日本の放送局では差別用語を使わないようにしています。差別用語は具体的な例は「放送禁止用語」を検索すると多数の差別用語の一覧表が出ています。
我々のような戦前生まれの高齢者は差別用語の氾濫している社会で育ちました。「鬼畜米英」などと言って米英人を鬼や畜生と呼んでいたのです。
差別用語の氾濫する社会で育つとそのような言葉を使わないと自分の感情や考えを表現出来ないと思い込んでしまうのです。
最近、あるテレビ番組で高齢の女優が差別用語を沢山使い、それをテレビ局が謝罪したそうです。その女優には悪意はありません。ただ最近のに差別用語を使わないという社会、文化の変化について行けなかったのです。
差別用語の廃止運動はアメリカの黒人差別撤廃に関連してアメリカで始まった新しい文化のようです。キング牧師などの公民権運動のころからアメリカ社会に定着していったようです。キング牧師はインドのガンジーの無抵抗主義を尊敬し、自分でも無抵抗主義でした。
私は1975年頃、アメリカで差別用語を使ったために苦い経験をしました。
ある時、オハイオの原住民の文化を展示している博物館に行ったときのことです。受付の若い女性に入場料を払い。「ここにはインディアンの遺物の展示があるのですね」と言いました。
すると受付の女性はとても悲しそうな顔になって言うのです。「インディアンではありません。ネイテブ・アメリカンの博物館なのです。」
あの時の悲しそうな女性の顔が忘れられません。しかしその後も私は相変わらずインディアンという言葉を使い続けました。
西部劇で白人の乗った列車を襲うのは凶暴なインディアンです。そんな映画をさんざん製作してきたアメリカ人が手の平を返したように、急に原住民を保護し、大切にし始めたのです。当時の私は心の中でそんな軽薄な文化に苦笑いをしていたのです。
そして何十年か経過しました。21世紀になったころから私の心が少しずつ変わります。差別用語をつかうと知らず知らずのうちに自分が他人を差別していることに気がついたのです。
差別用語を使うと自分が何故かみじめになるのです。
人間はみな平等と言いながら、それに矛盾した言葉を使うことはやっぱりいけないことです。このように感じ始めたのです。差別用語はその個人の心の貧しさです。他人の心の痛みに鈍感なことを示しているのです。
現在、日本では放送禁止用語が定着して個人の肉体的な差別用語は誰も使わなくなりました。
ところが韓国人や中国人に関する差別用語が多くなってきたことに憂慮しています。それは結局のところ日本人の品格を貶めているのです。
朝鮮民族のことを朝鮮人と言えば差別用語になります。中国人のことをシナ人と言えば差別用語になります。このように書くと欧米人が朝鮮半島やシナという言葉を使っているのに何故日本人が使うと差別用語になるのかと詰問してくる人がいます。
答えは簡単です。日本人が使うと彼等の心が痛むからです。「他人の心を痛める可能性のある言葉」が差別用語なのです。このように書いても分からない方もいます。
しかし私は反論も議論もしません。私は悲しむだけです。
オハイオ州の博物館の受付の女性の悲しそうな顔を思い出すだけです。「インディアンではありません。ネイテブ・アメリカンの博物館なのです。」という言葉を噛みしめています。
最後に差別用語に関連して、もう一つ「ヘイト・スピーチ」について書き加えます。
他人や他民族を憎み憎悪のセリフを言うことを「ヘイト・スピーチ」と言います。先の国会で野党が「ヘイト・スピーチ禁止法案」を提出しようとしましたが廃案になりました。
このようなことは国民の良識に任せるもの良いのではないでしょうか?
今日の写真は先週撮った甲斐駒岳の山麓の山郷も風景写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
我々のような戦前生まれの高齢者は差別用語の氾濫している社会で育ちました。「鬼畜米英」などと言って米英人を鬼や畜生と呼んでいたのです。
差別用語の氾濫する社会で育つとそのような言葉を使わないと自分の感情や考えを表現出来ないと思い込んでしまうのです。
最近、あるテレビ番組で高齢の女優が差別用語を沢山使い、それをテレビ局が謝罪したそうです。その女優には悪意はありません。ただ最近のに差別用語を使わないという社会、文化の変化について行けなかったのです。
差別用語の廃止運動はアメリカの黒人差別撤廃に関連してアメリカで始まった新しい文化のようです。キング牧師などの公民権運動のころからアメリカ社会に定着していったようです。キング牧師はインドのガンジーの無抵抗主義を尊敬し、自分でも無抵抗主義でした。
私は1975年頃、アメリカで差別用語を使ったために苦い経験をしました。
ある時、オハイオの原住民の文化を展示している博物館に行ったときのことです。受付の若い女性に入場料を払い。「ここにはインディアンの遺物の展示があるのですね」と言いました。
すると受付の女性はとても悲しそうな顔になって言うのです。「インディアンではありません。ネイテブ・アメリカンの博物館なのです。」
あの時の悲しそうな女性の顔が忘れられません。しかしその後も私は相変わらずインディアンという言葉を使い続けました。
西部劇で白人の乗った列車を襲うのは凶暴なインディアンです。そんな映画をさんざん製作してきたアメリカ人が手の平を返したように、急に原住民を保護し、大切にし始めたのです。当時の私は心の中でそんな軽薄な文化に苦笑いをしていたのです。
そして何十年か経過しました。21世紀になったころから私の心が少しずつ変わります。差別用語をつかうと知らず知らずのうちに自分が他人を差別していることに気がついたのです。
差別用語を使うと自分が何故かみじめになるのです。
人間はみな平等と言いながら、それに矛盾した言葉を使うことはやっぱりいけないことです。このように感じ始めたのです。差別用語はその個人の心の貧しさです。他人の心の痛みに鈍感なことを示しているのです。
現在、日本では放送禁止用語が定着して個人の肉体的な差別用語は誰も使わなくなりました。
ところが韓国人や中国人に関する差別用語が多くなってきたことに憂慮しています。それは結局のところ日本人の品格を貶めているのです。
朝鮮民族のことを朝鮮人と言えば差別用語になります。中国人のことをシナ人と言えば差別用語になります。このように書くと欧米人が朝鮮半島やシナという言葉を使っているのに何故日本人が使うと差別用語になるのかと詰問してくる人がいます。
答えは簡単です。日本人が使うと彼等の心が痛むからです。「他人の心を痛める可能性のある言葉」が差別用語なのです。このように書いても分からない方もいます。
しかし私は反論も議論もしません。私は悲しむだけです。
オハイオ州の博物館の受付の女性の悲しそうな顔を思い出すだけです。「インディアンではありません。ネイテブ・アメリカンの博物館なのです。」という言葉を噛みしめています。
最後に差別用語に関連して、もう一つ「ヘイト・スピーチ」について書き加えます。
他人や他民族を憎み憎悪のセリフを言うことを「ヘイト・スピーチ」と言います。先の国会で野党が「ヘイト・スピーチ禁止法案」を提出しようとしましたが廃案になりました。
このようなことは国民の良識に任せるもの良いのではないでしょうか?
今日の写真は先週撮った甲斐駒岳の山麓の山郷も風景写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)