後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「我が町で有名人の小金井小次郎の墓と俠客の世界」

2024年04月22日 | 日記・エッセイ・コラム
先程、小金井小次郎の墓の写真を撮って来ました。小次郎は我が町、小金井市一人の有名人です。
まずお墓のある西念寺の写真です。

1番目の写真は小金井市 にある西念寺です。
小金井市には昔、小金井小次郎という侠客がいました。武蔵と相模にわたる縄張りに数千人の子分を擁していたのです。

2番目の写真は小金井次郎の記念碑です。西念寺にあります。

3番目の写真は小金井次郎の記念碑の角石に刻まれた組代々の総長の名前です。
小金井小次郎 (1818~1881年)は幕末・明治の俠客でした。武蔵小金井の名主、関勘右衛門の次男でした。明治に刊行された戯作「落花清風慶応水滸伝」で有名になった俠客です。
小次郎は、博打で三宅島流しになり、明治のご赦免で帰還します。しかし三宅島の貧乏な人々に同情し、有志を集め再度三宅島に渡り井戸を掘ったり農業や牧畜の振興に貢献しました。64歳で畳の上で死んだ俠客でした。
この侠客の本名は関小次郎と言いその曾孫の関綾二郎氏が小金井市の初代市長なのです。
そんな経緯もあって小金井市と三宅村は姉妹関係になっています。
そんな訳で三宅島の写真もついでに示します。

4番目の写真は三宅島の溶岩原の風景です。
出典は、https://www.cyclesports.jp/depot/detail/100841

5番目の写真は海上から見た火山島の三宅島の全景です。
出典は、https://tabippo.net/miyakejima/ です。
写真を撮りながら吃驚しました。3番目の写真のように小金井小次郎一家が代々現在まで続いていることに驚いたのです。それどころかこの侠客の関小次郎の曾孫の関綾二郎氏が小金井市の初代市長になったのです。小金井小次郎は現在の小金井市にとっても重要な人なのです。
小金井小次郎はとっくに亡くなった伝説の人で、それっきりと思っていました。
ところが驚くなかれ子分たちが小金井一家を守り代々その総長を決め博徒活動をしていたのです。
調べました。以下は小金井一家の系譜です。
小金井一家(稲川会)
十二代目小金井一家は、神奈川県横浜市都筑区東方町113-1に本部を置く暴力団で、稲川会の二次団体です。
小金井一家系譜
初 代 - 小金井小次郎
二代目 - 市村和十郎
三代目 - 西村林右衛門
四代目 - 金子萬吉
五代目 - 渡辺国人
六代目 - 石井初太郎
七代目 - 納谷富蔵
八代目 - 堀尾昌志
九代目 - 岡澤和佳志
十代目 - 鈴木隆一
十一代目 - 瀬戸正昭
十二代目 - 池田龍治

さて日本の警察は組織暴力団を消滅させようと必死の努力をしています。しかし一向に消滅しないのです。
何故でしょう?
その理由の一つは侠客の文化が日本民族の心の底に無意識ながら住み着いているからです。
赤城の国定忠治、清水次郎長、甲斐駒勝蔵、新門辰五郎などなどは小説や芝居になり日本文化の一部になっています。侠客はその地方では英雄なのです。
日本民族の文化のなかに俠客の世界が根づいているのです。これも文化の奥行きなのでしょう。
最後に皆木繁宏著、小金井新聞社発行の「小金井小次郎伝」という本をご紹介します。非常に詳細な伝記です。
ネットで検索すると中古本として容易に購入出来ます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料========================
日本の侠客の一覧表;
https://ja.wikipedia.org/wiki/侠客
幡随院長兵衛
新場小安
黒駒勝蔵
国定忠治
大前田英五郎
笹川繁蔵
新門辰五郎
飯岡助五郎
会津小鉄
清水次郎長
吉田磯吉
佐原喜三郎
相模屋政五郎
田代栄助


