ロシアは3度日本と軍事衝突して多数のロシア兵が戦死しました。客観的に考えれば、ロシアが日本に対して怨念を持つのは自然なことです。3度とは日露戦争とシベリア出兵とノモンハン事件のことです。大きな軍事衝突は3度ですが満洲の国境で小さな軍事衝突が幾度かありました。
ロシアと日本の軍事衝突は暗い話題です。書きたくない話題です。気が滅入ります。
しかし日本とロシアの将来の友好のためには過去の歴史を理解しておくことこそ重要だと信じています。
今日はノモンハン事件のことを簡略に書きたいと思います。
ノモンハン事件とは1939年5〜9月に満州国とモンゴル人民共和国(外蒙古)の国境のノモンハンで起こった日ソ両軍の国境紛争戦争です。 国境紛争事件とも言いますが凄惨な戦争です。
日本は関東軍1万5000名を動員したのですが、8月になるとソ連は空軍・機械化部隊を投入し本格的な戦争になったのです。
日本軍はロシア軍によって壊滅的打撃を受けたと信じられています。
しかしロシア軍は戦死 9,703で戦傷 は15,952でした。その上、戦車・装甲車が397輌破壊されソ連軍の航空機が 207機-360機が墜落されました。一方、日本軍は約8000人が戦死し、1000人が行方不明になりました。戦傷者は約8500人でした。
両方の戦死者数と戦傷者数は同じくらいでした。しかしロシアは戦車・装甲車を397輌破壊され、航空機が 207機-360機が墜落されたのです。この分だけロシアの損害が大きかったのです。
それなのに「日本が惨敗した」と現在でも信じられているのです。理由は簡単です。ロシヤ側が損害を秘密にし、日本側の損害だけを大々的に宣伝したからです。ロシアの宣伝の勝利です。
ノモンハン事件には実にいろいろなことがありました。
詳しいことは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6 をご覧下さい。
詳しいことは割愛してここでノモンハン事件の写真を見てみましょう。
1番目の写真はノモンハンの広大な平原を進軍する日本陸軍第23師団の兵士です。
2番目の写真は擱座したロシア軍のBA-10装甲車の横で九二式重機関銃を伏射する日本兵です。
3番目の写真は遺棄されたソ連軍のBA-10M装甲車です。
4番目の写真は東捜索隊攻撃に威力を発揮したソ連軍化学戦車(火炎放射器戦車)
5番目の写真は折畳鉄船で渡河中の日本兵です。
6番目の写真は砲兵観測のためノモンハンでも使用された日本軍気球連隊の気球です。
7番目の写真はノモンハン事件で猛威を振るったソ連軍ML-20 152mm榴弾砲です。
これらの写真を丁寧に見ると戦争の実態の凄惨さがよく理解出来ます。
そのことはさておいてノモンハン事件の影響を見てみましょう。
ノモンハン事件の結果、ロシアの日本に対する警戒心をより深めるとになったのです。
ノモンハン事件後、シベリア、ザバイカルのロシア軍は順次増強されたのです。
1941年7月1日時点でのソ連軍、極東戦線とザバイカル軍管区の兵力は、狙撃兵師団23個、騎兵師団1個、戦車師団5個、空挺旅団1個、航空旅団2個、航空連隊8個などと増強されたのです。
総兵力723,119名になりました。戦車4,638輌、砲14,062門、自動車60,091台も装備されたのです。
これらの大部隊は、ドイツ軍がソ連領内に突如侵攻し、全面戦争となってからも終戦まで動かされることはなかったのです。
実に満州の西のロシアに大兵力が張り付いていたのです。この大部隊が1945年夏の満州占領に使われたのです。
そういう意味でノモンハン事件こそその後の日本の悲劇の始まりになったのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)