今日は、昨日の連載記事、 「ロシアの怨念(4)の続きをお送りいたします。
ソ連軍戦車へ飛び込んで戦死した藤田藤一少尉と彼を慕うモンゴル人、ソヨルジャップの温かい絆の物語です。国境を越えた強い人間の絆です。
藤田藤一参事官は関東軍の少尉として一隊を率いてソ連の戦車隊へ突っ込んで戦死しました。その事実が公表されたのは藤田少尉の死後、25年が経過してからです。その公表は藤田の卒業した関西大学の昭和45年度の校友会誌だったのです。
藤田の家族は日本に帰国していて藤田の無事生還を信じつつ25年間辛酸をなめていたのです。その校友会誌を手にした妻や娘の気持ちは想像に余りあります。
さて1945年当時、ハイラルを取り囲む、5つの堅固な防衛陣地は、8月9日から119師団の主力が国境守備隊としてソ連軍を迎え撃ちました。しかし結局10日後の8月18日に主陣地が白旗を揚げたのです。
そんな状況で藤田藤一少尉の一隊はどうしていたでしょうか?
草原の中のアムグロンという町の役所の日本人職員が数台のトラックに民間人を乗せ逃げる途中で藤田少尉の一隊と会ったのです。以下は関西大学の同窓会誌の記事の抜粋です。
・・・突然に、草原の中でソ連の戦車隊と鉢合わせになりました。あわや一触即発。これでわれわれも全滅かと思ったとき、近くの塹壕から日本軍が数十人あらわれ、
「お前たちは、迂回して、ハイラルに行きなさい。戦車隊はわれわれが引き受けた」
と小隊長が大声で叫んだのです。その人が藤田少尉だったのです。
そのとき最後尾にいた人々は、藤田小隊が、それぞれ爆弾を抱えて戦車隊に突撃するのをはっきり見たそうです。何台かの戦車が炎に包まれたのです。 ・・・・
戦後25年たった昭和45年10月15日号の関西大学の校友会誌「関大」で崎谷が書いた「藤田藤一君を思う――満ソ国境ハイラルの激戦に散る」という記事の抜粋でした。
その記事は遺族の藤田藤一妻・藤田美代子に送られたのです。(以上、http://blog.goo.ne.jp/…/e/285895cc09bfdc06d7d3a23e4039b9ae より)
一方こんなことを全然知らなかったモンゴル人、ソヨルジャップはハイラル中を東奔西走して藤田の家族を探し回ったのです。ソヨルジャップは藤田の家族の安全を守り無事日本へ帰すと藤田に約束していたのです。しかし藤田の家族は杳として見つかりません。この約束を守ろうとしてソヨルジャップは一生苦しみます。一生、藤田の家族を探し続けたのです。
ソヨルジャップの一生は波乱万丈の厳しいものでした。しかし藤田との約束は絶対に忘れなかったのです。
その後、ソヨルジャップは遂に藤田の家族が日本に無事帰っていたことを確認したのです。
モンゴル人、ソヨルジャップは1925年に生まれ、満州のハルピン学院を卒業しました。
そして2011年、モンゴルのフフホトで亡くなりました。享年86歳でした。
ハルピン学院を卒業して満州のハイラルで日本の役所に勤め、戦後は共産国家、モンゴル官憲に逮捕され収容所に入れられました。ソ連に対するスパイ養成学校と見なされたハルピン学院を卒業したからです。その後、同じ共産国家の中国へ引き渡され、再び収容所に入れられたのです。中国の敵国の偽満州国で日本側の官吏になったのが罪状でした。収容所生活は36年間でした。その後、名誉回復され、モンゴルのフフホトに帰り、20年間、展望大学という日本語学校を続け、その間、何度も日本に来て、作家の細川呉港氏と親しくなっていたのです。その一生は細川氏の作品、「草原のラーゲリ」という本に詳しく書いてあります。
