今日は社会のいろいろな分野で活躍したアイヌの人々をご紹介したいと思います。そして私のアイヌ人の友人の思い出を書きます。なお付録として知里幸恵さんの「アイヌ神謡集」の一節をご紹介致します。
さてアイヌ民族の豊かな文化を日本人へ伝え、アイヌ民族の名誉を守ったアイヌ人が4人いました。知里幸恵さん、弟の真志保さん、川村カネトさん、そして萱野茂さんです。
知里幸恵さんはアイヌの詩の「アイヌ神謡集」を伝え有名になりました。『アイヌ神謡集』は1920年、知里幸恵が17歳の時に金田一京助に勧められ、幼い頃から祖母モナシノウクや叔母の金成マツより聞き覚えてきた「カムイユカラ」をノートにアイヌ語で記したのが始まりです。
1921年金田一京助に送ると、柳田国男の郷土研究社から出版されたのです。末尾にこの「アイヌ神謡集」をご紹介してあります。
知里幸恵さんの弟の真志保さんは秀才で旧制一高、東大を卒業し、言語学者になり、後に北海道帝国大学教授になった人です。金田一京助さんの指導でアイヌ語を学問的に研究し、特に日本の多くの地名がアイヌ語に依ることを立証した研究も彼の業績です。
萱野茂さんは二風谷に民族博物館を作り、アイヌ民族文化の復権運動を広く、精力的に勧めたことで有名な人です。後に参議院議員に当選し、国会でアイヌ語で質問、論戦をし、日本にはアイヌ民族が現存していることを示しました。
この4人の中で川村カネトさんは少し変わった経歴です。北海道に陸蒸気(汽車)が走っているのを見て、鉄道建設の技師になった人です。鉄道敷設に先立って行う測量技師です。そして東海道線と中央線を結ぶ飯田線開設の為の困難な測量を完遂したのです。アイヌ人だけで編成した測量隊を北海道から引き連れて行って、天龍山峡の難所を突破して飯田線の線路の路線を決定したのです。国鉄の技術史に残る大きな功績です。その後、彼は出身地の旭川へ帰り、民族博物館を作りアイヌ文化を保存に努めました。
彼の業績に感動した日本人が少年、少女むけに物語を書きました。沢田猛著、こさか しげる絵、「カネトー炎のアイヌ魂」という本です。子供向けの本ですが私は興味深く読みました。感心してこの本の出版元へ電話をしてみました。浜名湖の弁天島にある地方の出版社で、「ひくまの出版」という会社です。この本は1983年2月が初版ですが版を重ねて、現在も売っています。一冊1570円だそうです。「ひくまの出版」のホームページから注文出来ます。この出版社は「ひくまのノンフィクションシリーズ(小学校中・高学年以上向)」という真面目な本を何冊も出版している会社です。良い本を出せば本屋さんはいつまでも存続出来るとことが分かりました。インターネットがいくら栄えても、本の重要性は変わらないと感心したので少し紹介しました。
さて話がそれましたが最後に私のアイヌの友人の思い出を書きたいと思います。
少年の頃、私にはアイヌ人の友人がいました。北海道に旅をするとこのアイヌの友人のことを思い出します。
終戦後に、北海道のアイヌ人たちはより良い生活環境を求めて東北地方の開拓地に移住して来たのです。
私は仙台市に生まれ育ちました。そこへもアイヌ人一家が移住して来たのです。私の近所の雑木林を切り開いて生活をしようとしていたのです。私はそのアイヌ人の一家の少年と仲良くなったのです。
仲良くなったのですが、ある時フッと消えてしまいました。二度と会えません。悲しみだけが残りました。86歳になった現在でも、その頃の事をよく思い出します。
終戦後の小学5、6年のころ、私は仙台市の郊外の向山という所に住んでいました。小学校の裏山にある開拓の一軒にアイヌ人家族が移住して来たのです。その一家には同じ年ごろの少年がいたのでよく遊びに行きました。トタン屋根に板壁、天井の無い粗末な家の奥は寝室。前半分には囲炉裏(いろり)があり、炊事や食事をしています。建坪が10坪くらいの小さな家でした。
父親は白い顔に黒い大きな目で豊かな黒髪に黒髭でした。母親も黒髪で肌の色はあくまでも白いのです。服装は日本人と同じでしたが、色が白く、目鼻立ちの彫りが深く、滅多に声をあげない静かな人々でした。
私が仲良くなった少年は学校に来ません。遊びに行くと、1人で家の整理や庭先の畑の仕事をしています。無愛想でしたが歓迎してくれているのが眼で分かります。夕方、何処かに、賃仕事に行っていた両親が帰って来ます。父親が息子と仲良くしている和人の私へほほ笑んでくれました。それ以来時々遊びに行くようになります。アイヌの一家はいつも温かく迎えてくれます。いつの間にか、アイヌの少年と一緒に裏山を走り回って遊ぶようになりました。
夏が過ぎて紅葉になり、落ち葉が風に舞う季節になった頃、開拓の彼の家へ行きました。無い。何も無いのです。忽然と家も物置も消えているのです。白けた広場があるだけです。囲炉裏のあった場所が黒くなっています。黒い燃え残りの雑木の薪が2,3本転がっています。