「ドイツ留学で受けた影響」

2024年04月22日 | 日記・エッセイ・コラム
老境に至って自分の人生を振り返ると、外国への留学で深い影響を受けたことをつくずく思います。
以前に「若い時のアメリカ留学で私の受けた影響」という記事を書きました。
留学のおかげで私はアメリカが大好きになりました。
アメリカ留学は24歳から26歳まででしたが、34歳のときドイツに留学し、今度はドイツにも魅了されました。
外国に住むと、その国が好きになってしまうのです。
今日はドイツでどのような影響を受けたか二つほど書いてみます。
まず初めに私が3ケ月住んでドイツ語を集中的に勉強したローテンブルグの風景写真と隣町のバンベルグのをご紹介しましょう。

1番目の写真はローテンブルグの夜の風景です。
写真の出典は、
https://beautiful-photo.net/medieval-town-of-rothenburg-ob-… です。

2番目の写真はローテンブルグのルクト広場と市庁舎です。出典は、https://washimo-web.jp/Trip/Rothenburg/rothenburg.htmです。

3番目の写真は「市庁舎の塔」から眺めたローテンブルク市内の家並みです。出典は、https://washimo-web.jp/Trip/Rothenburg/rothenburg.htmです。

4番目の写真は世界遺産に登録されている「バイエルンの真珠」と称えられるバンベルクの風景です。
出典は、https://tabizine.jp/2017/09/25/146378/2/です。

5番目の写真は木造家屋が並ぶ、レグニッツ川沿いの風景です。出典は、https://tabizine.jp/2017/09/25/146378/2/です。
ドイツでの生活は1969年夏のにローテンブルグでの3ケ月間のドイツ語研修から始まりました。そしてその後、シュツットガルト市にあるマックス・プランク金属研究所で1年間の研究生活をしました。シュツットガルト市に移るとすぐに家内と子供2人を呼びました。
ドイツは気候も社会も若い頃留学したアメリカのオハイオ州とは全く違うのです。
同じ欧米人なのにアメリカとドイツでは人々の考え方が驚くほど違うのです。
「ヨーロッパの階級社会や伝統社会から逃れた人々がアメリカに行って国家を作った」という一行の文章の意味がしみじみ理解出来るのです。
それはさておき、まずはじめに受けた大きな影響を書きます。
それはドイツの暗くて寒い冬の影響でした。その長い冬を体験した結果、ドイツの文化を理解するためにはこの冬の厳しさを考慮に入れて考えるべきと思ったのです。
これは重要なことで、その後、私がいろいろな外国の文化や社会を考える時、必ずその国の天候や自然条件を考慮に入れるようになったのです。
例えば北欧の観光写真を見ると、ほとんど全てが夏の晴天の日に撮ったものです。そんな輝く晴天の日は年間でほんの数日しか無いのです。北欧の人がそんな夏の日に感じる歓喜が想像出来ようになったのです。
内陸のヨーロッパの人々が明るい地中海沿岸のイタリヤや南フランスに強く憧れるのは暗くで長い冬のせいなのです。
私が外国を理解するとき天候や自然の条件を考慮に入れるように変わったのです。
もう一つドイツで受けた大きな影響は歴史に関する考え方です。
不思議なことにドイツの研究所の実験室に必ず冷蔵庫があってビールが沢山入っています。実験に疲れたとき1、2本水がわりに飲むのです。そんな折りの雑談の話題は決まったように中世の「30年戦争」のことなのです。
確かなことは忘れましたが1600年代にドイツの町や農村を徹底的荒廃させ人口の何割かが殺された内戦のことです。
戦争の発端はカトリックとプロテスタン宗派との争いでしたが、すぐに領土をかけた地方の領主同士の欲得にからんだ戦争が30年間も続いたのです。そしてフランスやスエーデンやウイーンのハプスブルグ家の軍隊を巻き込んだ大戦争になってしまったのです。誰が敵で、誰が味方か分からない混戦になってしまったのです。丁度、現在の中近東の戦乱状態に似ているのです。
私は日本の学校で「30年戦争」がそんなにドイツにとって重要だとは習いませんでした。ですから「30年戦争」など記憶になかったのです。
ところがドイツ人はビールを飲むたびにこれを話題にして喧々諤々の議論をするのです。
そこで判ったのです。人々が習う歴史とは国々によってまったく違うという事実です。
この世に絶対的に正しい歴史などは存在しないのです。
「歴史は権力者に都合良く書かれている」ということは昔から知っていました。
しかし歴史とは国々によってまったく違うという事実を体験的に理解できたのです。
それでは「30年戦争」の時代は誰が権力者だったのでしょうか?それが判らないからビールを飲んだ時の格好の話題になったのでしょう。
ビールと言えば面白いエピソードがあります。
「30年戦争」の時、ローテンブルグを包囲した敵将が市長に難題を言います。この大ジョッキのビールを一気に飲み干したら町は焼き尽くさないと言ったのです。市長は喜んで飲み干し、町を救ったのです。現在も市庁舎の上にビールを飲む市長の動く人形があります。
アメリカでビールを飲んだ時の話題はプロ野球やアメリカン・フットボールに関することが多いのです。あるいは趣味の話が多いのです。歴史が話題になったことを私は知りません。これもドイツ人とアメリカ人の違いの一つですね。
ドイツ留学で受けた影響はもっといろいろありますが、今日はこれぐらいにします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「日本の破滅へ導いた日独伊三国同盟」