この本の荒筋はこの欄で、2015年02月14日に掲載した「満州国の官吏になったあるモンゴル人の悲劇」という記事でご紹介しました。
本の全文は、http://facta.co.jp/blog/archives/20070703000459.html に出ています。
藤田の家族を見失ったことはソヨルジャップの痛恨事として2006年までの61年間、彼の心の重荷になっていたのです。2006年になってはじめて藤田の家族が無事生き延びて日本へ帰って来たことを知ったのです。
藤田藤一の妻、そして長女の明巳さん、その妹2人、合計4人は1946年に無事帰国したことが判ったのは2006年の事でした。
ソヨルジャップが死の直前に一つの封筒を日本にいる藤田少尉の長女の明巳さんへ届けくれと頼んだのです。それから安らかな顔で息を引き取ったそうです。中にはモンゴルの草原での生活を切り詰めて貯めた5万円のお金が入っていました。
葬儀の4ケ月後、チベット密教で有名な中国青海省のタール寺の僧侶がソヨルジャップの散骨を行いました。散骨の場所はホロンバイル草原のモンゴル人の聖地、聖なる山、ボグド・オーラ(仏の山)のなだらかな南斜面の草原です。
親類や縁者が集まって天と地に祈ったあと、ソヨルジャップさんの白い骨をまき散らせたのです。日本から行った細川さんも砕かれた白い粉を両手ですくいあげます。白い粉は細川さんの指にまとわりつき離れようとしません。
小さな骨は緑の草の中に落ち、白粉は風に舞ったそうです。広い天空は何処までも蒼く、白い雲が遠くまで帯のように流れています。こうしてソヨルジャップさんの魂は希望通り故郷の草原に帰ったのです。
私はソヨルジャップと藤田一家との美しい絆の強さに感動します。国境を越えた人間の縁(えにし)の確かさに心打たれるのです。
今日の挿し絵代わりの写真はソヨルジャップのお葬式の行われたモンゴルの草原とお寺の風景です。写真の出典は、「モンゴルの風景写真」を検索して、インターネットに出ている多数の写真から選びました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
ソ連軍戦車へ飛び込んで戦死した藤田藤一少尉と彼を慕うモンゴル人、ソヨルジャップの温かい絆の物語です。国境を越えた強い人間の絆です。
藤田藤一参事官は関東軍の少尉として一隊を率いてソ連の戦車隊へ突っ込んで戦死しました。その事実が公表されたのは藤田少尉の死後、25年が経過してからです。その公表は藤田の卒業した関西大学の昭和45年度の校友会誌だったのです。
藤田の家族は日本に帰国していて藤田の無事生還を信じつつ25年間辛酸をなめていたのです。その校友会誌を手にした妻や娘の気持ちは想像に余りあります。
さて1945年当時、ハイラルを取り囲む、5つの堅固な防衛陣地は、8月9日から119師団の主力が国境守備隊としてソ連軍を迎え撃ちました。しかし結局10日後の8月18日に主陣地が白旗を揚げたのです。
そんな状況で藤田藤一少尉の一隊はどうしていたでしょうか?
