後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「日本にいた少数民族、アイヌ民族の文化と私のアイヌの友人への追憶」

2024年04月30日 | 日記・エッセイ・コラム
北海道に旅をすると、あちこちにあるアイヌ民族の博物館を見ます。
昔アイヌ村落のあった日高の平取や白老、そして旭川の郊外などには民族博物館があります。アイヌ村落を復元した展示もあります。北海道大学の付属植物園の中にある博物館にはアイヌ民族関連の数多くの展示物もあります。函館市にもアイヌ文化を展示した博物館もあります。
博物館の展示だけではありません。第二次大戦の終戦までは、北海道にはアイヌ人達だけの村落があちこちにあったのです。しかし戦後、アイヌ人だけの村落は次第に消えて行ったのです。
アイヌ人は土地を奪われ、狩猟を禁止され、川を遡るサケを捕ることさえも、禁止されたのです。ここで北海道のアイヌ民族の写真を示します。
(1)北海道に以前住んでいたアイヌ民族の写真
写真は順に、アイヌ人の家、丸木舟、家の中、正装した男達、踊っている女達、2枚の集合写真です。
写真で正装したアイヌ人達だけですが、普段は日本人と同じ着物を着ていました。


写真にあるようなアイヌ独特の着物は鎌倉時代以降にアイヌ文化が成立していくうちに出来たアイヌの正装です。この服装はアイヌ部落が消滅して行く終戦後まで北海道で見られたのです。
しかし1945年の終戦になると、北海道のアイヌ人たちはより良い生活環境を求めて東北地方の開拓地などに移住して来たのです。その結果、私は一人のアイヌ人と友人になったのです。以下でその話を致します。
(2)私のアイヌ人の友人の追憶
私は仙台市に生まれ育ちました。その仙台へもアイヌ人一家が移住して来たのです。私の家の近所の雑木林を切り開いて生活をしようとしていたのです。私はそのアイヌ人の一家の少年と仲良くなります。
仲良くなったのですが、ある時フッと消えてしまいました。二度と会えません。87歳になった現在でも、その頃の事をよく思い出します。
終戦後の小学5、6年のころ、私は仙台市の郊外の向山という所に住んでいました。小学校の裏山にある開拓部落の一軒にアイヌ人家族が移住して来たのです。その一家には同じ年ごろの少年がいたのでよく遊びに行きました。トタン屋根に板壁、天井の無い粗末な家の奥は寝室。前半分には囲炉裏があり、炊事や食事をしています。建坪が10坪くらいの小さな家でした。
父親は白い顔に黒い大きな目で豊かな黒髪に黒髭でした。母親も黒髪で肌の色はあくまでも白いのです。
私の付き合っていたアイヌ一家の夫は最後の写真の右端の男のような風貌でした。私の友人は真ん中の少年たちのように見えました。
一家の人々の服装は日本人と同じでしたが、色が白く、目鼻立ちの彫りが深く、滅多に声をあげない静かな人々でした。
私が仲良くなった少年は学校に来ません。遊びに行くと、1人で家の整理や庭先の畑の仕事をしています。無愛想でしたが歓迎してくれているのが眼で分かります。夕方、何処かに、賃仕事に行っていた両親が帰って来ます。父親が息子と仲良くしている和人の私へほほ笑んでくれました。それ以来時々遊びに行くようになります。アイヌの一家はいつも温かく迎えてくれます。いつの間にか、アイヌの少年と一緒に裏山を走り回って遊ぶようになりました。
夏が過ぎて紅葉になり、落ち葉が風に舞う季節になった頃、開拓部落の彼の家へ行きました。無い。何も無いのです。忽然と家も物置も消えているのです。白けた広場があるだけです。囲炉裏のあった場所が黒くなっています。黒い燃え残りの雑木の薪が2,3本転がっています。
アイヌ一家にはなにか事情があったのでしょう。さよならも言ないで消えてしまったのです。これが、私がアイヌと直接交わった唯一回の出来事でありました。70年以上たった今でもあの一家の顔を鮮明に覚えています。
消えてしまった私の友人一家も住み慣れた北海道に帰ったのでしょう。

今日は今は消滅したアイヌ民族の写真を示しました。そして私のアイヌの友人への追憶を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「生涯続けた面白い趣味の話と台湾の少数民族」

