後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ウグイスが鳴く武蔵野公園まで散歩」

2024年04月19日 | 写真
久しぶりにウグイスの鳴声を聞きながら散歩をしました。以前は自宅の庭木によく来て鳴いていたものです。家々が立て込んでから来なくなりました。本物の春に遭ったような気分になりました。


「オハイオ州の州花は真紅のカーネーション」

2024年04月19日 | 写真
オハイオ州には通算、4年間住んでいました。懐かしい州なのでその州花の真紅のカーネーションの写真をお送りいたします。
他の色のカーネーションの写真も添えました。
写真は「カーネーションの花の写真」を検索して、インターネットの写真から綺麗な写真を選びました。



「私の人生の一番大きな出来事ははオハイオ留学だった!」

2024年04月19日 | 日記・エッセイ・コラム
老人ボケになると同じことを繰り返し書きます。今日も同じことを書きます。
我が人生の一番大きな出来事を考えてみますとやはりオハイオへの留学だったと思います。
若かった私は「青雲の志を抱いて郷関をいづる」の文字通うりアメリカのオハイオ州立大学へ留学したのです。まだ戦後の貧しさのあった1960年でした。
オハイオで迎えてくれたのがセント・ピエール教授でした。

1番目の写真の右がセント・ピエール教授です。
オハイオ州立大学での勉強は想像以上に厳しいものでした。それでも1962年の8月には、Doctor of Philosophy 、博士の学位記を手にすることが出来たのです。
「青雲の志を抱いて郷関を出づる」は高校の漢文の時間に習いました。
漢文の先生は情熱的にいろいろな漢詩を朗読しながら教えてくれたのです。
若い私はこの言葉を人生の道しるべにしました。そしてこの教えに従って私は仙台を飛び出してオハイオ州に留学しました。
オハイオ州立大学の写真を示します。

2番目の写真はオハイオ州立大学の正門前の看板です。

3番目の写真はオハイオ州立大学の全体の航空写真です。
中央にある芝生の広場とそれを囲む建物群の写真です。このような広い芝生の広場がもう一つありました。芝生の中に交差している通路は学生たちが芝生を踏まないように舗装した通路です。

4番目の写真は私達が使っていた3階建てのロードホールという建物です。
この写真では右のほうに玄関がありますが、その右の1階には、私が作った実験措置が置いてあった部屋があり、2階には講義室がありました。
この大学で学位を貰えた陰にはアメリカ人の強い支援があったからなのです。それは老境にいたった現在振り返っても、胸が熱くなるような励ましといろいろな助けでした。
指導教官のセント・ピエールと15人位いた博士課程の同級生が実に親切でした。
その級友のなかで特に親切だったのが、かなり年上のジョージ・オートンさんでした。彼はアメリカ空軍から大学へ派遣されてきた空軍大佐でした。
驚いたことに彼はB29爆撃機を操縦して、東京へ焼夷弾を落としに何度も来たのです。
私の帰国後もジョージとは長い間、家族同士の付き合いをしました我が家に泊まって家族一緒に熱海の旅館へ一泊したこともあります。
ジョージのことを思い出すと、1945年7月、少年であった私の目の前で一面火の海になった仙台の町々の光景を思い出します。
ジョージは2006年の末に亡くなりました。息子から連絡が来ました。花輪を送り、遠くから冥福を祈るだけです。
話は変わりますが私どもはオハイオで結婚しました。
結婚式は大学付属の質素な教会でして披露宴はコロンバスの中心街のディッシュラー・ヒルトンホテルでしました。1番目の写真は披露宴のレスプションの入り口の光景です。

5番目の写真は結婚の披露宴をしたディッシュラー・ヒルトンホテルです。
アメリカ人の先生方や同級生がみんな出席してくれました。式の前には友人の奥さん達が集まって、家内に結婚生活に必要な日用品をそれぞれ心を込めたカードを付けて贈ってウエディングシャワーをしてくれました。オハイオ州のコロンバスは我々の新婚生活の地なのです。
アメリカ人の親切さは留学した大学の人だけでなかったのです。見ず知らずの人も困っている私共を助けてくれたのです。
例えばオハイオ・キャバーンという鍾乳洞へ行った時のことです。

6番目の写真はオハイオ・キャバーンという鍾乳洞の入り口です。
エレベーターで降りると巨大な鍾乳洞がありました。
オハイオ・キャバーンへ生後6か月の長女を家内が抱いて行った帰り道で車が故障したのです。
周囲はぼうぼうたるトウモロコシ畑です。人っ子一人いません。すっかり途方にくれていたら一台の車が通りがかったのです。

7番目の写真はオハイオ・キャバーンという鍾乳洞へ行く道によく似た風景です。トウモロコシ畑の収穫後の風景です。
写真のような茫漠たる大地で途方にくれていたら一台の車が通りがかったのです。運転していた若い男が下りてきます。
私の車のボンネットを開け、これは重症だと言います。そしてロープで私の車をかなり遠方の町の修理屋まで引っ張って行ってくれたのです。
このようなことは数回経験しました。
こんな体験をすると何時までもアメリカ人への感謝の気持ちが残るのです。アメリカのことは全て好意的に見てしまうのです。私の考え方はアメリカの影響を無意識に受けているのです。

老境に到ると過去の悪いことは忘れます。良いことだけが記憶に残ります。これを一般には「老人ボケ」と言います。私も正真正銘の「老人ボケ」です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)