後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日は面白い本をご紹介致します」

2018年10月05日 | 日記・エッセイ・コラム
面白い本とはアメリカ人のドニー・アイカーが書いた、『死に山』という本です。
分厚い350頁の本を手にした私は「これは飛ばし読みして筋だけ楽しもう」と考えました。
内容は1959年のソ連のウラル山脈の近くのオトルテン山に登ろうとしていた9人が全員遭難し帰らぬ人になった山岳遭難の話です。
この遭難事件では寝ていた9人全員が薄着のまま靴も履かずに、安全で温かいテントを飛び出して凍死したのです。真夜中に突然テントを内側から切り裂いて全員が飛び出したのです。
何故、急に飛び出したかが1959年から、この本の出版された2018年8月30日まで深い謎でした。ソ連国内では興味本位の本が数多く出版され、「ディアトロフ峠事件」として有名な遭難事件だったのです。

私はこの本の初めの部分を読み、途中は飛ばして最後の謎解きの部分だけを読みました。
成程、そんなことだったのかと納得して終りです。
しかし何時ものように著者のドニー・アイカーが書いた謝辞の部分だけは丁寧に読みました。
謝辞を読むとその本を書くための取材の深さと範囲が分かります。著者がその本を書いたときの姿勢や執念が判るのです。
嗚呼、これは生半可な本ではない!ドニー・アイカーは命を懸けて書いた本だ!
そこで初めから丁寧に読みはじめました。
訳文も良いのです。美しい日本語が流れています。訳者は安原和見というベテランの翻訳家です。
この本のクライマックスは最後の謎解きの部分です。しかし謎解きはここでは致しません。
そしてこの本が面白いのは次のようないろいろな内容が興味津々なのです。

(1)ドニー・アイカーは2度ロシアの現地を訪問しています。そのアイカーが根気よくロシア人達と友人関係になっていく過程が面白いのです。
「ディアトロフ峠事件」を知るロシア人は皆高齢者でスターリン時代に育っています。かたくなで昔敵だったアメリカ人のドニー・アイカーに心を許しません。これでは「ディアトロフ峠事件」の真相は聞き出せません。それを崩す過程が面白いのです。

(2)2度目の訪問の時、ドニー・アイカーは遂に9人が遭難死した現場まで登ったのです。そして自分独自の謎解きのヒントを得るのです。雪のオトルテン山めがけて登る冒険紀行が面白いのです。

(3)ドニー・アイカーは非常に人間的な男です。全ての人間に興味を持ち大切にします。
遭難死した9人を一人一人詳しく紹介し謎解きの背景を固めていきます。
特に現地の原住民のマンシ族に好意を持ち「ディアトロフ峠事件」のことを聞き出しています。

(4)遭難者の凍死死体が見つかったあとで遺族たちは盛大なお葬式をしようとします。しかしその地区担当の共産党書記が小規模な葬式にしろと命令します。
遭難の原因が解明出来ないのは共産党の失態になると考え、「ディアトロフ峠事件」は無かったものにしようとしたのです。
事件が起きた1959年は冷戦の厳しい時代でした。
1953年のスターリンの死後、フルシチョフらによるスターリン派に対する批判が展開されいたのです。
しかしソ連は共産党独裁が1990年頃まで続いたのです。この独裁制のもとで遭難者の捜索や発見された死体の検死の行われ方が興味深いのです。
ソ連時代の人々の関係や暮らし方が活き活きと書いてあるので面白いのです。

(5)最後にもっとも重要なことを書きます。
それはドニー・アイカーは人間愛に強い男だということです。
「ディアトロフ峠事件」で死んだ9人、病気になり途中で引き返したきた1人を等しく愛しています。特に途中で引き返したきた1人の心に寄り添い本音を聞き出しています。
遭難者の遺族にも慎重に会い彼等の心情を聞いているのです。
ドニー・アイカーは共産主義の批判を一切しません。キリスト教にも言及しません。しかし原住民のマンシ族の聖地のことは詳しく調べています。
共産主義もキリスト教も関係無く人間は人間として生まれるのです。その人間に対するドニー・アイカーの人間愛に私は感動したのです。
ちなみにドニー・アイカーは映画監督だそうです。

兎に角、いろいろな観点から実に面白い本です。

今日の挿し絵代わりの写真はウラル山脈の風景写真です。
写真の出典は、「ウラル山脈の厳しい冬の美しい写真」
http://osoroshian.com/archives/42220421.html です。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)







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