後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「新選組の成立のいきさつと明治維新後の日野宿の発展」

2024年04月03日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は、「甲州街道の日野宿の本陣と新選組のことなど」 という記事を書きました。その続きとして新選組の成立のいきさつと明治維新後の日野宿について書きたいと思います。
(1)新選組の成立のいきさつ
新選組は、江戸時代末期に江戸幕府の徴募により組織された浪士隊です。尊攘派志士の弾圧活動に従事しました。会津藩預かりという非正規組織でした.。
しかし新選組は後に幕臣に取り立てられます。
そして慶応4年(1868年)に旧幕府から甲州鎮撫を命ぜられたことにより、甲陽鎮撫隊と改めます。
しかし明治2年5月18日、戊辰戦争においての旧幕府軍降伏により、事実上消滅したのです。 
まず新選組が作られた様子を示す八坂神社の奉納額をご紹介します。
面倒な話は止めて早速写真で説明を致します。
1番目の写真は日野市の八坂神社の写真です。
本殿は、寛政一二年(1800年)に完成したもので、江戸後期の典型的な社殿建築です。
この本殿には、安政五年(1858年)に天然理心流近藤周助の門人達により奉納された額があり、欅板に大小二本の木刀が架けられています。ちなみに近藤周作は新選組の局長の近藤勇の養父であります。
2番目の写真は八坂神社に現存している天然理心流の奉納額です。
天然理心流近藤周助の門人25名の名前が明記してあります。近藤勇や沖田総司の名はありますが土方歳三はこの以後に道場に来たので名前がありません。
新選組の近藤勇も土方歳三も維新戦争で戦死した後で明治維新が始まったのです。
(2)明治維新後の日野宿の発展
明治維新がおきると日野宿の若いリーダー達は日野に近代的な事業を起こし古い宿場町の近代化に励んだのです。若いリーダー達の一例として佐藤彦吉の話をご紹介いたします。彦吉は土方歳三の甥になります。佐藤彦吉はのちに有山家に婿入りして有山彦吉となりました。
3番目の写真は明治期の日野の発展の様子も記載されている「八王子・日野の100年」という郷土の歴史を書いた本の写真です。
野口正久,と 谷春雄 が執筆し、郷土出版社から1996 年に出版されました。価格は11000円 でした。
4番目の写真はこの本の26ページと27ページに掲載されている写真を示しています。
右下に土方歳三の写真があり左上には近藤勇が腕組みをして坐っています。その下に立って写っている2人の男は明治20年に渡米した山口清之助(左)と佐藤彦吉(右)です。ニューヨークで撮影した写真です。

日野宿の佐藤彦吉が生まれたのは幕末の1861年でした。土方歳三の姉が嫁いだ佐藤彦五郎(俊正)の4男でしたが、のちに有山家へ婿に入り有山彦吉になりました。
佐藤彦吉は若い時から自由党に入り自由民権運動をしていましたが、やがて実業家を目指し、渡米して貿易業を始めようとしました。
帰国後は金融業へ転身し日野銀行を興し、その頭取になります。そして銀行家として成功しながら多摩川の砂利採取の権利を得、それが大きな利潤を生んだのです。
当時は甲武鉄道の敷設や建築土台として砂利の需要が爆発的にあったのです。有山彦吉所有の砂利採取会社の荷車や馬車が砂利を満載して長い列になって甲州街道を行来したそうです。
そして彦吉は日野村有数の資産家になり山林や農地を広く所有しました。
後に県会議員になるのです。当時、日野村は神奈川県だったので神奈川県の県会議員です。しかし彦吉は実業家でした。政治家としてはあまり成功しなかったようです。
明治時代の実業家と言えば岩崎弥太郎や渋沢栄一など、全国的に活躍した人だけを学校の歴史で習います。しかし全国の地方、地方にには彦吉のような故郷の興隆のために情熱を燃やした人々が沢山居たのです。
文明開花で燃えていたのは東京だけではなかったのです。それが明治時代の地方の雰囲気でした。
日清戦争に勝ち、日露戦争に勝った明治時代に彦吉は活躍し、第二次大戦のころは引退していたそうです
それは日本の激動の明治、大正、昭和を活躍した地方実業家の一生でした。
5番目の写真はこの彦吉の創業した日野銀行の現存している社屋の写真です。
6番目の写真は現在の有山本家の写真です。現存している日野銀行と同じ敷地にあります。
尚、有山彦吉の息子は亮、登、恒と3人いましたが、それぞれ日野町長、順天堂大学学長、東北大学農学部長を務めました。歳三の係累にもいろいろな人がいたのです。私の妻は東北大学農学部長をした有山恒の娘です。
今日はあまり長くなるので止めますが最後に自由民権運動の資料を展示してある場所をご紹介します。
7番目の写真は町田市立自由民権資料館です。
詳しくは2011年05月21日掲載の「日本に珍しい民主主義運動の資料博物館・・・町田市立自由民権資料館」という記事をご覧下さい。