2024年04月22日 | 日記・エッセイ・コラム
日本は1945年8月15日に米英連合軍に無条件降伏をしました。日本は全土が米英連合軍に占領されます。日本の歴史開闢以来の出来事です。
この破滅を招いたものの一つは日独伊三国同盟でした。
今日は日本の破滅へ導いた日独伊三国同盟が結ばれた 歴史を簡略に書いてみたいと思います。
日独伊三国同盟は、1940年(昭和15年)9月27日にベルリンの総統官邸で調印された日本、ドイツ、イタリアの軍事同盟です。
 日独伊三国間条約の始まりは1936年(昭和11年)の日独防共協定でした。
続いて1937年(昭和12年)には日独伊防共協定が出来ました。三国の協力関係が具体的に明記され、アジアにおける日本の指導的地位及びヨーロッパにおける独伊の指導的地位の相互確認をしたのです。これで調印国いずれか1か国が他国から攻撃を受けた場合に相互に援助するとの取り決めがなされたのです。
 このため、日本はイギリスやオランダとの関係が悪化し、アメリカ合衆国の対日感情も悪化することになったのです。
このように 日独伊三国同盟は日本にとって危険な同盟になったのです。
何故こうなったのでしょうか?
その原因は独ソ戦でドイツが圧倒的に強く、モスクワ近郊まで占領したからです。日本は勝ち馬に乗ったのです。
独ソ戦は、第二次世界大戦中の1941年から1945年にかけて、ナチス・ドイツを中心とする枢軸国とソビエト連邦との間で戦われた戦争です。
 1941年6月22日に突如戦争状態となった。
戦独ソ戦の犠牲者(戦死、戦病死)は、ソ連兵が1,470万人、ドイツ兵が390万人でした。
民間人の死者を入れるとソ連は2,000 - 3,000万人が死亡し、ドイツは約600 - 1,000万人でした。
ソ連の軍人・民間人の死傷者の総計は第二次世界大戦における全ての交戦国の中で最も多いばかりか、人類史上全ての戦争・紛争の中で最大の死者数を計上した のです。
この間、 日独伊三国同盟の推進者はドイツ駐在大使の大島 浩 でした。、大島はドイツとソ連とで戦争が起きることを察知し、ベルリンに来ていた松岡洋右に対して、日ソ不可侵条約締結を行なわないよう進言します。しかし結果的に松岡は大島のアドバイスを無視して、日ソ中立条約を締結したのです。 大島はドイツのナチスの政策に心酔して、ドイツ駐在中は「姿勢から立ち居振る舞いに至るまでドイツ人以上にドイツ人的」との評価を受けていたのです。彼も日本の運命を悲劇的にした一人でした。

添付の写真は松岡洋右と会うヒットラーとその他は独ソ戦の様子です。

今日は日本の破滅へ導いた日独伊三国同盟のことを書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)