2024年04月30日 | 日記・エッセイ・コラム
生涯、面白くてやめられない趣味があります。趣味にはいろいろありますが、私が続けてる趣味は少数民族の暮らし方を調べる趣味です。
例えばアイヌや琉球人の歴史や暮らし方を調べます。中国の少数民族のことを調べます。
そして日本人の歴史や現在の暮らし方と比較します。
以前はアイヌや琉球人や他の少数民族に関する本を手当たり次第買って読んでいましたが、最近はインターネットを駆使して調べています。便利な世の中になったものです。
この興味が尽きない趣味は若い頃読んだルース・ベネデクト著の「菊と刀――日本文化の型」によって始まったのです。火が付けられたのです。
この趣味は一般にはつまらない趣味と思われるかも知れません。しかし私にとっては一生、興味が尽きない趣味なのです。私に元気と勇気も与えてくれる趣味なのです。
今日は少数民族の暮らし方を調べる趣味とはどういうことなのか分かり易く説明しようと思います。
さてルース・ベネディクト(Ruth Benedict)は1887年にニューヨークで生まれ、1948年に61歳で亡くなりました。
日本文化を説明した『菊と刀ー日本文化の型』の著者として戦後の日本で大変有名なった人です。
私はこの本を読んで衝撃的な感動を受けました。この一冊の本が私の趣味の出発点になったのです。
なお『菊と刀ー日本文化の型』 の概略は末尾の参考資料に紹介してあります。
世界の少数民族の一つの例として以下に台湾の少数民族をご紹介したいと思います。
台湾には16民族、49万人の原住民がいて専用のテレビ局もあり保護されているのです。
台湾の中華民国の政府もこれらの少数民族を丁寧に保護した結果、その総数は増加しています。1929年に14万人余りでしたが現在は49万人まで増加しています。
台湾は1600年代オランダの植民地になると対岸の福建省から多数の漢人の移住が起きましたが、それ以前は原住民だけが住んでいたのです。なお原住民は差別用語として日本のマスコミでは先住民と呼んでいます。しかし台湾では原住民と呼んでいるので、それに従いました。他意が無いことをご理解下さい。
それでは早速、現在の台湾の原住民の写真をご覧ください。
1番目の写真はある原住民族の写真で、その出典は、「台湾の少数民族の写真」からです。
台湾の原住民族の写真に写っている人々は心から楽しそうにしています。屈託の無い表情をしています。
2番目の写真はアミ族の陳海琳さん(21歳)の写真です。写真の出典は、http://hosyusokuhou.jp/archives/45019854.html です。
台湾を代表する美女を選出する「第8回ミス台湾」決勝大会が2015年に高雄市内で行われ、台湾原住民のアミ族の陳海琳さん(21歳)がグランプリに選ばれたのです。 そしてミス世界コンテストへ中華民国代表として参加したのです。
以下は台湾政府認定の16の少数民族と人口です。

セデック族統計無し。
アミ族(阿美族、アミス族とも、大部分は自称を流用して「パンツァハ族」とも呼ばれる) 175,157人
パイワン族(排湾族) 84,446人
タイヤル族(泰雅族、アタヤル族とも) 82,273人
タロコ族(太魯閣族、トゥルク族とも、アタヤル族に含められることもあったセデック族の一支) 24,001人
ブヌン族(布農族) 49,529人
プユマ族(卑南族) 11,100人
ルカイ族(魯凱族) 11,509人
ツォウ族(鄒族) 6,517人
サイシャット族(賽夏族) 5,623人
タオ族(達悟族、雅美族〈ヤミ族〉とも) 3,448人
クバラン族(噶瑪蘭族)(カヴァラン族) 1,124人
サオ族(邵族) 637人
サキザヤ族(撒奇莱雅族) 5,000 - 10,000人
セデック族(賽徳克族) 6,000 - 7,000人?
カナカナブ族(卡那卡那富族) 500 - 600人?
サアロア族(拉阿魯哇族) 400人?
その他 265人
申告なし 32,859人
そして地図に各民族の主な居住地を示しています。
3番目の写真は各民族の主な居住地です。この図面の出典は、「台湾原住民」です。

さて台湾も日本も中国の東の大海に浮かぶ大きな島です。日本では大和朝廷が遣隋使や遣唐使を送り中国の政治や文化を導入しました。漢字も導入しました。
しかし台湾は17世紀まで文字の無い文化圏だったのです。この比較を考えるといろいろな感慨を覚えます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==========================
「ルース・ベネディクトの『菊と刀――日本文化の型』 の内容の概略」
(http://digitalword.seesaa.net/article/33551448.html より抜粋、転載)

題名の『菊と刀』の「菊」とは「美を愛好し、俳優や芸術家を尊敬し、菊作りに秘術を尽くす」ということであり、「刀」とは「刀を崇拝し武士に最高の栄誉を帰する」ということである。「菊の優美」と「刀の殺伐」のシニカルな二項対立を浮き彫りにしている。ルース・ベネディクトは『日本人の矛盾した二面性』を象徴的に表現するために菊と刀というシンボルを選択したわけだが、『日本人は類例のないほど礼儀正しいが、同時に、この上なく不遜で尊大である』という風に日本人の二面性を文章化している。日本文化に歴史的に根付いているこの二面性・矛盾性の特徴は、東洋的な中庸の徳を実現しようとする複雑な人生のあり方をティピカルに示唆したものでもある。日本人は両極的な価値観を呈示しながら、その均衡点あるいは逸脱点(死)に独自の透徹した美学を見出したのである。
・・・・・キリスト教文明圏に生きる西欧人の行動規律が『罪の文化』にあるとすれば、儒教文明圏に生きる日本人の行動規律は『恥の文化』にある。西欧人は神と一対一で向かい合って『内面的な罪悪感(罪を恐れる去勢不安)』によって自律的(自発的)に善悪を判断するが、日本人は社会(世間)の人々の視線を感じ取り『外面的な世間体(恥を恐れるプライド)』によって他律的(強制的)に善悪を判断する。日本人にとって最も重要なのは、自分がその行為を悪いと思うか否かではなく、社会生活を営む周囲の他者が『自分のことをどう評価しているか?自分のことを軽蔑したり批判していないか?』である。 ・・・以下省略。
ついでに中国の少数民族の一つ、の写真を示します。

4番目の写真は中国にいる多数の少数民族の一例です。写真の出典は、https://www.afpbb.com/articles/-/3318342?pno=2&pid=22864460 です。