今日は新選組の成立のいきさつと明治維新後の日野宿の発展について書きました。今日の写真は全て家内が撮った写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「甲州街道の日野宿の本陣と新選組のことなど」

2024年04月03日 | 日記・エッセイ・コラム
60年くらい以前の昔ですが私は甲州街道の日野宿の妻の実家に短期間だけ住んでいました。古い大きな家でした。先祖は代々地主をしていました。
日野宿の本陣の向いにある家でした。妻の実家は日野宿の新選組の土方歳三の遠い親戚でした。
今日は甲州街道の日野宿の本陣と新選組のことなどについて書いてみたいと思います。
日野宿は甲州街道の5番目の宿場町であり、旧甲州街道は現在の甲州街道と同じ場所にあります。
宿場町として整備されたのは1605年(慶長10年)のことで、八王子宿を整備した大久保長安の手によって開かれました。
甲州街道は1685年以降、日野橋の開通までは、日野の渡しで多摩川を越えていました。大正15年(1926年)、日野橋の完成に伴い240年余年の多摩川の渡しの歴史が終わったのです。
本陣の建物は東京都内で唯一遺された江戸時代のままの建物です。公開されています。その前に広い無料駐車場がありますが、そこには佐藤彦五郎が天然理心流の道場を開いていました。
この道場で剣術を教えていたのが新選組局長、近藤勇だったのです。近藤と土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助ら新選組主要メンバーはここで剣術の稽古をしていたのです。
それでは家内が撮って来た写真をまじえて日野宿のご紹介をいたしましょう。

1番目の写真は日野市の中心の中宿にある本陣の門です。甲州街道を府中からやって来ると街道に面して左側にあります。車を左に入れれば門の左前に広い無料駐車場があります。
その駐車場に江戸時代に佐藤彦五郎が建てた天然理心流の道場があったのです。この駐車場の向かいに高札場がありましたが、現在は石碑が建つのみです。
2番目の写真は本陣の門を入った所にある江戸末期の本陣の建物です。大名や江戸幕府の高位の侍だけが出入りした大きな玄関があります。ここは始め脇本陣でしたが江戸末期に本陣になり佐藤家が代々本陣の主を務めていたのです。
3番目の写真は本陣の中に入り、内側から主玄関を見た写真です。
4番目の写真は本陣の中に入り、座敷から庭を見た風景です。この家は現在は日野市が所有し、保存、公開しています。
5番目の写真は本陣の中にある佐藤家と土方家の親戚関係を説明する図面です。
佐藤彦五郎は江戸末期の日野宿の名主で、土方歳三の姉のノブさんをを嫁に貰ったのです。その上、佐藤道場を開き、近藤勇を招いて、新撰組に参加した人々に剣術を教えて貰っていたのです。佐藤彦五郎は近藤勇の支援者でした。
6番目の写真は甲州街道を挟んで向かい側にあった日野宿の高札場のあった場所です。私が昔住んでいた家はここから1軒奥に入った所にありました。しかし住んでいたのは6か月だけでした。
7番目の写真は日野の石田寺にある土方歳三の墓です。写真の左です。その右側の小さめの墓が歳三のです。明治2年(1869年)、彼は函館で壮烈な戦死をしました。享年34歳でした。今でも函館の人々は彼を尊敬し、日野市に在住している歳三の親戚を函館に招いて交流を深めています。
8番目の写真は同じ日野にある宝泉寺にある井上源三郎の墓です。彼のお墓は写真の右端に写っている正方形に近い形のものです。
源三郎は心やさしい隊長だったようで多くの人がその優しさを讃え、現在でも追悼文を捧げています。

なお佐藤彦五郎の5番目の子供が彦吉と言い有山家へ婿入りした人で妻の親戚でした。
有山彦吉は維新後、渡米し日野宿の新しい発展の為に活躍しました。

今日は甲州街道の日野宿の本陣と新選組のことなどについて書みました。これも地方史のひとこまです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人) 
===新選組の評価の変遷=====================
明治時代は、新選組と敵対していた薩長出身者が政治の実権を握っていたこと、又皇国史観の影響により、賊軍となった新選組を否定する風潮が強かった。この為史学的な研究も遅れた。
大正時代に大佛次郎が著した小説『鞍馬天狗』でも、新選組は悪役として描かれている。但し、講談の影響で庶民からは一定の人気があり、『鞍馬天狗』の中でも近藤勇だけは他の隊士と違って人格者の豪傑として描かれていた。
昭和3年(1928年)に『新選組始末記』(子母澤寛)、『新撰組史録』(平尾道雄)が刊行されると、新選組は再評価され始めた。昭和8年(1933年)、警視庁に創設された特別警備隊(現在の警視庁機動隊)は、「昭和の新選組」の通称で親しまれた。
戦後は、映画やテレビドラマで新選組が主役に扱われることも多くなり、各隊士にもスポットが当てられるようになった。昭和40年代に放送された『新選組血風録』と、土方歳三が主役の『燃えよ剣』(司馬遼太郎原作、栗塚旭主演)で歳三が有名になりました。またNHKの大河ドラマにもなって新選組ブームが起きました。