アイヌ一家にはなにか事情があったのでしょう。さよならも言わないで消えてしまったのです。これが、私がアイヌと直接交わった唯一回の出来事でありました。70年以上たった今でもあの一家の顔を鮮明に覚えています。
戦後に日本共産党が困窮しているアイヌ村落の人々を助けるために東北地方への移住を斡旋したというのです。しかしそれは無責任な移住斡旋でした。移住後の就職も斡旋しないで、移住後の生活の世話もしませんでした。
消えてしまった私の友人一家も住み慣れた北海道に帰ったのでしょう。
これが私のアイヌの友人の思い出です。
今日は日本の社会で活躍したアイヌ、知里幸恵、真志保、川村カネト、萱野茂をご紹介しました。そして私のアイヌの友人の思い出を書きました。
ここでアイヌ民族の生活の様子を示す4枚の写真を追加しておきます。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===付録、「アイヌ神謡集」より==================
知里幸恵著、『梟の神の自ら歌った謡』
「銀のしずく降る降るまわりに,金のしずく
降る降るまわりに.」という歌を私は歌いながら
流に沿って下り,人間の村の上を
通りながら下を眺めると
昔の貧乏人が今お金持になっていて,昔のお金持が
今の貧乏人になっている様です.
海辺に人間の子供たちがおもちゃの小弓に
おもちゃの小矢をもってあそんで居ります.
「銀のしずく降る降るまわりに
金のしずく降る降るまわりに.」という歌を
歌いながら子供等の上を
通りますと,(子供等は)私の下を走りながら
云うことには,
「美しい鳥! 神様の鳥!
さあ,矢を射てあの鳥
神様の鳥を射当てたものは,一ばんさきに取った者は
ほんとうの勇者,ほんとうの強者だぞ.」
云いながら,昔貧乏人で今お金持になってる者の
子供等は,金の小弓に金の小矢をつがえて私を射ますと,金の小矢を
私は下を通したり上を通したりしました.・・・以下省略。
この「アイヌ神謡集」の序文に19歳で夭折した知里幸恵さんは次のように書いています。
その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました.天真爛漫な稚児の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は,真に自然の寵児,なんという幸福な人だちであったでしょう.
冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って,天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り,夏の海には涼風泳ぐみどりの波,白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り,花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて,永久に囀る小鳥と共に歌い暮して蕗とり蓬ぎ摘み,紅葉の秋は野分に穂揃をわけて,宵まで鮭とる篝も消え,谷間に友呼ぶ鹿の音を外に,まどかな月に夢を結ぶ.嗚呼なんという楽しい生活でしょう.平和の境,それも今は昔,夢は破れて幾十年,この地は急速な変転をなし,山野は村に,村は町にと次第々々に開けてゆく.
太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて,野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方も亦いずこ.僅かに残る私たち同族は,進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり.しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて,不安に充ち不平に燃え,鈍りくらんで行手も見わかず,よその御慈悲にすがらねばならぬ,あさましい姿,おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名,なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう.
その昔,幸福な私たちの先祖は,自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変ろうなどとは,露ほども想像し得なかったのでありましょう.以下省略します。
詳しくは、http://www.aozora.gr.jp/cards/001529/files/44909_29558.html をご覧下さい。