まりました。
泊まった宿に関する感想を記事にしたことはほとんどありませんでした。何処の宿もそれぞれ満足でした。日本のホテルや旅館は清潔で食べ物も美味しく問題ありませんでした。
しかし今回泊まった「かたくら諏訪湖ホテル」は特にサービスが良質な上、部屋からの諏訪湖の眺望が楽しめ、夕食の和食も板前さんの優しい心くばりが感じられて全てがバランス良く、実に良い宿でした。ホテルと旅館の長所を併せています。
そこで今日はこの諏訪湖ホテルのご紹介を撮って来た写真に従ってしたいと思います。

1番目の写真は諏訪湖ホテルの全景です。右端の三角屋根の建物はホテルとは関係の無いカトリック諏訪教会です。
まず感心したのは車を玄関前に着けた時の素早い動きのボーイさんの笑顔でした。荷物をフロントまで運んでくれ、チェックインン後も部屋まで案内してくれました。その挙動が過不足なく実にスマートなのです。若いのにプロの仕草と丁寧な言葉使いです。
これは良いホテルを予約したと嬉しくなりました。あとで名刺を貰ったら宮下和也さんというお名前です。

2番目の写真は案内された5階の部屋から見た諏訪湖の風景です。ホテルの前の道路の向こうは芝生の公園になっていて、その先が諏訪湖なのです。
諏訪湖岸で一番良い場所を占めています。流石に片倉財閥の経営するホテルです。ホテルの全室は諏訪湖の眺望が楽しめるように湖側に面しています。

3番目の写真は諏訪湖の夕焼けす。窓際に座って夕食前の日本酒を傾けながら空の色の移り変わりを楽しみました。その後でいささか贅沢な貸し切り風呂に入りました。楽天の会員になって楽天を通して予約するとこの家族風呂が無料になるのです。
その後の夕食は普通の和食のコースでしたが、一品、一品、使っている材料が吟味してあり、料理も美しく盛ってあります。運んでくれる男女の動きは素早くそして静かでした。
お酒は諏訪の地酒の横笛という名の日本酒の熱燗でした。

4番目の写真は朝食会場での女将の写真です。ホテルに着いた時も出迎えてくれましたが、夕・朝食会場にも立っていて、いろいろ気配りをしています。昨日のボ-イさんのサービスと夕食の板前さんの腕に感銘を受けたので少し話をしました。
おっとりした良い雰囲気もありましたので、片倉兼太郎創業者の血筋の方ですかと聞いてみました。優しく笑いながら血縁関係は一切ありませんと言います。
しかしこの女将の存在が重要なようです。朝食を運んでいる従業員がそれとなく女将を見ているのです。目と目で会話しているようです。

5番目の写真はメイン・ロビーの写真です。片倉財閥の経営なので家具調度も立派です。

6番目の写真はメイン・ロビーの前の内庭と二代目の片倉兼太郎氏の諏訪の別邸の写真です。この昭和初期に建てられた別邸は、よく手入れされていて一般の泊り客も泊まることが出来るそうです。

7番目の写真はこの諏訪湖ホテルの隣にある巨大な風呂のある片倉館の写真です。何十年も以前に家内とその千人風呂に入ったことがあります。
この片倉館は二代片倉兼太郎が地元の人たちも温泉を楽しみ、娯楽も出来るように1928年に作りました。今でも多くの人々に利用されています。

さて、このように書くと諏訪湖ホテルは素晴らしいホテルということになります。
しかし旅館やホテルの好みは人それぞれです。ですから諏訪湖ホテルは私共の好みには合致していますが、他の方々の好みに合うとは限りません。
あまり豪華すぎず、大き過ぎないこじんまりしたホテルと、さりげない良質のサービスと、板前さんの腕の良いホテルが好みの方はご満足頂けると思います。部屋からの諏訪湖の眺望も良いのです。
そして最後になりましたが一泊2食付きで1人10000円位でした。楽天の会員として予約すると2000円の貸し切り風呂が無料になります。脚の不自由な私にとって、大浴場は心もとないのでこのサービスは有難いのです。
蛇足ながら世界遺産、富岡製糸場は片倉財閥が維持、保存したおかげで世界遺産になったのです。以下の参考資料をご覧下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料====================
(1)世界遺産、富岡製糸場は片倉財閥が維持、保存したおかげで世界遺産になったのです。
富岡製糸場は1893 年に三井家に払い下げられ、その後、1902 年に原合名会社に譲渡、1939 年に片倉工業株式会社に合併されました。
第二次世界大戦後は全面的に自動繰糸機を導入し、生産効率を大きく向上させ、高品質な生糸を大量に生産。1987 年まで操業を続けました。
その後も片倉の「売らない、貸さない、壊さない」の3 原則のもと管理維持され、2005 年富岡市に建物等を寄贈、2014 年(平成26)には田島弥平旧宅、高山社跡、荒船風穴とともに「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産に登録されました。

(2)3代の片倉 兼太郎 が片倉財閥を大きくしました。
片倉 兼太郎 (1850年- 1917年)は、日本の実業家、資本家です。片倉組(現在の片倉工業)を設立、片倉財閥の基礎を築く。
兼太郎の名は3代目まで引き継がれましたが、この3代が片倉家の事業を拡大したのです。
この伝統が今回、泊まった「かたくら諏訪湖ホテル」に流れているのです。
初代の片倉 兼太郎は1850年、信濃国諏訪郡三沢村(現在の長野県岡谷市川岸)に生まれる。
片倉家は豪農であり、兼太郎は、1873年(明治6年)には10人繰りの座繰製糸を開始していたが、満26歳を迎える1876年(明治9年)、父市助(いちすけ)から家督を受け継ぐ。
1878年(明治11年)、天竜川沿いに32人繰り器械製糸所である垣外製糸所を開設、さらに同年、輸出業の深沢社を設立する。
二代目は 片倉 佐一(1862年 - 1934年)で、初代の末弟(四男)です。のちの養嗣子、片倉製糸紡績(現在の片倉工業)の創設、片倉館の開設、日東紡績社長、など務めました。
三代目 - 片倉 脩一(1884年 - 1947年)、佐一の嗣子(長男)です。八十二銀行頭取、全国製糸業組合連合会会長、美篶商会初代社長、貴族院議員などを務めました。