後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「東京の裏庭、奥多摩の紅葉風景」

2022年11月30日 | 写真
奥多摩は東京の裏庭です。新宿駅から電車で立川駅乗り換えで1時間くらいで行けます。

私の家は立川に近いので、家族連れでしょっちゅう行ってました。思い出が沢山ある懐かしい観光地です。
そんな奥多摩の紅葉風景の写真えをお送り致します。

写真は「奥多摩の紅葉風景の写真」を検索して、インターネットに出ている多数の写真から選びました。

「冬の花(11)千葉県谷沢水仙郷の花の写真」

2022年11月30日 | 写真
千葉市の南東の 鋸南町の谷沢水仙郷は自然の景観をそのままに山道を囲む斜面に水仙が広がっています。 普通車10台 ぶんの駐車場があります。
地図は、https://maruchiba.jp/sys/data/index/page/id/8497 にあります。写真の出典も同じURLです。
冬の間、美しく咲いています。

「細川呉港著、『舞鶴に散る桜』の紹介、ある日系二世の美談」

2022年11月30日 | 日記・エッセイ・コラム
11月29日 に「無名の人々の感動的な生き方の歴史的記録」という記事を掲載しました。この記事でに細川呉港著、「舞鶴に散る桜」という本をご紹介しました。第二次世界大戦の戦中、戦後でも人間らしく生きてきた個人、個人の記録です。動乱のなかでも美しく生きた個人、個人の記録です。この本を読むと無名の個人の尊厳と強さに感動します。
細川呉港さんは沢山本を出版しましたが私は次の3つが代表作だと思います。
「舞鶴に散る桜」、「草原のラーゲリ」、「桜物語」です。
これら3つの本には戦争に振り回されながらも美しく生きようとする人間の心の動きがしみじみと描かれています。嗚呼、人間はこうも美しい心を持っているだと思わず涙を流します。

今日は「舞鶴に散る桜」という本をご紹介したいと思います。
さて『舞鶴に散る桜』は飛鳥新社が出版した 352ページの本です。詳しくは版元のHPにあります。(https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784864107877 )
この本の面白さは本筋よりも部分的に散りばめたエピソードが非常に興味深いのです。
例えば、ハワイの日系兵のフジオ高木が舞鶴に進駐した時の話です。舞鶴の港の見える公園に桜の木を植えたという話です。その桜はフジオ高木がハワイから来たのでアロハ桜と呼ばれました。桜の苗木は大阪の池田から取り寄せました。

1番目の写真は細川呉港著『舞鶴に散る桜』です。
この本は戦後の一人一人の日本人の心の動きの記録になっているのです。ここでフジオ高木に関する写真を示します。

2番目の写真は日本に進駐したころの若かりしフジオ高木です。

3番目の写真は行進する日系兵の第442連隊戦闘団の様子です。(1944年、フランス)

4番目の写真は日系兵の第442連隊戦闘団を閲兵するトルーマン大統領(1946年7月15日)です。トルーマン大統領はソフト帽をかぶりレインコートを着て中央を歩いています。

5番目の写真は日系兵の第442連隊の元兵士らの前で議会名誉黄金勲章を授与する法案に署名するオバマ大統領(2010年)です。

この本にはまた細川さんの故郷の呉市の戦後の状況を書いていkます。
彼は昭和9年生まれですから終戦の時は小学校でした。町には進駐軍のジープが走り、それを見ると子供達が群がりチューインガムやチョコレ-トを貰ったものです。貧しげなヤミ市がたち復員服を着た男たちが何か売ってます。進駐軍の相手をするパンパンやオンリーさん達が沢山いました。戦争に負けるとはそういうことなのです。
細川さんは彼女達へ温かい目を向けています。
ある戦争花嫁が渡米するため家を出る時、母親が言うのです。「今まで敵だったアメリカ人と一緒になるなら二度とこの家の敷居を跨ぐな!」と。花嫁は泣きながら横浜港を出港します。細川さんはそんな戦争花嫁の写真の展覧会で同情のあまり泣いてしまうのです。

以前の私は戦争花嫁をさげすんでいました。しかし1960年に留学したオハイオで何人かの戦争花嫁に会いました。ビールを飲みに行ったバーのカンターの向こうに戦争花嫁がいたのです。話を聞くと皆家庭の主婦でした。夫や子供の自慢をするのでです。私はさげすむのを止めました。

そしてしてこんなことも書いてありました。
1965年に細川さんは南米行の移民船にのります。そこで南米へ進駐軍の混血児たちを送って行く沢田美喜さんに会うのです。私は最近、「昭和時代を考える(6)進駐軍の混血児と沢田美喜の愛の美しさ」(2020年11月19日掲載記事)と言うものを書きました。
その中で、「沢田美喜は1962年にはブラジルのアマゾン川流域の開拓を始め、聖ステパノ農場を設立し、孤児院の卒園生を数多く移住させました。そして1980年にスペインのマヨルカ島にて沢田美喜は心臓発作のため急死しました。享年78歳でした。」と書きました。
1965年に細川さんが会った沢田美喜さんは聖ステパノ農場へ混血児を送って行く途中だったのです。
細川さんはその20年後に南米に渡った混血児の生涯を調べたのです。しかし消息はありません。おそらく聖ステパノ農場は閉鎖されたのでしょぅ。ステパノは戦死した沢田美喜さんの息子の洗礼名でした。

『舞鶴に散る桜』にはもっと沢山エピソードが書いてありますが長くなるので止めます。
細川さんは会う全ての不幸な人々に心を寄せ誠実に付き合うからです。細川さんは宗教を語りません。政治やイデオロギーも語りません。そんなものとは無縁の世界の人々の美しさを描いているのです。是非皆様へお薦めしたい本です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===補足、「聖ステパノ農場」のその後=====
ペガサスAさん からのご投稿です。2020年11月27日 11:53

沢田美喜さんの開設した農場ははベレンから軽飛行機で数十分飛んで当時トメアスから奥に入った海外移住事業団トメアス移住地にあり、私は当時トメアス移住地に勤務していた(Aug./1967~ Jul./1969)ので2回程事務所でお会いしました。移住したエリザベスサンダースホームの若者達は次々と独立して行きました。50年ほど前のことですから現在は閉所処分されていると思います。