後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ドイツ留学で受けた影響」

2024年12月04日 | 日記・エッセイ・コラム
老境に至って自分の人生を振り返ると、外国への留学で深い影響を受けたことをつくずく思います。
今日はドイツでどのような影響を受けたか二つほど書いてみます。
1番目の写真は木造家屋が並ぶ、ドイツのレグニッツ川沿いの風景です。出典は、https://tabizine.jp/2017/09/25/146378/2/です。
ドイツでの生活は1969年夏のにローテンブルグでの3ケ月間のドイツ語研修から始まりました。そしてその後、シュツットガルト市にあるマックス・プランク金属研究所で1年間の研究生活をしました。シュツットガルト市に移るとすぐに家内と子供2人を呼びました。
ドイツは気候も社会も若い頃留学したアメリカのオハイオ州とは全く違うのです。
それはさておき、まずはじめに受けた大きな影響を書きます。
それはドイツの暗くて寒い冬の影響でした。その長い冬を体験した結果、ドイツの文化を理解するためにはこの冬の厳しさを考慮に入れて考えるべきと思ったのです。
これは重要なことで、その後、私がいろいろな外国の文化や社会を考える時、必ずその国の天候や自然条件を考慮に入れるようになったのです。
私が外国を理解するとき天候や自然の条件を考慮に入れるように変わったのです。
もう一つドイツで受けた大きな影響は歴史に関する考え方です。
不思議なことにドイツの研究所の実験室に必ず冷蔵庫があってビールが沢山入っています。実験に疲れたとき1、2本水がわりに飲むのです。そんな折りの雑談の話題は決まったように中世の「30年戦争」のことなのです。
私は日本の学校で「30年戦争」がそんなにドイツにとって重要だとは習いませんでした。ですから「30年戦争」など記憶になかったのです。
ところがドイツ人はビールを飲むたびにこれを話題にして喧々諤々の議論をするのです。
人々が習う歴史とは国々によってまったく違うという事実です。
この世に絶対的に正しい歴史などは存在しないのです。

ドイツ留学で受けた影響はもっといろいろありますが、今日はこれぐらいにします。添付の写真は南ドイツのバンベルクの町の風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


「ドイツのクラウシュタール工科大学ルへの留学」

2024年12月04日 | 日記・エッセイ・コラム

ドイツのシュトッツガルト市に1969年から1年4ケ月間住んでドイツの文化が好きになり1974年に再度ドイツに留学しました。ハルツ山地にあるクラウシュタール工科大学です。4ケ月間でした。そこのシュマルツリードという先生と共同研究をしました。

ドイツの工科大学で有名なのはベルリン工科大学、アーヘン工科大学、クラウシュタール工科大学の3つです。クラウシュタールは森の中の寂しい小さな町でした。隣のツェラーフェルト町と一緒になってクラウスタールツェラーフェルトという行政区になっていました。

そのクラウスタールツェラーフェルトはハルツ山地の南西部にあります。(https://en.wikipedia.org/wiki/Clausthal-Zellerfeld )

クラウスタール・ツェラーフェルトはもともと2つの町で構成されていましたが、1924年に合併して行政単位になりました。

クラウスタール工科大学は小さな大学です。しかし大学ランキングではドイツの工学部のトップにランクされています。学生の30%以上と教員の20%以上が海外から来ており、ドイツで最も国際的な大学の1つとなっています。また非常に高い留学生の割合を持っており、過去10年間で25%から38%の範囲です。ドイツで中国人学生の割合が最も高いです。少し写真を示そうと思います。

1番目の写真はハルツ山地の森です。クラウスタールの町は森のはずれにあります。

2番目の写真は観光案内書です。

3番目の写真は昔の鉄道駅です。

4番目の写真は昔の学校です。

1974年に再度ドイツに留学したクラウシュタールの町をご紹介致しました。4ケ月間滞在しました。シュマルツリードという先生と共同研究をしたのでです。何も無い淋しい町でした。でも懐かしいドイツの町です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「あるドイツの友人の旅立を悲しむ」

2024年12月04日 | 日記・エッセイ・コラム
人間は後期高齢者になると友人たちが一人一人と旅立って行きます。自分と同じ位の年齢の友人が先に逝ってしまうのは淋しいものです。ドイツの友人のグーデナウさんが2019年に亡くなりした。
彼との交友の思い出を書きます。冥福を祈りつつ書きます。
彼と最初に会ったのは1970年にドイツ西部のアーヘン工科大学を訪ねた折でした。アーヘン工科大学には鉄冶金の研究で有名なシェンク教授がいたので憧れていたのです。しかしシェンク教授は引退してしまって会えませんでした。その代わり私を暖かく歓迎してくれたのがグーデナウさんだったのです。彼は私と同じくらいの年齢でしたので自然と友情が生れたのです。

1974年に再びアーヘンを訪問したときは彼は自分のスポツカー、ポルにシェに私を乗せあちこちに連れて行ってくれたのです。
まずアーヘン市内の古代ローマの遺跡へ案内してくれました。アーヘンに近いベルギーへも観光に連れて行きました。
そして彼の実家に泊まり掛けで招待してくれたのです。
両親はもういませんでしたが工場経営者だった父の思い出を聞きました。