草原の中のアムグロンという町の役所の日本人職員が数台のトラックに民間人を乗せ逃げる途中で藤田少尉の一隊と会ったのです。以下は関西大学の同窓会誌の記事の抜粋です。
・・・突然に、草原の中でソ連の戦車隊と鉢合わせになりました。あわや一触即発。これでわれわれも全滅かと思ったとき、近くの塹壕から日本軍が数十人あらわれ、
「お前たちは、迂回して、ハイラルに行きなさい。戦車隊はわれわれが引き受けた」
と小隊長が大声で叫んだのです。その人が藤田少尉だったのです。
そのとき最後尾にいた人々は、藤田小隊が、それぞれ爆弾を抱えて戦車隊に突撃するのをはっきり見たそうです。何台かの戦車が炎に包まれたのです。 ・・・・
戦後25年たった昭和45年10月15日号の関西大学の校友会誌「関大」で崎谷が書いた「藤田藤一君を思う――満ソ国境ハイラルの激戦に散る」という記事の抜粋でした。
その記事は遺族の藤田藤一妻・藤田美代子に送られたのです。(以上、http://blog.goo.ne.jp/…/e/285895cc09bfdc06d7d3a23e4039b9ae より)
一方こんなことを全然知らなかったモンゴル人、ソヨルジャップはハイラル中を東奔西走して藤田の家族を探し回ったのです。ソヨルジャップは藤田の家族の安全を守り無事日本へ帰すと藤田に約束していたのです。しかし藤田の家族は杳として見つかりません。この約束を守ろうとしてソヨルジャップは一生苦しみます。一生、藤田の家族を探し続けたのです。
ソヨルジャップの一生は波乱万丈の厳しいものでした。しかし藤田との約束は絶対に忘れなかったのです。
その後、ソヨルジャップは遂に藤田の家族が日本に無事帰っていたことを確認したのです。
モンゴル人、ソヨルジャップは1925年に生まれ、満州のハルピン学院を卒業しました。
そして2011年、モンゴルのフフホトで亡くなりました。享年86歳でした。
ハルピン学院を卒業して満州のハイラルで日本の役所に勤め、戦後は共産国家、モンゴル官憲に逮捕され収容所に入れられました。ソ連に対するスパイ養成学校と見なされたハルピン学院を卒業したからです。その後、同じ共産国家の中国へ引き渡され、再び収容所に入れられたのです。中国の敵国の偽満州国で日本側の官吏になったのが罪状でした。収容所生活は36年間でした。その後、名誉回復され、モンゴルのフフホトに帰り、20年間、展望大学という日本語学校を続け、その間、何度も日本に来て、作家の細川呉港氏と親しくなっていたのです。その一生は細川氏の作品、「草原のラーゲリ」という本に詳しく書いてあります。
この本の荒筋はこの欄で、2015年02月14日に掲載した「満州国の官吏になったあるモンゴル人の悲劇」という記事でご紹介しました。
本の全文は、http://facta.co.jp/blog/archives/20070703000459.html に出ています。
藤田の家族を見失ったことはソヨルジャップの痛恨事として2006年までの61年間、彼の心の重荷になっていたのです。2006年になってはじめて藤田の家族が無事生き延びて日本へ帰って来たことを知ったのです。
藤田藤一の妻、そして長女の明巳さん、その妹2人、合計4人は1946年に無事帰国したことが判ったのは2006年の事でした。
ソヨルジャップが死の直前に一つの封筒を日本にいる藤田少尉の長女の明巳さんへ届けくれと頼んだのです。それから安らかな顔で息を引き取ったそうです。中にはモンゴルの草原での生活を切り詰めて貯めた5万円のお金が入っていました。
葬儀の4ケ月後、チベット密教で有名な中国青海省のタール寺の僧侶がソヨルジャップの散骨を行いました。散骨の場所はホロンバイル草原のモンゴル人の聖地、聖なる山、ボグド・オーラ(仏の山)のなだらかな南斜面の草原です。
親類や縁者が集まって天と地に祈ったあと、ソヨルジャップさんの白い骨をまき散らせたのです。日本から行った細川さんも砕かれた白い粉を両手ですくいあげます。白い粉は細川さんの指にまとわりつき離れようとしません。
小さな骨は緑の草の中に落ち、白粉は風に舞ったそうです。広い天空は何処までも蒼く、白い雲が遠くまで帯のように流れています。こうしてソヨルジャップさんの魂は希望通り故郷の草原に帰ったのです。
私はソヨルジャップと藤田一家との美しい絆の強さに感動します。国境を越えた人間の縁(えにし)の確かさに心打たれるのです。
今日の挿し絵代わりの写真はソヨルジャップのお葬式の行われたモンゴルの草原とお寺の風景です。写真の出典は、「モンゴルの風景写真」を検索して、インターネットに出ている多数の写真から選びました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)