そんな縁で私の大学の研究室の雀部実さんをアーヘン工科大学へ招聘してくれたのです。
その後、鉄鋼会社の日本鋼管がグーデナウさんを顧問として日本に招いたのです。
グーデナウさんの日本滞在中は私の研究室によく出入りして、若い大学院生たちと一緒にビールを飲んだのです。
特に博士課程の板谷宏さんとはとても親しく交わっていました。

ある時はグーデナウさんと研究室の若い人たちが甲斐駒岳の麓の山林の中の私の小屋にも来てくれました。
麓の酒屋さんに頼んで小さい木の樽に詰めた生ビールを私の小屋まで運び上げて貰ったのです。
それは星の美しい夏の夜でした。あの時の木の樽の生ビールの美味しかったことが忘れられません。
私の家にも何度か遊びに来ました。大柄な体格で陽気な性格でしたので日本人の友人も沢山出来たようです。

グーデナウさんは日本語が出来ませんでしたが日本人に分かり易い英語でゆっくり話してくれたのです。
その後、私は何度かドイツに行ったときはアーヘンのグーデナウさんを訪問しました。その頃はかつてのシェンク教授の後継者の教授になっていました。
もう随分前に私も大学を引退し、久しくグーデナウさんと会っていませんでしたが彼の友情を終生忘れません。

今日の挿し絵代わりの写真は彼の実家の庭で咲いていたドイツの夏の花々の写真です。写真の出典は、https://jp.123rf.com/photo_82873405_ドイツの夏の中でバラの芳香花.html?fbclid=IwAR22SMycwFa8dViVnJnI73y2tcPQiftH5q7cbmmW0dNPmfHmt7KKUgby35Q です。

さて高齢者の皆様にも先立たれる友人達の思い出が沢山あると存じます。こうしてその思い出を書くのも供養の一つの方法と思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「ドイツの戦災の惨禍と冬のドイツの思い出」

2024年12月04日 | 日記・エッセイ・コラム
今日はドイツの戦災の惨禍と冬のドイツの思い出を書いてみたいと思います。
さて伊澤孝平著、「そういう時代の旅と人」という本の69ページに書いてあります。
「ドイツへ行って沁々と感じたことは、戦争の惨禍ということである。
どんな犠牲を払っても、この地上から戦争を無くすることは、人類に課せられた使命であると思った。徹頭徹尾戦った国ほど荒廃している。風車が清流に影を浮かべているオランダの美しさ、豊かさと、ドイツの惨めさとを比較して特にそう思った。・・・」
著者の伊澤孝平氏はライン河に沿って、デュッセルドルフ、ケルン、コベルンツ、アルト・ハイデルベルヒ、シュツットガルト、カールスルーエと戦火に見舞われた街々を巡ったのです。
当時は戦後8年もたっていたのですが、街々にはまだまだ爆撃で破壊された建物が残っていたと書かれています。
その様子を、「大戦中のヨーロッパの写真」(http://www.inspiration-gallery.net/.../europe-during-ww2-38/)から下にご紹介いたします。

1番目の写真には米軍兵士が乗ったジープが写っています。
下の2番目の写真には爆撃でねじまがった橋を自転車とともに渡ろうとしている住民を米軍兵士が助けています。
このような時代がヨーロッパにあったのです。

2番目の写真は爆撃でねじまがった橋を渡ろうとしている住民と米軍兵士です。
そして著者の伊澤氏は戦争中には仙台市に住んでいたので「仙台の大空襲」を体験しているのです。1945年の7月10日にB29が百機以上来襲して仙台市を一挙に焼き尽くしたのです。私は高台から燃えさかる街々を長い間見下ろしていました。
さて私も1970年にシュツットガルトに家族と共に住んでいたのです。
ドイツは独特な文化を持っています。伝統を大事にし静かな思考を大切にします。街を歩くドイツ人は決してイタリア人のように陽気でありません。フランス人のようにお洒落をしません。何時も真面目で堅い雰囲気を持っています。
ドイツでの生活は1969年夏のにローテンブルグでの3ケ月間のドイツ語研修から始まりました。そしてその後、シュツットガルト市にあるマックス・プランク金属研究所で1年間の研究生活をしました。

3番目の写真は寒々とした冬のドイツの風景です。

4番目の写真は雪に覆われたドイツの古い町です。

5番目の写真は冬のシュツットガルト市の街路にたつ市です。近くの農民が作物を売っています。
私どもが住んでいたような古いアパートでした。墓地のそばにあり3階に住んでいました。家からは娘の行っていた小学校、息子の幼稚園はすぐ近くにありました。八百屋や花屋が近所にある住宅街でした。
ドイツの冬は暗くて寒いのです。その長い暗い冬を体験した結果、ドイツの文化を理解するためにはこの冬の厳しさを体験すべきだと思ったのです。
今日はドイツの戦災の惨禍と冬のドイツの思い出を書きました。シュツットガルトのマックス・プランク金属研究所で働いていた頃の思い出です。シュツットガルトはスイスに近い場所です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)